2015年夏 フランス・ドイツ紀行 第十一日目 2015.6.17




	2015.6.17.(水曜日) 晴れ ドイツ・シュバンガウ ノイシュバンシュタイン城
	
	ニュールンベルグの街は、第二次世界大戦のドイツに対する戦後処理会議が行われた街である。どうしてここ
	で開催されたかというと、ナチスが結成されたとき、第一回の党大会がココで行われたからだという。ここで
	始まったものはここで終わらせるというアメリカ流のけじめなのだろう。


なかなか高カロリーで旨そうな朝食だ。





	今日は有名なノイシュバンシュタイン城のあるシュバンガウを目指す。ここには午后早く着くはずだったのだ
	が、例によってwifeが地道を走りたいと言うので、高速を降りては道に迷い、又高速へ入り直しては降りてと
	言う事を繰り返したので、シュバンガウの街に着いたのは午後三時を廻っていた。
	









	
	今回はナビが調子よく、一発で目指す通りの、目指すペンションへ辿り着いた。所がである。出てきたペンシ
	ョン・オーナーのバアサンは、予約してあった筈の予約が無いと言う。wifeはここを一度予約し、日時を変更
	するためにもう一度予約し直していたのだ。その際のやり取りに何かしっくりこないものがあったようで、そ
	の為か何かバアサンの態度はどうも変だった。
	洋の東西を問わず、悪い奴、嘘を言っている人の態度というのは共通している。明らかにバアサンは我々に嫌
	がらせをしているのではないかと思われた。何か頭に来る事があって、勝手に予約取り消しの連絡もしないま
	ま、我々が到着して断っているのだ。


	
	「部屋は一杯だ」と言われてwifeは頭にきていたが、怒ってみても仕方が無いので、「そんなことをここで
	言われても困る。部屋が一杯ならどうして日本のエージェントに連絡しないのだ。我々は今晩何処に泊まれば
	いいのだ。どこか替わりの所を紹介してくれ」と私が食い下がると、バアサンはしぶしぶと言う感じで、「う
	ちより落ちるけど、この先にalpenstubenと言う宿がある。そこを紹介するからそっちへ行ってくれ」と言う。
	仕方が無いので紹介されたホテルへ行く。





上の「P]の坂道を登ったところにホテルの駐車場があって、おじさんがキーを受け取って駐車位置へ車を持って行った。



上がホテルである。一階は土産物屋兼レストランになっていて、観光客でごったがえしていた。二階が客室だ。




	
	ノイシュバンシュタイン城へ行く大通りに面した結構なホテルで、バアサンのペンションよりも余程よかった。
	事情を説明すると、太った女性マネ−ジャーが一発で良い部屋に案内してくれる。バアサンのペンションより
	少し料金は高かったが、ノイシュバンシュタイン城が窓から目の前に見えるいい部屋だった。バアサンにイケ
	ズされてよかったかもしれない。あんなバアサンでは泊まったとしても、何か嫌な思いをしていたかもしれな
	い。あのバアサンの言動は明らかに作為的だったし、態度もオドオドして、明らかに自分に非があると知って
	いて繕っている仕草だった。西欧人にもこういう人種がいるのだと勉強になった。



部屋に荷物を入れ、しばしバアサンを罵って窓から景色を楽しんだ後、少し落ち着いた。












	
	ホテルの隣がノイシュバンシュタイン城のチケット・センターなのでそこで城へのチケットを買う。歩くか、
	馬車で城まで登って行くのだが、城にはチケット売り場は無い。この麓のセンターで買うのである。「知らず
	に城まで行って、また引き返す人がいるので要注意」とガイドブックにある。















ベルギーから来たという夫婦。今から上るが、馬車にしようか歩こうかと悩んでいた。


	
	馬車とは別にバスもあるが、歩いて40分と書いてあったので歩く事にした。しかし急ぎ足で歩いて20分足ら
	ずで着いてしまった。次のガイド・ツアーは17:50分からだったので、それまで附近をうろうろする。













	
	ノイシュヴァンシュタイン城 出典:ウィキペディア(写真も)

