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原の辻遺跡(上)
魏志倭人伝に書かれた一支国の都


謝辞
	
	この一連の「原の辻」HP作成には、以下の資料を参考にした。また発掘時の写真等も下記の資料から転載させて頂いた。
	記して深く感謝したい。

	【参考文献】
	・原の辻遺跡調査事務所編集 長崎県教育委員会 平成7年10月発行「壱岐原の辻遺跡 魏志倭人伝の世界・一支国の中
	 心集落」
	・長崎新聞社 1997年10月30日発行「一支国王都 原の辻遺跡 よみがえる魏志倭人伝の世界」
	・長崎県教育委員会 平成14年2月2日発行 「発掘「倭人伝」海の王都・壱岐原の辻遺跡展」
	・エルフィールド社アイランドプレス編集室 平成13年9月1日発行「アイランドプレス壱岐の島」特集:原の辻遺跡
	・九州郵船(株)発行 「壱岐・対馬パーフェクトガイド2002」
	・長崎県教育委員会 2001年8月発行 「九州北部三県 姉妹遺跡 −原の辻・吉野ヶ里・平塚川添−」
	・壱岐観光協会発行 「壱岐 IKI ISLAND」パンフレット
	・長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所 2002年7月1日発行 「原の辻ニュースレター第13号」



訪問前に

発掘「倭人伝」−海の王都・壱岐原の辻展−
2002年2月17日(日)大阪府立弥生文化博物館

	大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市池上町443)で、平成14年冬季展として国特別史跡指定記念「発掘『倭人伝』
	―海の王都、壱岐・原の辻遺跡展―」が開催された(2月2日〜2月24日)。国指定史跡から、特別国史跡に格上げされ
	たのを記念して行われた展覧会で、遺跡の概要を紹介し、遺跡から発掘された出土物が展示された。博物館の入り口には、発
	掘された船着き場の様子が原寸大で復元されていた。「特別展」なので、当然写真撮影は禁止だったが、壱岐にある「原の辻
	展示館」は撮影オープンなのでちょっと変な気もする。




	主  催:  大阪府立弥生文化博物館/長崎県/長崎県教育委員会/読売新聞大阪本社/読売テレビ
	後  援:  泉大津市教育委員会/和泉市教育委員会/原の辻遺跡保存等協議会/芦辺町教育委員会/
		   石田町教育委員会/勝本町教育委員会/郷ノ浦町教育委員会
	会  期:  平成14年2月2日(土)〜2月24日(日)
	休 館 日:  月曜日、ただし2/11(月)開館、2/12(火)休館
	入 館 料:  一般300円、高大生200円 中学生以下・65歳以上(要証明) 障害者手帳を持つ方は無料

	主な展示物: ◎「弥生人の叫び」を想わす人面石(2001年9月発見)
		   ◎多彩な国際貿易を物語る遺物(車馬具・トンボ玉・貨幣・楽浪系や朝鮮半島系の土器)
		   ◎日本最古の遺物(楯・捕鯨線刻土器・礎石を用いた建物の部材:床大引材など)
		   ◎ココヤシの笛(日本で唯一)
		   ◎「魏志倭人伝」の国々(対馬〜奴国まで)の資料もあわせて一堂に
		   ◎新規製作の推定復元模型(1/2サイズの船・船着場、等身大の王・王妃・戦士など)
		   ☆ホットニュース! 日本最古のおもり 「権(けん)」、新発見!!
		   展示資料に追加しました。初公開です。 
	出展総数:約400点 
	講 演 会:  14:00〜16:00 (受付、13:00〜) 
		   ◎2月 9日(土) 「南北交易史上の原の辻」  小田富士雄(福岡大学教授)
	発掘報告会:  14:00〜15:00 (受付、13:00〜) 
		   @2月 3日(日)「発掘された海の王都―壱岐・原の辻遺跡―」宮ア貴夫(長崎県教育庁学芸文化課)
		   A2月17日(日) 「原の辻遺跡を掘る―発掘調査最新情報―」 安楽勉(長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所)






	期間中、2度発掘報告会が行われたが、私は2月17日(日)の「原の辻遺跡を掘る―発掘調査最新情報―」講師:安楽(あ
	んらく)勉氏(長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所)を聞きに行った。

 


