2015年夏 フランス・ドイツ紀行 九日目 2015.6.15



	
	2015.6.15.(月曜日) ドイツ・トリア
	
	今日は楽しみだ。今回の旅で行きたかったのは、フランスのルナック、ドイツのネアンデルタール、
	そして今日のトーリアである。トリアはドイツ最古の街とされ、2000年の歴史を持つという。ポルタ
	・ニグラ(黒い門)という遺蹟は、ドイツにあるローマ時代の遺跡として有名で、貴重な文化遺産と
	なっている。他にもローマ時代の浴場跡や円形競技場など、ローマ時代の遺跡が数々残る。またこの
	街は、「共産党宣言」で有名なカールマルクスの生まれ故郷でもある。共産党は嫌いだけど。


	
	モーゼル川を見下ろす高台に建っているこのホテルは、珍しく朝食が 6:30からと早い。10:00までな
	のだが、6:30に食堂へ行ってやろうと思っていたのに、これ又珍しく出遅れて8時頃の朝食となった。
	朝食のメニューは豊富で、毎日朝食が一番豪華ではなかろうかと思う程だ。
	朝食が済み、準備をして駐車場に行くと、食堂にいたジイサン、バアサンのグループが自転車の整備
	をしている。聞けば、車に自転車を積んでここまで来て、ここから自転車で附近のサイクリングを楽
	しむのだそうだ。みんな相当な年齢のグループなのに、日本の爺婆とは大分違う。大したもんだ。
	オジサンに写真を撮って貰い別れを告げて、眼下に見えるトリアの街へおりてゆく。









	
	30分程で街の中心街に着く。高校近くの駐車場に車を止めて、ポルタ・ニグラ(黒い門)へ。ここが
	街の北のはずれのようで、ここからトリアの街は南方へ広がっている。皇帝広場、宮殿、ローマ遺蹟
	(大浴場後、円形競技場など)と展開しているのだが、宮殿にあるという博物館は月曜で閉まってい
	た。残念無念。月曜が休館というのは世界共通なのかな。







	トリーア	出典:ウィキペディア

	<基本情報>
	連邦州: ラインラント=プファルツ州 
	郡: 郡独立市 
	緯度経度: 北緯 49度 45分 24秒
	東経 06度 38分 29秒 
	面積: 117.14 km2 
	人口: 114,914人(2015年12月31日現在)
	人口密度: 981 人/km2 
	標高: 海抜 124 m 

	トリーア(ドイツ語: Trier,フランス語: Treves)は、ドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ
	州の都市。人口は約10万人(2005年)。トリア/トリアーとも表記される。
	かつては舞台ドイツ語式発音に基づいてトリール、トリエルと呼ばれたが、近年では現在の標準ドイ
	ツ語の発音に近い「トリーア」が主に用いられる。



	モーゼル川沿いに位置するトリーアは、古代からの交通の要衝地であるとともに、古くからフランス
	文化の影響を濃厚に受けていることもありドイツワイン発祥の地であり、世界的ブランドとして有名
	なモーゼルワインの一大生産地である。近隣の都市としては、約95キロ北東にコブレンツ、約40キロ
	西にルクセンブルクが位置する。フランスのメスにも近い。1995年には大洪水によって大きな被害を
	受けている。



	トリーアの公用語はドイツ語であるが、フランス東中部のロレーヌ地方(アルザス=ロレーヌ)と隣
	接していることもあり、フランス語を会話する住民も多い。
	その起源はローマ植民市アウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)にあり、紀元前に建設
	されたドイツで最も古い都市である。かつてローマ帝国がヨーロッパ進出の拠点とし、「第二のロー
	マ」と云われた。ローマ人は支配の証として、都市の建設と共に地中海文明をこの地に持ち込んだ。
	ヒエロニムスはトリーアをケルト語地域として記録している。この地に居住していたトレウェリ族は
	ゲルマン人の一派だったが、のちにケルト化された。
	5世紀、フランク族の支配下に置かれたが、フン族の侵入によって一旦破壊された。14世紀、トリーア
	大司教にルクセンブルク家のバルドゥインが就任して、一族のカール4世の神聖ローマ皇帝即位に貢献
	した。このためトリーア大司教は金印勅書で定められた選帝侯の一人となり、ドイツ国内で強い勢力
	を誇った。







ローマ時代の遺跡、ポルタ・ニグラ(黒い門)−北側から−

	ポルタ・ニグラ 出典:ウィキペディア

	ポルタ・ニグラ(Porta Nigra)はドイツのトリーアにある古代ローマ時代の建築物。ユネスコの世界
	遺産に登録されている。「ポルタ・ニグラ」とはラテン語で「黒い門」という意味で、その名の通り、
	外壁の黒い石から名付けられた。ただしこれは中世の呼び名であり、古代ローマ時代の名称は不明。
	現在、地元では略して「ポルタ」と呼ばれる。
	186年から200年にかけてローマ市壁の北門として建造されたものであるが、中世になると放棄され、別
	の建造物を作るために一部が破壊された。1025年から1035年に没するまで門跡地で過ごしたギリシャ人
	の隠者シメオンを記念し、新たに身廊や尖塔などを建てて城門を覆う形で「聖シメオン教会」として機
	能転用された。しかし、1805年、フランス革命軍がこの地を占領した際、ナポレオンの命によりローマ
	時代以外の建造物はアプスを除いて取り除かれてしまったため、ポルタ・ニグラも城門跡として元の姿
	に戻された。現在ではトリーアの観光スポットとなっている。
	1986年に「ローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖母マリア教会」として世界遺産に登録された。























