	ノイシュヴァンシュタイン城(ノイシュヴァンシュタインじょう、標準ドイツ語: Schloss Neuschwanstein、
	アレマン語: Schloss Nuischwanschtui、バイエルン語: Schloss Neischwanstoa)は、ドイツ南部のバイエ
	ルン州バイエルン・シュヴァーベン地方にある城である。
	バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築された。オーストリア国境に近いオストアルゴイ郡フュ
	ッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に位置し、近隣には、ルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごし、彼
	の父親が所有していたホーエンシュヴァンガウ城がある。
	ノイシュヴァンシュタインという名は、現在ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつてあったシュヴァン
	シュタイン城にちなみ、1890年になってから付けられた名であり(「ノイ (Neu)」はドイツ語で「新しい」
	の意)、建設当時はノイホーエンシュヴァンガウ城と呼ばれていた。シュヴァンガウは、「白鳥河口」の意
	味の地名で、ホーエンシュヴァンガウは、上シュヴァンガウ村のことである。
	一見すると伝統的な建築方式で造られているように見えるが、石造りではなく鉄骨組みのコンクリート及び
	モルタル製で、装飾過多であり、耐候性や耐久性も低かった。この城は軍事拠点としての「要塞」としてで
	はなく、また政治や外交の拠点としての「宮殿」として建設されたものでもなく、後述のようにルートヴィ
	ヒ2世のロマンティック趣味のためだけに建設されたもので、ドイツの城館に本来は必ずあるべき小聖堂や
	墓地がこの城にはなく、玉座を後回しにしてもヴィーナスの洞窟と名付けられた人工の洞窟が建設されるな
	ど、実際の住居としての居住性はほとんど考慮されておらず、施設としての実用性は無視された設計になっ
	ており、居住にも政務にも(もちろん軍事施設としても)不向きな城である。
	現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっており、内部を見学することができる。

	ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世
	界に酔いしれた、いわゆる“ワグネリアン”であった。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの
	作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に
	容喙することを許さなかった。
	一方、ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の
	中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを
	行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家の
	クリスチャン・ヤンクであった。
	建設作業は1869年9月5日に開始され、1886年には、施設内に人間が居住できる程度には完成した。これ以後、
	ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンに戻らず、この城に住まうようになる。
	ルートヴィヒ2世はこの城の他にも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設を始め、さらにはノイシ
	ュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城を建設する計画をたててお
	り、その上オリエント風の宮殿も建設したいと考えていた。これらの建設費用はプロイセン王国によるドイ
	ツ統一を支持した見返りとしてビスマルクから送られた資金などを中心に、ほぼ王室費から支出され、バイ
	エルン政府の国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ねた。プロイセンに
	対し普墺戦争の損害賠償を未だ抱えていたバイエルン政府はこれに危機感を募らせ、最終的に首相ルッツら
	は、ルートヴィヒ2世を形ばかりの精神病鑑定にかけ、統治不能としてベルク城に軟禁した。その翌日、王
	は主治医とシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げた。王がノイシュヴァンシュタイン城に居住した
	期間は、わずかに102日間であった。
	ルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点で、ノイシュヴァンシュタイン城は王の構想の一部を実
	現したに過ぎず、未完成部分を多く残していたが、建設工事はこの時点で中止された。元来実用性の乏しい
	施設であったが、公的な施設として用いられることはなく、その直後から城と内部は観光施設として一般公
	開された。

	

	おとぎ話に出てくるような美しさ」と讃えられることもあるこの城は、カリフォルニアにあるオリジナルの
	ディズニーランドや、2005年に開園した香港ディズニーランドにある眠れる森の美女の城のモデルの一つと
	しても知られている。ただし、ディズニーランド・パリの眠れる森の美女の城は、ノイシュヴァンシュタイ
	ン城をモデルとはしていない。

