Music: Octopuss' Garden 

今城塚古墳 第5次発掘調査現地説明会 2001.9.23(日曜日) 大阪府高槻市奈佐原

	
	2001年09月20日、大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳(国史跡、全長約190メートル)から、推定で高さ
	約170センチの国内最大級の家形埴輪(はにわ)が出土したと、高槻市教委が20日、発表した。これまで類例の
	ない形状をした家形埴輪に加えて、巫女埴輪や武人、鶏などをかたどった埴輪も一緒に出土しており、120点を超
	える埴輪群は、大王(継体天皇)の葬送などの儀式を再現したものとみられる。家形埴輪は神殿風で、市教委は「当
	時の大王の葬送儀礼の情景を埴輪で表現し、古墳の外から見えるようにした可能性がある」としている。家形埴輪は、
	王宮の建物を模したものではないかと新聞も報(崩?)じている。

	高槻市による現地説明会が、23日午前10時から午後3時にわたって行われ、私は11時頃から行列に参加した。
	JR東海道線摂津富田駅でおりて、「奈佐原」行き市営バスで「福祉センター前」下車となっていたが、市営バスの
	臨時便が古墳前まで運行されていた。

     





 

 

 


	今城塚古墳は6世紀前半に築かれた全長190メートルの前方後円墳。上の写真の森のように見えている奥が後円
	部にあたる。市教委によると、埴輪群は古墳北側の外濠(ぼり)と内濠の間にある堤の中央(上4枚の写真)で確
	認された。約125平方メートルの狭い範囲に家形埴輪4点、
	武人2点、巫女6点、力士2点のほか、鶏や馬など動物をかたどった埴輪などが配置されていた。人物や動物など
	の埴輪も築造時のままの位置で整然と並び、大王(天皇)の葬送儀礼の様子がうかがえるという。
	大王級の古墳は、宮内庁が「陵墓」として指定し発掘出来ないケースがほとんどで、市教委は「大王陵の葬送儀礼
	の実態を解明し、全国の古墳祭祀の基準にもなる初めての貴重な資料」としている。ほんとに、当日の説明会資料
	のように復元されれば、当時の葬送にまつわる儀式の具体的内容が今後明らかになることだろう。





 


	行列がぐるりと外堀を取り囲み、発掘現場を横目で見ながら反対方向へ行列は進んでいく。またUターンして戻っ
	てくるのだ。一体何時間待つのだろうかと思ったが、今日は割と早かった。1時間ちょっとで発掘現場へ来た。奈
	良あたりの説明会だとまず倍はかかる。

 


	上左の奥が行列の最後尾。壕を渡って堤の上をまたあのあたりまで戻るのだ。太公望達もみんなに釣果を聞かれて
	やりにくそうだった。








	長さ1メートル前後の6点の大刀の埴輪が盾の埴輪と共に地面に突き刺す形で並べられ、さくの埴輪の列や円筒埴
	輪列とともに区画割りされていた。大刀は「玉纒大刀(たままきのたち)」と呼ばれる貴重な大刀。この区画割り
	の中に家形埴輪が点在し、周囲には人物や動物の埴輪が列や群をなしたり、北や西など特定の方向を向いた形で配
	置されている。



 

	家形埴輪は、土台には直径約13センチの円筒の柱が残り、神社建築の屋根に特徴的な千木(ちぎ)や堅魚木(か
	つおぎ)を備え、うち3点は円柱12本の総柱で高床を支える珍しい形状になっている。1点は復元すると、推定
	高さ1・7メートル程度、間口110センチ、奥行き80センチで、同古墳で76年に出土した国内最大の家形埴
	輪(高さ1・59メートル、間口82センチ、奥行き57センチ)を超える埴輪となるそうである。 
	出土時の様子では、巫女が並び、いすに座った身分の高い人物らしい埴輪が整然と配置されていることから、市教
	委は大王の葬送儀礼を模したものとみている。埴輪の多くは破損しており、今後1年がかりで復元作業が進められ
	る予定だそうだ。



 







 


	現場は、古墳北側にある内濠と外濠を仕切る内堤の中央部。内堤(幅約18メートル)には2列の円筒埴輪列(計
	約60点)があり、外側の円筒埴輪列よりさらに外側に、約5メートル張り出して造成した部分(約126平方メ
	ートル)に、家形埴輪4点のほか、人物埴輪(よろいや大刀(たち)を身に付けた武人2点、皿を手にした巫女
	(みこ)6点、力士2点など)、動物埴輪(馬1点、ニワトリ1点、水鳥7点など)器物埴輪(大刀6点、盾1点
	など)の形象埴輪の破片など計約60点があった。





 


	説明パネル横の青いテントの中には、地中から取り出した埴輪の断片が置かれていた。一段落したら高槻市役所の
	ロビーでしばらく展示されるそうだ。



 






	臨時バス停となっていたコミュニティー・センター前の植え込みには、以前の調査で発掘された埴輪のレプリカが
	おいてある。

 

 

咲き遅れのヒマワリと、今が旬のコスモスが並んで咲いている。まさに秋の空である。







 







継体天皇


	宮内庁は、同古墳から西へ約1.5キロ離れた大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定しているが、埴
	輪などの研究から継体天皇が亡くなった6世紀前半より1世紀ほど古い古墳の可能性が高く、今城塚古墳が真の継
	体天皇陵という見方が学会では定着している。同古墳は国の史跡で、高槻市教育委員会が97年から発掘調査を続
	けている。

	継体天皇(507〜531年)は 記紀によると越前(福井県:日本書紀)か近江(滋賀県:古事記)の出身とさ
	れ、後継ぎのいなかった武烈天皇の死後に即位した。樟葉宮(大阪府枚方市)など、当初は主に淀川水系沿いに宮
	を構え、摂津国島上郡に埋葬されたとされる。没年は文献によって異説もある。
	宮内庁は太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定しているが、今回見つかった埴輪群も天皇陵にふさわしい規模と内容
	で、ここが真の継体天皇陵とされる通説はどうやら今回の発掘で、定説となりそうである。宮内庁は、指定を変更
	しないのなら、太田茶臼山古墳を開けて、大王墓の実態を公開するしかない。同じクラスの大王陵であれば、太田
	茶臼山古墳もまだ継体陵の可能性が残る。いずれにしても、今城塚古墳が大王級の陵墓であることは明らかだし、
	ここの調査がどんどん進む事によって、未解明の天皇陵の実態を知る貴重な手がかりが増えていくことになりそう
	だ。



邪馬台国大研究・ホームページ / 継体天皇シリーズ / 今城塚古墳