Music: Godfather


岳の辻(たけのつじ)
壱岐は長崎県に属している。地理的には福岡県のほうが近いので、行政上もそうだろうと思っている人がいるが、歴史的に
は江戸時代も、壱岐は平戸藩の管轄下にあった。対馬は対馬藩として江戸時代前から独立した行政区だった。今は両島とも
長崎県に属し、九州と朝鮮半島の間にあり、古くから中国大陸や朝鮮半島と日本を結ぶ交流の拠点として重要な役割を果た
してきた場所である。
壱岐は福岡県博多港からフエリ−船で約2時間半、高速船なら約1時間の距離だ。ここから対馬も高速船で約1時間である。
佐賀県呼子町からも船で約1時間の距離にある。島の地形は全体的に平坦で、213mの岳ノ辻(たけのつじ)が島内の最
高峰で、島の東南部に「深江田原」(ふかえたばる)とよばれる長崎県第2の平野があり、諫早平野につぐ広さである。
「原の辻遺跡」はこの平野の中にある。遺跡の北側には島内最大の幡鉾川(はたほこがわ)が東西に流れ、内海(うちめ)
に注いでいる。魏の使者もこの幡鉾川を遡り、壱岐国の王都「原の辻」へ到達したものと考えられている。タイムマシンが
あったら是非とも見てみたい光景ではある。

NTTのアンテナ塔の脇に、民俗学者「釈超空」(本名・折口信夫(1887−1953)の歌碑がある。
「蔦の花ふみしだかれて色あたらしこの山道をゆきし人あり」
彼は大正14年(1924)に来島し、この歌を作ったという。


壱岐最高峰・岳の辻(213m)展望台から眺めた郷ノ浦湾。「玄界灘に浮かぶ緑の島」というキャッチフレーズがぴった
りの緑の島である、360度の展望は実に素晴らしい。東の方に「原の辻」のある深江田原平野がわずかに見えている。

岳の辻山頂にある烽火台の跡。来寇を急報する狼煙(のろし)台跡という説と、白村江で負けた天智天皇が唐・新羅軍の来
襲を恐れてここに造ったものという説があるようだ。壱岐は昔から国防上重要な拠点であった事は確かで、島で一番高い所
に見張り台を置くのは何時の世でも同じなのだろう。今はNTTが電気通信の狼煙台を建てている。
左京鼻(さきょうばな)

芦辺町は壱岐の北東部にあり、博多港との距離は約67kmと、船舶の航路の最短距離である。この町には、重要文化財であ
る安国寺の高麗版大般若経、弘安の役瀬戸浦古戦場、鬼の窟(いわや)古墳など、歴史的に貴重な文化財が多い。この町の
八幡半島の東海岸に、草原に覆われた岬があり、その海面に突き立った岩峰が見える。「左京の鼻」と呼ばれ、玄界灘を望
む実に風光明美な所である。
山口さんと一緒だったが、一人で見るのはもったいないような景色だった。家族や友人達に見せてやりたい。
昔、命を賭して雨乞いをした後藤左京からその名がつけられたと解説にある。玄海の荒波が、左京鼻で砕けて飛沫をつくる。


少弐(しょうに)公園

芦辺港から車で5分程のところにある。弘安の役「瀬戸浦古戦場」という史跡で、弘安4年(1281)、蒙古軍の襲来の際、
これらを迎え討ち、若干19才で討死にした当時の壱岐の守護代 少弐資時(しょうにすけとき)の墓がある。

壱岐は、1274年・1281年の二度にわたる蒙古軍の襲来によって、ほぼ全滅の状態になるが、なかでも、1281年の弘安の役で
は、大宰府の命をうけた若冠19歳の少弐資時が、雲霞のごとき蒙古軍をここ瀬戸浦に迎え撃ち、壮烈な最期を遂げた。
元軍は島民にも暴虐の限りを尽くし、芦辺町には千人塚、千人供養、中島塚、八ツ塚、裏町の千人塚、千人堂などが残る。
「かくれ穴」も町内随所にあり、いかに島民が悲惨な目に遭ったかが偲ばれる。

少弐氏はもと武藤姓を名乗る武蔵国出身の武家の名門で、資時の曽祖父、武藤資頼が太宰少弐に任命されて以来、武藤氏が
太宰少弐の官職を代々務めることになり、少弐姓を名乗るようになったという。資時はこの名家の三男だった。少弐資時が、
何処で討ち死にしたかについては諸説あり、「壱岐島前に於いて討死」、「元軍の船から発された火砲の弾が当って死んだ」、
「居城の船匿(かくし)城で全滅」、「ショウニバツケ(少弐畑)」などの話が伝わる。おそらくは、激戦の結果その死骸
も確認されていないのだろう。両軍の戦闘がいかに激しかったかを物語っているともいえる。
しかし19才という年齢を聞くと、いかに守護職が領民のために外敵と戦う役目だとは言え、その責務の余りの重さに同情
を禁じ得ない。現代の19歳との余りの違い。私がその任にあったとしたら一体どうするだろうか。人はその立場・状況に
置かれたら年齢などには関係なく努めを果たすのかもしれない。