	城は一般に公開されており、4〜9月の春夏は9〜18時、10〜3月の秋冬は10〜16時の間見学が可能だが、館内
	の見学はツアーへの参加が必須となっており、麓のホーエンシュヴァンガウにあるチケット売場で事前にツ
	アーのチケットを購入する必要がある。城ではツアーチケットは販売されていない。
	ホーエンシュヴァンガウの町までは、ドイツ鉄道フュッセン駅前からバスが運行されている。麓から城まで
	は坂道を徒歩で上がるか、チケット売場の先にあるバス停からマリエン橋近くまで運行されているバス、も
	しくはバス停近くから出発する馬車(いずれも有料)を利用し、終点から城までを徒歩とするかのいずれか
	となる。なお、ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見るのが最も美しいとされている。

	 



キップおもて

































ガイドツアーが始まるまで、屋根の上に昇ってみた。下に見えるのがツアー開始を待つ人々。




	
	時間になって、日本語のガイダンス・イアホーンを耳に、ガイドに従ってぐるりと城内外を一周した。外も内
	も素晴らしい城である。ディズニーのアニメに登場する城のイメージだという。この城を作ったのは、バイエ
	ルン王と称されるルートヴィヒ2世だが、それについては後段のウィキペディアの解説に譲る事にしよう。






















	
	ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)  出典:ウィキペディア

	ルートヴィヒ2世 (Ludwig II., 1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 
	- 1886年)。神話に魅了され長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られる。ノイ
	シュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残し、後者には文字通り世界中より音楽愛好家が集まってい
	る。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。

	父マクシミリアン2世とプロイセン王女でプロテスタント教徒(後にカトリックに改宗)のマリーとの間にニン
	フェンブルク城で生まれた。3年後の1848年に弟オットー1世が生まれるが、同年に祖父ルートヴィヒ1世が退位
	し、それに伴い父が国王として即位した。祖父と同じ名を持つルートヴィヒは王太子となったが、父が執務で
	忙しかったため、彼は余暇をゲルマン神話や騎士伝説などの物語を読んで過ごし、それらから大きな影響を受
	けた。
	1863年8月にミュンヘンの宮殿で、プロイセン王国の首相ビスマルクと会見した。その後ルートヴィヒとビスマ
	ルクは対面することがなかったが、ビスマルクは執務室にルートヴィヒ2世の絵を飾るほど好意を寄せ、ルート
	ヴィヒは友情に近い尊敬の念を持っていたといわれる。
	ルートヴィヒ2世は近侍させた美青年たちを愛し、女性を嫌忌していたが、自分と同じヴィッテルスバッハ家の
	一族であるオーストリア皇后エリーザベトだけには、女性でありながら唯一心を許していた。彼女もまたルー
	トヴィヒ2世と同じく堅苦しい宮廷を嫌い、逃避行を繰り返していた。王の将来を心配していたエリーザベト皇
	后は、自分の妹ゾフィー・シャルロッテを王妃として推薦し、1864年1月、ルートヴィヒはゾフィーと婚約した。
	挙式はルートヴィヒの誕生日の8月25日と決まったが、まず10月12日に延期され、さらに11月28日へと再延期さ
	れた。ゾフィーの父、マクシミリアンは今度日程を伸ばしたら婚約の話は無かったことにすると最後通告を送
	ったが、ルートヴィヒはこれに立腹し婚約を解消した。ルートヴィヒのこの態度にエリーザベトは怒りを覚え、
	彼と絶縁したという。

	1864年3月10日、マクシミリアン2世が崩御し、バイエルン王となった。即位したルートヴィヒは早速、王の仕
	事として宮廷秘書のフィスターマイスターに命じ、幼少の頃から憧れだった作曲家ワーグナーを宮廷に呼び招
	いた。当時放蕩が祟って経済的に苦しかったワーグナーにとってこれは願ってもない話だったが、多くの家臣
	は悪い噂が流れていたワーグナーの召喚を快く思わなかった。

	結局ルートヴィヒは家臣の反対を受け入れ、1865年12月、ワーグナーを一時追放した。それから執務を嫌うよ
	うになり、幼い頃からの夢だった騎士伝説を具現化すべく、中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な
	建築物に力を入れるようになった。また彼はフランスのルイ14世を敬愛しており、ヴェルサイユ宮殿を模した
	ヘレンキームゼー城を湖上の島を買い取って建設したほか、大トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建
	設した。ちなみにルートヴィヒ2世は歯が悪かったが、ルイ14世も同様に歯が悪かったので、むしろそれを喜
	んでいたと言われている。多数の凝った城・宮殿を築いたことから、「(バイエルンの)メルヘン王」などと
	呼ばれるほどである。