	魏志倭人伝に「南北に市糴す」と記されたように、多くの交流の品々がそれらの事象を裏付けている。北からの搬入品は、
	中国製品では前漢鏡、銅剣、トンボ玉、貨幣などであり、朝鮮半島のものは楽浪郡製のものと朝鮮半島南部の「三韓地方」
	の製品に分かれる。
	青銅製品は原の辻遺跡に集中しているが量的な多さはでていない。鉄製品は鋳造鉄斧や鉄の素材などが出土しており弁辰
	地方からの輸入品であると考えられる。南からの搬入品は、青銅製品では天ケ原遺跡出土の中広銅矛があるが、対馬の120
	本以上に比べるとはるかに少ない量である。土器では 瀬戸内系土器で周防地方の弥生前期の綾杉文土器、備後地方の弥生
	中・後期の鋸歯文を施す壺などがある。

 


	しかし、圧倒的に多い土器は糸島地方を中心とした北部九州の影響下にあり、北部九州の文化圏にあることを示している。
	いずれにしてもこれら多くの地域からの搬入品は、朝鮮半島と九州以東との交流が盛んに行われていた証左であり、「倭
	の水人」と称された海人集団を中心に、壱岐が国際貿易都市として重要な役割を果たしていたことを目の当たりに見るこ
	とができるのである。

 


	これからの原の辻遺跡に期待されるものであるが、第一には王墓の発見であるが、これは現在調査が進行中の石田大原地
	区でまとまって甕棺が出土し、埋め土から鏡片や細型銅剣類が出土している事から、大いに期待がもてる。第二には、文
	字の存在である。文字を書いた筆も必ず出土すると思われる。第三には船の発見である。これは低地部のどこかに必ず出
	土すると確信する。第四位は外港の存在である。内陸部に小型船の船着き場がある以上は、海外との交流基地としての港
	津の整備が行われていたはずで、幡鉾川の注ぐ内海湾に最も期待が寄せられる。以上、これからの調査と遺跡整備の進展
	を見守っていきたい。

 



いざ出発! 原の辻へ 2002.8.16(金)

	
	お盆休みに帰省した折り、1日時間を作って壱岐の島へ「原の辻」(はるのつじ)遺跡を見学に行った。朝7時初のジェッ
	トフォイルという高速船に乗って、博多ふ頭から壱岐まで1時間10分。壱岐を出た後は対馬へ向かう、九州郵船の定期連
	絡船である。これは早い。巡航速度(43ノット)になると船体が浮き上がり、飛び魚のようにして進んでいく。ここから
	対馬までは1時間だそうである。対馬には高校生、大学生の時と2回行ったが、当時は博多から5、6時間かかって着いた。
	今は半分以下で着いてしまう。
 



		・船名  :ヴィーナス
		・総トン数:163トン
		・航海速力:43ノット
		・旅客定員:263名
		・船会社 :九州郵船(株)
		・航路  :博多〜壱岐(郷ノ浦、芦辺)〜 対馬(厳原)
		・所要時間:博多〜壱岐(1時間8分)、壱岐〜対馬(1時間)

	
	朝7:00のジエット船出発を待つ博多港のフェリー乗り場桟橋(上)。太陽の光の辺りが高速船乗り場だ。下は乗り込んだジ
	エット船と、船内から見た玄界灘。高速船はフェリ−と違って甲板へは出れない。時速 80kmなので危ないのだろう。
 

	
	<魏志倭人傅(読み下し文)>
	倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山海に依りて國邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所
	三十国。郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て、乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七
	千余里。始めて一海を度る。千余里。対馬国に至る。大官を卑狗といい、卑奴母離という。居る所絶島にして、方四百余里
	ばかり。土地は山剣しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南
	北に市糴す。
	又南一海をわたる千余里。名づけて瀚海という。一大国に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方、三百里ばか
	り。竹木、叢林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり。 田を耕せどなお食足らず。南北に市糴す。
	
	また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に濱いて居る。草木茂盛して行く前に人を見ず。好んで魚鰒を
	捕うる。水、深浅となく、みな沈没してこれを捕る。東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支といい、副は泄
	謨觚、柄觚という。千余戸あり。世々王あるもみな女王国に統属す。郡の使いの往来して常に駐る所なり。 