芦辺港は壱岐島の東の玄関口である。かつては“芦辺湾”と呼ばれ、港を隔てて向かい合った北側の瀬戸浦は漁業が盛んで
ある。かっては鯨を捕っていたという話を山口さんがしてくれて、その時の堤防や古い港がこの公園から見えている。「鯨
の墓」も近くにある。芦辺港は博多−壱岐間の最短距離(67キロ)にあり、郷ノ浦港とともに九州郵船の定期フェリーやジ
ェットフォイルが運航、対馬との中継地にもなっている。

上左の歌碑は「孤島の丘」という、少弐資時を称えた民謡らしい。詳細は山口さんのHP「壱岐の元寇」の中の「弘安の役」
に詳しい。右側の湾は「恵比寿浦」といい、沖に大敷網がはられてブリなどを獲っているそうだ。
勝本(かつもと)城跡

勝本港を見下ろす丘の上にあり、風本城・武末城・雨瀬包城ともいう。豊臣秀吉は挑戦出兵に際して肥前名護屋城を本営と
したが、それと共に壱岐・対馬にそれぞれ出城を築き、その兵站基地とした。この壱岐の出城が勝本城である。築城には松
浦鎮信があたり、有馬晴信・大村善前・五島純玄の三氏がこれを補佐し、およそ4ヶ月の突貫工事で天正19年(1591)末
に完成した。そして秀吉の弟秀長の家臣本多因幡守正武がこれに入部し、慶長3年(1598)までの7年間機能をはたして破
却された。山頂に本丸跡があり、わずかに残る大手門の石垣が当時をしのばせる。現在は「城山公園」になっており、壱岐
で死んだ「曾良」の句碑などがある。昭和46年に武末城跡として県指定され、平成14年3月、国指定史跡となった。


「河合曾良」(かわいそら)は蕉門十哲の一人として有名な、江戸時代の俳人。松尾芭蕉の「奥野細道」の旅に従い、後世
に「曽良隋行日記」という旅日記を残している。対馬に向かう途中病に倒れ、勝本で没した。曾良は勿論知っていたが、こ
こで死んだのは知らなかった。山口さんによれば、壱岐では今も句会が盛んだそうで、この曾良の碑は昔の「北斗会」の俳
人達が建てたものだそうだ。すぐ側に、昭和20年機雷に触れて沈没した珠丸(たままる)の慰霊碑が建っている。

半日壱岐の島を案内してくれた山口さん。元学校の先生だけあってさすがに色々と詳しい。
勝本城跡展望台から見る光景も絶景である。玄界灘が見渡せる。湾の前に浮かぶ3つの島が玄界灘の荒波を引き受けて、そ
のおかげで勝本港は年中穏やかなのだそうだ。一番左に見えている島の海岸が、近辺では最高の海水浴場で、一度あそこで
泳いだら他では泳げないと言う。
勝本港は対馬海峡に面し、古代から北の玄関口として大陸交通の要衝として栄え、江戸時代は捕鯨基地としても栄えた港町
である。一寸前までは定期船も通っていたらしいが、今は漁業港で、イカ、ブリ、タイなどの漁業を中心とした約700隻
の漁船を有する西日本有数の漁業基地となっている。

壱岐風土記の丘

壱岐風土記の丘は、掛木古墳・百合畑古墳・笹塚古墳などの古墳群と、生池城跡、江戸時代の壱岐独特の古民家を移築復元
したもの等々で構成されている。民家を集めた民家園見学は有料で、さほど興味もないので、駐車場の横にあった掛木古墳
を見に行った。無料で石室の内部まで見ることができる。
壱岐は古墳が多く長崎県の古墳の約60%、270基は壱岐にある。その中でもこの付近は古墳が多く、掛木古墳や百合畑
古墳群、笹塚古墳などが見学できるそうだ。笹塚古墳からの出土物は「原の辻展示館」にいくつか展示されていた。

