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金印の発見と江戸時代の邪馬台国研究



	天明四年(1784)二月二十三日,筑前の国那珂郡志賀島の或農民から黒田藩に届け出があった。
	この農民の名は甚兵衛といい,耕していた田畑から金の印章を発見した,というものであった。その時の届け出書
	も現存しており,甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵,組頭吉三,勘蔵の名がある。この金印
	発見のいきさつについても諸説あり,甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人が発見したという説もある。印には
	『漢委奴国王』と刻文があった。発見当時,黒田藩ではこれを儒学者達に鑑定させている。藩校修猷館の館長・教
	授達が,数人がかりで出した結論は,漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり,安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき
	海中に没したが,志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。地図を見れば一目瞭然だが,壇ノ浦から博多
	湾へ物が流れ着くには相当な無理がある。対馬海流は日本海へ流れているはずであるが,よしんば流れ着いたとし
	ても,海岸から上陸して畑へ入り,自ら石の下へ潜り込んだとすれば,さすが光武帝の印章だわいという事になる。
	珍説とはこういうのを言うのだろう。

	金印発見のニュースは,当時としては異例の早さで中央に伝わったらしい。掘られた刻文の読み方について多くの
	学者が書き記している。京都の国学者藤貞幹(とうていかん)は,発見から一月あまりで,委奴は倭奴(いと)で
	あるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印である,という説を発表した。大阪の
	上田秋成もこれを支持している。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840〜91)が明治二十年代に「漢(かん)
	の委(わ)の奴(な)の国王」という読み方をあみ出し,三宅米吉がこれを発表してからは,それがほぼ定説とな
	り,現在では金印は,後漢書・光武帝本紀に書かれている,「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり,漢
	の光武帝が奴国の王に与えた印そのものである,という事になっている。発見当時から金印贋作説もあったが,金
	印論議の中、次第に鳴りを潜め今日に至っている。


                                  

	さて,新井白石,本居宣長以後の邪馬台国研究であるが,宣長以後邪馬台国は筑紫であるという意見が大勢を占めて
	いたと言える。これは,科学的な分析や史料検討の結果ではなく,学者達の国粋主義的性向から導き出された結論で
	あった。宣長は,我が国の朝廷を神格化するあまり,漢に貢ぎ物をしたり漢の皇帝から倭の国王を名乗る事を許され
	たり,まるで我国が漢の従属国のように扱われるはずがない,と考えていた。従って,漢に朝貢などしたのは九州に
	すむ熊襲の類であって断じて日本の天皇ではない,と主張したのである。
	金印発見は宣長の生存中であったが,宣長が金印について書いた論文は残っていない。しかし,知人からの質問に答
	えた手紙で金印に触れている。そこでも,これは熊襲の類が勝手に漢へ行って貰ってきたものだから尊ぶ必要はない,
	ただ相当古いものではあるので珍しいものとは言える,等と述べている。
	宣長以後,鶴峰戊申(1788〜1859)や近藤芳樹(1801〜80)などが宣長の説を発展させたが,文化三年(1806)に『中外
	経緯伝草稿』を著した伴信友(1773〜1846)は,邪馬台国を九州ではなく大和であると主張した。大和説の復活である。
	伴信友は,卑弥呼は姫子(ひめこ)を魏の使いが聞き誤ったもので神功皇后の事である,とした。又,邪馬台国は大
	和の国の事だが,魏の使いは大和まで来ておらず,伊都国王あたりが応対しその伝聞で倭人伝が書かれている,とし
	た。それ故,金印も伊都国王が貰ったのである。
	神功皇后は魏を征服する野心があったので,九州の蛮族に命じて魏と折衝させていた,と解釈している。九州と大和
	と場所は違うが,皇国の威厳を保つために倭人伝を理解しようとした目的は,江戸時代宣長以後殆ど一貫している。


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