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原の辻遺跡(中)



発掘時の状況






	【船着き場】
	平成8年(1996)の発掘調査によって、遺跡の北西部で大規模な堤防状の遺構が出土した。長崎県教育委員会は、同年9月
	に「日本最古の船着き場の跡」と発表した。弥生時代中期(前2世紀〜紀元頃)の遺構で、東西に堤防が突き出たコの字形
	で、両堤防の間隔は11m、盛り土の高さは最高約2m。盛り土の周囲に多量の石を積み上げ、基礎部分に木材などを敷き
	地盤沈下を防ぐ「ハイテク技術」を駆使していた。それまでの国内船着き場跡で最古のものは、平安時代末の周防国府跡
	(山口県)のものだった。原の辻の船着き場はこれを一気に千年遡らせたことになる。









	【住居跡】
	台地状の居住区はまだ限定されていない。遺跡の規模を考えると、未発掘部分に大規模な集落跡が眠っている可能性もある
	が、竪穴式住居跡は数カ所で発見されている。平成6年度の調査では、台地の北よりの「高元地区」で、弥生時代中期から
	後期の複数の竪穴式住居跡が複数検出されている。さらにこの付近には弥生時代前期の「土壙(どこう)」などもあり、こ
	の周辺に生活空間があったことは確かである。












	【墓域】
	墓域は、現在までに、高元地区(弥生時代後期)、石田大原地区(弥生時代前期〜後期)、大川地区(弥生時代後期)、柏
	田地区(弥生時代中期)、原ノ久保A地区(弥生時代中期)、原ノ久保B地区(弥生時代後期〜古墳時代初頭)の計6カ所
	が確認されている。これらはいずれも甕棺墓、箱式石棺墓などを主体とする墓域として知られている、墓域の殆どは環濠外
	に営まれているが、墓域を区画する溝状遺構も確認されている。

 



	【高床式建物】
	弥生時代の高床式建物は、その多くが倉庫として用いられたと考えられており、その起源は稲作とともに大陸から来たと考
	えられる。大阪教育大学名誉教授の鳥越憲三郎氏は、この起源が長江中流域の「倭族」にあり、この民族の用いていた高床
	式建物が東アジア一帯に広まったのだという。
	原の辻遺跡の台地頂上部では、直径30cmから100cmの柱の跡が100個以上発見され、高床式の一大建物群があったも
	のと推測されている。遺跡の中央部に位置し、周りを柵で囲まれたりしている事から、東京国立文化財研究所の宮本長次郎
	氏は、これらの建物群は倉庫ではなく祭壇ではないかと想定しているようだ。しかしその数の多さからすると、やはり倉庫
	と考えたほうが自然なような気もするが、これらの建物群は建設時期が異なる複数の建物群であるとの説もあり、そうなる
	と祭りごとを行っていたという可能性も捨てきれない。



	【環濠と溝】
	平成5年度の調査では、台地東側の低地を南北に走る3条の溝が発見されている。この溝は、その後の調査で、集落のある
	台地を囲むように巡っていて、これにより原の辻遺跡が環濠遺跡であることが確認された。溝は幅2.0m〜3.6m、深さ0.3m〜
	1.4mで、断面はV	字型、逆台形状である。外濠は南北約750m、東西約350mの平面楕円形が想定され、外濠の北端は
	弥生時代の河川道にぶつかるが、その囲む面積は約24haである。東西は舌状丘陵の縁に沿ってめぐり、北は幡鉾川に接し、
	南は原池の辺りまで達している。
	濠は基本的に防御用の施設だが、ここでは生活用排水路としても用いられていたことが調査の結果判明している。また環濠
	の一部には、水溜の施設である石敷遺構や、貝塚なども検出されている。環濠の他に、いくつかの溝状遺構も確認されてい
	る。これらは集落内部を区画するための溝や、集落に出入りする通路に伴う溝であろうと考えられている。また、溝に沿っ
	て構築された柵列の跡も発見されている。

		【その他の出土状況】






	【卜骨】
	高元地区の竪穴式住居跡から見つかった。弥生時代中期と見られ、イノシシの肩甲骨を使った卜骨であり、焼いた跡が何カ
	所も認められる。イノシシの骨は何点か出土しており、芦辺高原地区の土器溜から出た下顎骨は、末端に孔が開けられてお
	り、棒を通して祭祀に用いられたと見られるが、このような加工をしたイノシシの骨は、他の弥生時代遺跡からも出土して
	いる。広く弥生時代全般を通じて、同じような祭祀の方法が西日本で浸透していたものと思われる。

	卜骨の起源は、新石器時代の中国北辺部あたりだろうと見られているが、原の辻出土の卜骨も、倭人伝に書かれた「骨を焼
	いて吉凶を占う」という記述を裏付けている。古墳時代になると骨を焼く卜骨に代わり、亀の甲羅を焼いてそのひび割れの
	状態で吉凶を占う卜亀が主流となっていき、原の辻遺跡近くの串山ミルメ浦遺跡(勝本町)でも古墳時代の卜亀が出土して
	いる。


	【イヌの骨・頭蓋骨】
	石田高原地区の環濠、大溝から大量の(50体以上)イヌの骨が出土した。骨には肉を削いだ跡があり、食用にされていた
	事がわかる。イヌの骨には、大陸系統と在来種の縄文系統のイヌが混じっているが、大陸系統のものが多い。一部にオホー
	ツク沿岸で出土する「北方犬」と類似したものがあり、弥生人の渡来ルートを探る手がかりとしても注目された。

	日本人がイヌを食べ始めるのは実は弥生時代からで、縄文時代は人骨とともに葬られて出土する例が多い。これは明らかに
	大陸から食用犬が入ってきたからで、それ以後、古代も中世も江戸時代も、日本人は犬を食べていたのである。江戸時代の、
	生類憐れみの令が出ているときでさえ、大名屋敷の中でも犬を食べている。戦前(第二次大戦)まで、日本人は犬を食べる
	中国文化圏に属していたのである。

	(発掘された資料からは、江戸の大名屋敷ではイノシシや鹿などは当然のこと、ヤマドリ、ハト、牛・馬なども食べている。
	してみると、将軍の通達などろくろく重視してなかったことがわかるが、それでも世間体はあったようで、発掘資料からは
	肋骨(ろっこつ)などが発見されていないので、狩猟現場やどこか他で解体して屋敷内に運び入れたようである。)


	【旧石器時代の遺物】
	昭和52年度の原の辻遺跡範囲確認調査(苣(ちしや)地区)で、壱岐島内で初めて旧石器時代の遺物含有地層が確認され
	た。出土遺物は、黒曜石や瑪瑙(めのう)を加工して製作したもので、切る・刺す・削る等の利器として使用したナイフ形
	石器・台形様石器、剥片尖頭器、・使用痕のある剥片等の石器類が、約130点出土している。
	なかでも台形様石器は、特徴的な石器製作技法で造られ、「原の辻型台形石器」として標式的な石器となっている。これら
	は今から約2万年前の人々が使用したものである。
	また、遺跡の北側を流れる幡鉾川流域で、更新世末期(旧石器時代)の古生物が発見された。種類は、ナウマン象の臼歯・
	助骨や、シカ・ウマ(と思われる)の化石で、約300mの範囲に約40点出土した。この古環境は沼湿地で、古生物が群
	れをなして棲息していたものと推測される。ナウマン象の化石は、我が国最西端の出土例である。








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