解説をメモ代わりにデジッたがあまりよく読めない。無精せずにちゃんと読むべきだな。

掛木古墳は、古墳時代後期(7世紀頃)に造られた古墳で、直径約20mの円墳である。長崎県下で唯一の「刳抜式家形石
棺」を持ち、資料としても貴重なものとされている。「刳抜式家形石棺」とは、古墳時代の石棺の一種で、蓋が屋根の形を
しているもので、古墳時代の中期頃〜後期に多く築造された。石室は、前室・中室・玄室からなっており、全長約13m。
玄室には家形石棺がある、はずなのだが無い。屋根形をした蓋石は欠けていて、半分も残っていない。棺の長さは約2m、
巾が約1mぐらいで、くりぬきは浅い感じがするが中が土砂で埋まっているせいかもしれない。出土品は、土器、銅鏡片、
金環、鉄製品などと後で調べた資料にあったが、どこへ行けば見れるのかは書いてない。


うぅーん、大きさが伝わるかなぁと呟いたら、山口さんが「私があそこに立ちましょう」と入り口に立ってくれた。

デカイ。ほんとにでかい。飛鳥の石舞台古墳の天井岩よりこっちのほうがデカイ。あまりの大きさにあっけにとられる。そ
れに、石室が3つに分かれているのもはっきりわかる。デカイ岩で前室・中室・玄室がそれぞれ仕切られている。こんなの
は近畿でもあまり例が無いと思う。というかまだ見たことがないような気がする。何だろうか、これは。こんなデカイ古墳
を作れる権力が壱岐の島にあったのだ。大和朝廷との関係はどうなるのだろうか。
鬼の窟(おにのいわや)
鬼の窟(おにのいわや)
(昭36.11.24・史・国分本村触)円墳径45m。高さ13m。石室全長16m。羨道、前室、中室、玄室からなる横穴式石
室。玄室は東西3m、南北3.2m、高さ3.3m。笹塚古墳とともに壱岐島最大の円墳。6世紀末から7世紀初めの築造とみ
られている。


「壱岐全島には、鬼の窟と称する横穴式石室墳が多く、とくに島の中心となる本町国分寺附近は古墳が多く、古くから知ら
れている。この古墳は壱岐で最大で、典型的な横穴式石室墳で、構造から見て6世紀末から7世紀初め頃の築造と思われる。
又壱岐名勝図誌にも笹窟(壱岐鳥屋)として、石室古墳の構図・高さ等も明記してあって、全国から見学者も多く来ていた
ようである。この古墳の石室の天井石で最大のものは4mあまりあって、羨道の第一、第二、第三室と玄室からなっている。
実測図にあるように、玄室は3mあまりの正方形で、高さ3.5m、奥行き16mの見事な古墳である。」【上記解説】

壱岐には、「鬼の窟」「鬼の岩屋」「鬼岩」などと称する横穴式石室古墳が多く、この古墳も、直径45m、高さ13mの
規模を持ち、長崎県内でも最大級の円墳である。巨大な玄武岩を何個も組み合わせて作られたもので、昔の人が、鬼のすみ
かと考えたのも理解できる。記録によると、亨保7年(1722)、幕府が平戸藩に壱岐の石窟の調査を命じ、その後「壱岐国
の石窟の崩壊を禁ず」との命令を下しているそうだ。

この古墳も掛木古墳と同様円墳で、同じように複数の石室を持っている。しかも恐ろしいほどの巨大な一枚岩の天井だ。こ
んな岩をどこからどうやって運んできたのだろうか。従事した人間は壱岐の人々だけだったのか。被葬者は半島から来た人
間なのかそれとも、大和朝廷の息がかかった人物だったのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。
その後山口さんから来たメイルでは、今回は見れなかったが、附近にある「双六・笹塚」などの古墳も圧巻だそうだ。山口
さんの資料(双六の調査書:平成13年度版)は専門の印刷会社が写真を撮っていて、古墳の全景(空中)、トレンチ調査
風景、実測図、玄室の正面・天井・左面、全室、線刻画、羨道、出土遺物として単鳳環頭大刀柄頭などの武具、飾り金具、
金製品、金糸、二彩、須恵器、新羅土器などのカラー写真が載っているという。土器が約1000点、鉄・金銅製品が約1,
500点、ガラス玉が約100点となっていて、メイルには「盗掘した後のがらくたの中に金箔などが残っていたのですか
ら、どれだけの物があったのか、想像を絶します。」とある。出土物の一部は「原の辻展示館」にも展示してあったが、近
畿の古墳から出土する馬具と全く同じモノである。いったいどんな人が葬られていたのだろうか。
「記紀」には半島(朝鮮)と大和朝廷の関わりが詳しく記されている大王の世紀もあって、新羅と日本の大王が同一人物だ
ったりするのだが、ここの遺物を考えると、そういう話が俄然信憑性を帯びてくる。大王はほんとに渡来人ではないかと思
う。

山口さんは午後から、壱岐の島の4町合併協議会というものに出席するそうで、その会場まで送ってくれた。この建物の奥
に「壱岐郷土館」があった。ここで山口さんと別れた。山口さん、お忙しいところありがとうございました。お元気で。
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