2015年夏 フランス・ドイツ紀行 第十五日目 2015.6.21


	2015.6.21.(日曜日) 晴れ パリ オルセー美術館へ行く
	
	8時朝食。今日は奥さんは仕事だそうで、カメラマンのご主人が給仕してくれる。写真集にサインして貰った。
	代金を聞くとお金はいいと言うような事を言ったが、何せフランス語なのでよくわからないが、昨日のお土産
	がきいたのかな。旦那は英語が全くしゃべれないようだ。或いはしゃべらないのかもしれない。
	娘の舞からパリの動物園に行って来てくれと言うmailが入ったそうで、今日はオルセー美術館に行って、その
	動物園へ行くことになる。何でも猫科専門の動物園だそうだ。日曜日はオルセー美術館も9時開館だそうで
	(通常は10時)、朝食がすんだらすぐ出掛ける事にする。





























	地下鉄10枚綴りチケットを買ってメトロのオルセー駅へ向かう。美術館は駅からすぐである。入場券を買う
	列に並ぶ。日曜だというのに結構行列が出来ている。20分ばかり並んで入場。ここはさすがに凄い。
	前回パリに来た時は見れなかったので、今回は一目見たかった「日傘の貴婦人」。モネ、セザンヌ等印象派の
	絵を十分に堪能できた。よかった。







セーヌ川をゆく遊覧ボートの「オルセー美術館前」船着き場。





川沿いにインディアンのテントみたいなものがあったが、何かは分からなかった。何かのイベント用かな?



セーヌ河畔に立つ、第3代アメリカ合衆国大統領(1801年 - 1809年)「トーマス・ジェファーソンの銅像」。

	トーマス・ジェファーソン 出典:ウィキペディア(抜粋)

	トーマス・ジェファーソン(英: Thomas Jefferson、1743年4月2日(ユリウス暦)/4月13日(グレゴリオ暦[1])
	- 1826年7月4日)は、アメリカ合衆国の政治家で、第3代アメリカ合衆国大統領(1801年 - 1809年)。
	妻のマーサ・ジェファーソンは夫が大統領に就任する前に33歳で亡くなっており、代理として娘のマーサ・ジェ
	ファーソン・ランドルフがファーストレディを務めた。
	アメリカ独立宣言(1776年)の主要な作者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで最も影響力
	のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされている。共和制を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な
	「自由の帝国」[2]の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。
	首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。



	駐フランス公使 出典:ウィキペディア(抜粋)

	ジェファーソンは1785年から1789年まで駐フランス公使を務めていた。パリ滞在中はシャンゼリゼ通りにある家屋
	に住んだ。多くの時間を割いて市内の見どころある建築を探索し、またパリの提供する芸術を楽しんだ。サロン文
	化の愛児となり、市内の最も著名な人々に晩餐に招待されることも多かった。ジェファーソン自身もしばしばフラ
	ンスやヨーロッパの社交界からの人々を饗応した。ジェファーソンはパリに娘達を伴っており、モンティチェロか
	らヘミングス家の2人の奴隷も連れてきていた。ジェームズ・ヘミングスは、授業料を払いフランスのシェフとし
	て訓練させた。ジェームズ・ヘミングスはジェファーソンがフィラデルフィアに居るときにシェフを務めた。ジェ
	ームズの妹であるサリー・ヘミングスはジェファーソンの幼い娘に付いて海外に渡った。ジェファーソンはこのパ
	リで亡妻の異母妹で奴隷のサリー・ヘミングスとの長い関係を始め彼が死ぬまで関係は続き1子までもうけている。
	二人のヘミングスはパリ滞在時代にフランス語を覚えた。
	1784年から1785年に、ジェファーソンはアメリカ合衆国とプロイセンの間の貿易関係を構築する者になった。プロ
	イセンの大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ツレマイアーとアメリカのジョン・アダムズが二人ともハー
	グに居り、ベンジャミン・フランクリンがパリに居たので、彼等もこの動きに関わった。
	フランス革命勃発直前のフランス社会をつぶさに観察し、農民の犠牲の上に成り立っていることを強く感じたとい
	う。ジェファーソンは社交界や貴族の特権階級と多くの友好関係を築いたが、1789年にフランス革命が始まったと
	きは革命支持者の側に回った。







この建物は最高裁判所(だったかな?)

















	オルセー美術館から地下鉄を乗り継ぎ、パリ動物園へゆく。猫科動物の専門ZOOと言う情報は間違いだった
	のか?猫科は殆どいないし、しかも大した規模でも無い。北海道の旭川動物園の方が優れもののような気がす
	る。普通の動物園だ。舞が「良かったら私も行こうかな」と言ってきたので、「やめとけ、たいしたことない」
	と返事したのだが、後で判明したが、どうやら我々の行った動物園は舞が言ってきた動物園とは違う所だった
	ようである。



















	帰りにwifeは、パリ市内の有名百貨店で買い物をする積もりだったようだが、百貨店は殆どが日曜日は休み。
	ユーロが少なくて、明日宿の支払いをするので、ATMを何台かはしごするが、どこでも現金を引き出せず、
	wifeはあせっている。我等が宿は言わば故人の住居なので、勿論カードなどきかない。部屋へ戻って、日本の
	新生銀行へ電話する。すると海外での引き出し限度額が5万円になっているそうで、10万円に引き上げて貰
	う。



	暫く休んで、モンマルトルの丘の方へ食事に出る。ムーランルージュ近くの繁華街へ行く。「Adult Only」と
	か、「Sex・・・」と言う店ばかりが建ち並ぶ。ATMでお金を引き出してイタリアン・レストランへ行く。
	最初店にはバンドが入っているのかと思ったら、DISKジョッキーの兄ちゃんが、CDを巧い事ミキシングして
	如何にも生バンドらしく聞かせているのだった。巧いもんだ。サラダとパスタを食べる。
	店を出るとき、そのお兄ちゃんに「GOOD JOB!」と声を掛けると「THANK you」と答えた。










	食事が済んで、部屋の方へ戻ってくると、昨夜食事をした店でバンドが路上に出て演奏しており、若者達が音
	楽に合わせて大勢踊っていた。暫く聞いていて、その内演奏も終了したので店に入り、昨夜応対してくれたギ
	ャルソンに親指を立てて「Good!」という仕草をした。店の奥にいた彼は昨夜の我々を覚えてくれていて、嬉
	しそうに手を振った。パリ最終夜の嬉しい出来事だった。











上左は、我々の部屋から見た中庭と広場。上右は部屋の真向かいにある事務所。勿論この時間には誰も居ない。