	<魏志倭人傅(現代語訳)>
	倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。もともと、百
	余国に分かれていた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。帯方郡より倭に至
	るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓 ?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?)狗邪韓国(くやか
	んこく)に到る。七千里余りである。
	始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)という。
	この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、道路は獣道の
	ようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州?)にのりだし交易を行
	っている。
	また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。長官を(対馬と)同じく
	卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し田畑があるが、
	これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。
	さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、山際や海岸に沿って家
	が建っている。草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関係
	無しに、潜水してこれらを捕らえる。東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、
	副官を泄謨觚・柄渠觚という。
	千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が常駐している所である。


	中国西晋の時代に、陳寿が書いた全65巻にも及ぶ歴史書『三国志』の中に、3世紀頃の日本列島について記した2000字程度
	の記述がある。いわゆる「魏志倭人伝」である。ここに邪馬台国についての記述があるのだが、周知のごとく、その場所は
	未だ確定していない。



	
	原の辻遺跡は、長崎県壱岐の島の芦辺町と石田町にまたがる弥生時代の大規模環濠集落で、「魏志倭人伝」に記載されてい
	る「一大国」の中心的集落と推定されている。一大国は一支国の誤記とするのが定説である。島全体は平坦で、倭人伝にも
	対馬は土地は山ばかりで険しく良田がないとあるが、壱岐は若干田があると記述されている。実際、対馬は南北に長く、海
	岸線はリアス式の海岸で入り組んでおり、多数の島々が湾内に浮かんでいるが、壱岐はほぼ方形の1つの島である。標高約
	213mの岳ノ辻(たけのつじ)が島内の最高峰で、島の東南部に平野が広がっており、原の辻遺跡はこの平野の中にある。
	倭人伝に言う「若干の田」というのはこの辺りにあったものだろうと思われる。

	遺跡の広さは80haで、九州では佐賀県の吉野ケ里遺跡に次いで広い。弥生時代の大規模な船着場跡や、中国「新」王朝
	の青銅貨、青銅製の矢じりなど、歴史的に貴重な出土品も多い。これらをふまえて長崎県教育委員会は、同遺跡が「魏志倭
	人伝」に記されている「一支国」の王都だったとの見方を強めている。

	原の辻遺跡は、旧石器時代から中世まで続く、いわゆる複合遺跡と呼ばれる遺跡だが、主体となるのは弥生時代で、環濠
	(かんごう)集落として発展した。弥生時代初期(紀元前3世紀頃)から集落が発生し、程なく多重の環濠を築き大集落と
	して発展した。集落は5世紀初めの古墳時代前期あたりまで存続していたようである。

	遺跡の存在は、すでに大正年間に地元の研究者によって発表され、一部には広く知られていた。その規模と豊富な出土品に
	より、昭和52年(1977)には、中心の三重環濠部分約24haを含む遺跡全域約80haが国史跡に指定されたが、発掘
	調査はまだ全体の数%しか進んでいない。 本格的な発掘調査は平成5年に開始され、多重環濠・祭儀建物跡・船着き場跡・
	大引材・ココヤシ笛・金鎚・捕鯨線刻絵画土器などが相次いで発見され、中でも船着き場跡遺構は、東アジアでも最古のも
	のとされ、しかも当時としては革新的な進んだ土木技術で作られていた。それらからこの遺跡は、卑弥呼の邪馬台国時代を
	記した「魏志倭人伝」に登場する「一支(壱岐)国」の王都と特定され、平成12年11月、国の特別史跡に指定された。
	弥生時代の特別史跡としては、静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とここだけである。

	古代、遙か魏の国を出て「邪馬台国」を目指した魏の使者も、内海から幡鉾川をさかのぼって、一支国の都「原の辻」に滞
	在したのであろう。


郷ノ浦港へ入る。タグボートの先に郷ノ浦大橋が見える。桟橋は左の方にある。


	この日の壱岐巡りは、インターネットで知り合った壱岐在住の山口博千さんに案内していただいた。山口さんは10年一寸
	前に中学校の先生を退職され、今は地域の諸委員をされている。「壱岐めぐり」というホームページを開いていて、ここを
	通じて知り合った。70才というお歳にもかかわらず元気である。午後から壱岐の島4町の「合併協議会」に参加されると
	いうので、午前中原の辻遺跡を中心に、車であちこちと案内していただいた。壱岐は車がないと不便である。島内観光のバ
	スもあるが、自分の見たい場所へ行くのなら、タクシーかレンタカーだろう。自分で運転するのが面倒な人は、観光バスで
	有名なところを廻って1,2ケ所タクシーでというのもいいかもしれない。私は1日しか時間がなかったので日帰りで帰っ
	たが、できれば1、2泊したいところだ。ここを日帰りで帰るのはもったいない。後ろ髪を引かれながら船に乗った。




