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最初の邪馬台国研究者は誰?


	日本の史書で,「邪馬台国」についての記事が現れる最初の文献は「日本書紀」の神功皇后摂政紀である。      
	邪馬台国,卑弥呼という文字が出てくるわけではないが,魏志に曰くとして,景初三年倭の女王が使いを送ったと記され
	ている。これ以降,幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が現れるが,いずれも倭人伝の簡単な紹介で,暗に卑弥呼は神功
	皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていない。

	我が国における本格的な邪馬台国研究の先駆者は,新井白石である。新井白石は,正徳六年(1716年)に完成させた『古
	史通或問』において,「魏志は実録に候」と述べており,魏志倭人伝に現れる倭の国々を実在の地名に比定していった。
	対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前の國松浦郡といった,現在でもほぼそうであろうと考えられている比定地  
	は,彼が最初に著したのである。又,倭人伝に記されている年代や官名,風俗等についても考察し,白石以前の記事が,
	倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると,はるかに科学的・実証的な研究を行ったと言える。
	彼も又,卑弥呼は神功皇后であるとして,日本書紀以来の呪縛から抜け切れていないが,邪馬台国問題は彼によって初め
	て学問として研究する対象となったと言えよう。

	しかしながら,『古史通或問』で彼は邪馬台国は大和の國であるとしながら,その後に著した『外国之事調書』では, 
	邪馬台国は筑後の國山門郡であると書いている。即ち,邪馬台国大和説から九州説に転じた事になる。尤も,『古史通或
	問』と『外国之事調書』はいずれが先に著されたものか判然としない点もあり,そうなると九州説から大和説に転じたと
	も言えるのである。

	つまり,新井白石は,我が国邪馬台国研究の先鞭をつけたと同時に,今日までの論争の火種をも自分自身で創出している
	のである。

	新井白石が世を去って5年後に生まれた本居宣長は,『古事記伝』の大著を著し,邪馬台国研究を更に掘り下げたものに 
	した。彼は白石ほど倭人伝を信用せず,中国の史書に対して多くの疑念を持っていた。倭人伝の多くの記事を「これは間
	違い」「これは一月ではなく一日の誤り」などとして,邪馬台国は筑紫にあり,卑弥呼は,熊襲の類が神功皇后の名を語
	るのに用いたものであるとした。皇朝(すめらみかど)の臣宣長としては面目躍如であるが,今日にも見られる原文の恣
	意的解釈は,本居宣長に始まったとも言える。

	あらゆる意味において,この二人が邪馬台国研究の先駆者と言えるが,二人の方法による邪馬台国論がその後,明治, 
	大正,昭和,平成に渡って延々と続く事になる論争の原点とも言える。


邪馬台国大研究ホームページ / inoues.net / 研究史1