	
	1866年、普墺戦争が勃発し、バイエルンはオーストリア帝国側で参戦することになった。戦争を嫌うルートヴ
	ィヒは退位さえ考えたが、結局、議会の要求通り動員令に署名した。戦争には敗れ、参戦に反対していたルー
	トヴィヒの国内外での立場は相対的に良くなったものの、バイエルンはプロイセンに対して多額の賠償金を支
	払うことになった。
	1870年、普仏戦争で弟オットー1世が精神に異常をきたした。ルートヴィヒはますます現実から逃れ自分の世
	界にのめり込み、昼夜が逆転した生活を送るようになった。王は一人で食事を取り、あたかも客人が来ている
	かのように語っていたり、夜中にそりに乗って遊んでいたところを地元の住民に目撃されたと伝えられている。

	危惧を感じた家臣たちはルートヴィヒ2世の廃位を計画し、1886年6月12日に彼を逮捕し廃位した。代わりに政
	治を執り行ったのは叔父の摂政ルイトポルト王子だった。ルートヴィヒはベルク城に送られ、翌日の6月13日
	にシュタルンベルク湖で、医師のフォン・グッデンと共に水死体となって発見された。その死の詳細について
	は未だ謎のままである。その知らせを受けたエリーザベト皇后は「彼は決して精神病ではありません。ただ夢
	を見ていただけでした」と述べている。
	生前ルートヴィヒは「私が死んだらこの城(ノイシュヴァンシュタイン城)を破壊せよ」と遺言していた。
	それは彼が城を自分の世界の中だけに留めたいという思いからきた願いだったが、摂政ルイトポルトは城を壊
	さずにむしろ地元の住民に開放した。現在でも文化財として保全されバイエルン地方随一の観光資源となって
	いる。
	ルートヴィヒ2世は精神病を理由に廃位されたことになっているが、実情はバイエルンの経済が破綻寸前の状
	態にあったことがその真の理由だったと考えられている。バイエルンは、1866年の普墺戦争におけるプロイセ
	ンとの講和条約のために多額の賠償金の支払義務があり、さらにルートヴィヒ2世の相次ぐ城の建設や政情不
	安などにより、経済が混乱状態に陥っていた。
	これを危惧したバイエルン首相ヨハン・フォン・ルッツらが、グッテンら4人の医師に王を精神病と認定させ、
	禁治産者にすることを決定したということになっている。この点に関しては議論があるが、少なくとも4人の
	医師が実際にルートヴィヒを鑑定した記録はなく、証言者の信頼性に乏しい証言や観察をもとに診断書を作
	成したことは事実であるといわれる。






























	
	ホテルへ戻って来て、ホテルのレストランでポーク、ジャガイモのプレートと、サラダ、ワインで夕食。もう
	こちらのサイズにも馴れてしまったので、二人で一皿で十分だ。ワインもデカンタを二人で。何せ今夜はホテ
	ルまで歩かなくてよい。階段を上がればそこが部屋である。
	今夜でドイツも最後だ。明日はフランスへ戻りアルザス地方を訪れる。明後日はもうレンタカーを返してパリ
	へ戻る。今回の旅ももう十日以上過ぎた。いざ、ドイツの夜よ、よき眠りを。





















	
	帰国後判明したのだが、penshionのバアサンは、レンタカーやホテル予約の幾つかを取り持っていた日本国内
	のエ−ジェントに対して、我々が泊まらなかったことを報告していなかった。つまり泊まった事にして金をエ
	ージェントから受け取っていたのである。予約はやっぱりしてあったのだ。経緯を説明するとエージェントも
	さすがに驚いたようで、支払った分の金額を取り戻してくれた。言わば「旅行サギ」である。もしかしたら、
	常習化しているのかもしれない。エージェントも、そのpenshionはリストから外しますと言っていたが、やは
	り悪人だったのだ。