	実は山口さんとmailのやりとりをしている過程で、山口さんの娘さんの結婚相手(つまり娘婿)が、なんと私と遠い親戚に
	あたるということも判明した。私の曾祖父の妹が嫁に行った家が、山口さんの娘婿の母方の家だったのだ。さらに、田川さ
	んというその娘婿ともmailのやりとりが始まって、なんと彼は某国産コンピュータメーカー勤務で、私の会社を担当してい
	ると言うのだった。奇縁に驚きながらも、それから付き合いが始まった。一度田川夫妻が東京から大阪へ訪ねてきてくれて、
	我々も夫婦で京都を案内した。今回も山口さんを訪ねた翌日、実家へ帰る途中に田川夫妻を訪ねたが、彼はコンピュータメ
	ーカーを退社し、福岡で通信会社に勤務していて、昨年夏には二人だった生活に長男が誕生していた。
	勿論この話(山口さんとの出会い、親戚関係の発覚)は私の実家でも話題になり、「ヘェー」と言うことになった。「そう
	そう確かにあの家とは昔親戚だった。」「そうか、そういう関係だったな。」と父母も、疎遠になった親戚関係の復活に、
	感慨にふけっていた。

	そんなわけで、INTERNETが取り持つ縁の不思議さに驚いたが、同時にINTERNETを経由しての新しい人間関係の出現に、大い
	に時代の波を感じたものだ。まさしく、「IT時代の夜明け」である。






	
	壱岐の島は対馬と並び大陸・半島と北九州との間に位置することから、古くから研究者の注目する場所であった。黒板勝美、
	鳥居龍蔵、梅原末治、中山平次郎、森本六爾といった、日本の著名な学者達がこの島を訪れている。鳥居は大正5年(1916)、
	大正10年(1921)に、黒板は大正12年(1923)に、梅原も大正12年頃、中山は昭和2年(1927)頃、森本は昭和5年(1930)
	に、壱岐を踏査(とうさ)している。
	大正時代から昭和戦前までの弥生時代研究は、各地から出土する弥生式土器の編年、生産活動と集落論を中心に行われたが、
	九州大学医学部教授であった中山平次郎は、各地の遺跡・遺物を積極的に調査してまわり、大正6年(1917)、日本考古学
	会の機関誌であった「考古学雑誌」に発表した「九州北部に於ける先史原始両時代中間期間の遺物に就いて」という論文で、
	弥生時代が石器と金属器を併用した時代であった事を初めて提唱した。
	昭和にはいると、森本六爾・小林行雄らを中心に「東京考古学会」が結成され、弥生時代研究は飛躍的に発展をとげる。
	「弥生時代は農耕社会である。」という、今日、弥生時代の時代区分を特徴づけるテーゼもこの頃提出され、「登呂遺跡」
	発掘に端を発した戦後の弥生時代研究の先駆けとなった。



	
	このような、戦前までの考古学会の流れの中にあって、「原の辻」遺跡を初めて中央の学会に紹介したのは、当時の石田小
	学校教諭であった松本友雄(まつもとともお)氏であった。氏は大正12年頃から大正15年にかけて、現地踏査と遺物採集を
	始め、大正15年には小規模な発掘も行い、弥生式土器、各種石器類などを発見している。その成果は昭和2年(1927)発行
	の「考古学雑誌」に発表された。
	また山口麻太郎(やまぐちあさたろう:昭和25年−32年武生水公民長兼図書館長、−昭和46年まで壱岐日報社社長。長崎県
	文化財専門委員、壱岐文化財調査委員会会長、郷ノ浦町文化財調査委員長等を歴任。)、鴇田忠正(ときたただまさ:壱岐
	高校第三代校長)といった地元の研究者達も、原の辻遺跡と、壱岐北西部にあるカラカミ遺跡とが、壱岐の島に於ける重要
	な弥生遺跡である事を報告し、特に鴇田氏が昭和19年(1944)に発表した「長崎県壱岐郡田河村原の辻遺跡の研究」(日本
	文化史研究)という論文はそれまでの原の辻研究をまとめたもので、断片的な資料紹介に過ぎなかった原の辻・カラカミ両
	遺跡の性格を、弥生時代における土器編年や、生産活動という視点からまとめた優れたものであった。この論文が、戦後の
	「東亜考古学会」による壱岐の島の考古学的学術調査が開始されるきっかけとなった。



	
	戦後になり、京都大学教授水野清一氏を団長とする、九学会及び東亜考古学会の発掘調査が行われ、昭和26、28、29、36年
	の4回にわたる調査で、住居跡、墓地が見つかり、貨泉や多量の鉄器などが出土した。昭和26年の報告では、「原の辻上層
	式」という弥生時代後期を示す土器編年の形式が提唱され、昭和29年の調査では多数の甕棺墓や箱式石棺墓が見つかり銅剣
	などが出土している。
	昭和49年には、畑地水田化の際、甕棺墓や箱式石棺墓、溝状遺構が見つかり、銅剣、ヤリガンナ、玉類が出土した。昭和50
	年から52年にかけての範囲確認調査では、新たに4ケ所の墓域と2ケ所の溝状遺構が見つかり、玉類、銅鏡、銅釧などが出
	土した。
	平成4年から13年にかけて、幡鉾川(はたほこがわ)流域の水田基盤整備が行われ、平成3年から5年にかけて範囲確認調
	査が、平成5年には道路建設・排水路工事にかかる、原の辻部分の緊急発掘調査が実施された。6年度以降は未調査部分の
	範囲確認発掘調査が行われた。長崎県教育委員会が本格的に原の辻遺跡の調査を開始したのは、昭和49年(1974)度からで、
	その後芦辺町、石田町教育委員会も加わり、計画的な発掘調査が継続している。



	
	これまでの発掘調査で、原の辻遺跡は大規模な三重の環濠をめぐらす弥生時代の集落遺跡であり、中国や朝鮮との交流を示
	す多彩な文物が出土するなど、いわゆる魏志倭人伝に言う「一大(支)国」の王都であったと、学会のみならず広く世間に
	周知された。また、冒頭に掲げた「船着き場」の跡は、当時の東アジアにおける、本格的な船着き場としては今の所最古の
	ものであり、「船に乗りて南北に市糴(してき)す。」という倭人伝の記述が真実であった事を強く印象づけた。他の遺跡
	と違い、ここ原の辻は、魏志倭人伝の記述と現実の遺跡の実態とを比較できる、唯一希有な貴重な遺跡とされるゆえんであ
	る。
	集落は内濠、中濠、外濠に囲まれ、その規模は東西約 350m、南北約 750mある。遺跡の総面積は 100万uにおよぶ。主な
	出土品としては、中国大陸・朝鮮半島、および日本国内外の地域との交流を示す土器や青銅器など貴重な資料が多く、日本
	最古の「木製楯」、高床式建物の床材(床大引材)、日本最多出土の「銅鏃」、日本唯一の「ココヤシ笛」、「捕鯨線刻絵
	画土器」「五朱銭・貨銭」「人面石」などが有名である。遺構としては、「船着き場」を初めとして、竪穴式住居群跡、高
	床式建物跡、祭祀関連遺構などがある。



上右が、原の辻展示館の前に耕作された「赤米」の田圃である。





原の辻展示館前の「船着き場」の模型



	
	発掘後の遺跡は、現在すべて埋め戻されている。環濠も船着き場跡も土の下である。資料館の前から見た平野にかっての弥
	生王国の跡が静かに、広々と横たわっている。いま壱岐では、遺跡に掛かる部分の用地買収が進行中である。県は早く吉野
	ヶ里のような復元遺跡にして新しい観光の目玉にしたいようで、なかなか進まない用地買収に少し苛立ち気味だという。



	
	原の辻と、吉野ヶ里、それに平塚川添遺跡は、平成11年(1999)、弥生時代の三大環濠遺跡として、全国でも初めての
	「姉妹遺跡」という提携を結んだ。長崎県・佐賀県・福岡県の3知事が「姉妹遺跡締結」をし、「九州北部歴史回廊整備計
	画調査」を実現する第一歩ととらえ、この3つの遺跡を中心にして、今後3県にある歴史・文化遺産のネットワークを構築
	し、「地域連携促進による地域の活性化」に期待する、と締結書は謳っている。


上の図は何かを物語っているような気がしないでもない。壱岐を渡り、吉野ヶ里を経て、魏の使者が辿り着いたクニとは?



遺跡全景






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