広場へ続く道を南下する。2,30分歩く。



広場に面した木組みの家。如何にもドイツ風だ。フランス風でもある。



世界中、若者はばかものだ。しかしその若さが大いなる変革をも成し遂げる。若いうちは「ばかもの」の方がいいのだ。



ハウプトマルクト広場(中央広場)。上奥にトーリア大聖堂が見えている。





	トーリア大聖堂 出典:ウィキペディア

	トリーア大聖堂(Trierer Dom,聖ペテロ大聖堂)はトリーアの司教座聖堂で、ドイツ最古の大聖堂で
	ある。建造物の顕著な特色は、非常に長い年月の間、様々な時代に様々な様式で追加が行われてきた
	ことにある。その中には、聖ヘレナ(SaintHelen)の指示で置かれた古代ローマ時代のレンガででき
	た中央の礼拝堂も含まれている。様々な様式の混成は、後の時代の建築様式で修復された結果という
	よりも、付け足されていった結果である。高さ 112.5 m、幅 41 m は、トリーアにある教会建築の中
	で最大である。1986年には、他の遺跡群とともに、「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂、聖
	母聖堂」としてユネスコの世界遺産に登録された。キリストが着たとされるローブが保存されており、
	数十年に一度公開される。

	
	2時間ほど街中を歩き回って、wifeは疲れたからローマ遺蹟はパスすると言う。仕方無いので一人で
	バスに乗りローマ遺蹟を目指す。

















古代ローマの大浴場跡(出典:ウィキペディア)。これが現在は以下の様に覆いがかけられ修復中であった。





カイザーテルメン(4世紀に作られた皇帝の大浴場跡)




	
	ドイツ語でよく分からないが地図を頼りに近場のバス停で下車し、やっとローマ遺蹟を探し当てた。
	しかし大浴場址は改修工事中で天幕に覆われ、しかもしかも、円形競技場の入場料3ユーロが無いの
	だ。手元には1ユーロ25セントしかなく、ドルもカードもダメと言う。


	
	財布はwifeが持っていて近くのバス停でダウンしているし、苦肉の策で受付のオジサンに日本の500
	円硬貨を見せ、「これは3ユーロ以上の価値がある。わざわざ日本から見に来たのだ。これで入場さ
	せてくれないか」と頼むが「3ユーロ」と繰り返す。そして、帰れ帰れと言う仕草をする。


	
	ムカついた。ネアンゼルタール博物館のオバサンには親切にして貰って、ドイツ人を好きになりかけ
	ていたのに、この応対でまたその思いが吹っ飛んでしまった。ドイツ人の頭の固さには腹が立つ。
	元々は自分の準備不足が原因なのだが、其れは棚に上げてドイツ人を呪った。



バルバラ浴場



円形劇場(競技場では無く劇場だった)



	外観や入り口から見えている部分を撮影してwifeの待つバス停へ戻る。(バスは一日乗車券を買った
	ので、何処までも乗れるのだ。)






	
	wifeの待つバス停で降りてその話をすると、「もうしんどいからここからまたバスに乗ってポルタ・
	ニグラへ戻ろう」と言う。てっきり「はい3ユーロ。もう一回行って来たら」と言うかと思いきや、
	さっさと帰ろうと言う。なんたる自己中。もうがっかりし情け無くなって話をする気力もなかった。
	ドイツまで来て見たかった遺蹟がそこにあるのに、その思いを理解もしない。呆れてもうwifeの言う
	ままバスに乗り駐車場へ戻って、今日の宿があるハイデルベルグを目指す。このB&Bは昨日予約し
	た。例によって迷いに迷い、午后4時半頃、ハイデルベルグの町外れに在るB&Bに到着した。





バスをポルタ・ニグラ近くで降りる。ここから駐車場まで3,4分歩く。

























ラインの支流、モーゼル川沿いに南下する。











ローマ橋

	ローマ橋の橋脚は紀元144年から152年の間に、川砂利の下、天然の岩を深く掘って構築された。
	橋の上方のアート形の部分は18世紀の物である。ポルタ・ニグラ同様、大きな岩を鉄の留め金で留
	めてある。ローマ時代の留め金は岩の中に埋もれている。現在見える留め金は後世の物である。
	橋脚の岩の黒い部分はポルタ・ニグラと異なり、岩石独自の色である。この岩石はアイフェル地方の
	アンダーナッハの玄武岩である。
	1945年3月2日、アメリカ軍は奇襲攻撃をかけ、このローマ橋をモーゼル川に架かる唯一の橋として確
	保した。その名残の空爆弾は、橋脚の脇、川上に今も残っている。
	(トリアのinformationで、4ユーロで購入した案内パンフ「トリア(日本語版)」より転載。)





	
	今回の旅で、一番お粗末な宿舎だった。ハイデルベルグ城の側を流れるカーネル川に面した住宅街の
	中にある、合宿所のようなB&Bだった。1階がフイットネスクラブで2階がホテルになっている。
	部屋のベランダから運動場が見え、学生達のグループが何組か運動場付近にいて、アスリート達も練
	習したりしている。おそくそういう施設(アスリートの合宿所)で、広く一般人にもB&Bとして提
	供されているのに違いない。



	
	wifeがハイデルベルグ城を見に行こうと言うが、もう5時半で入場は終了している。18:00 まで開放
	で入場は5時半までなのだ。城は明日にして、スタッフに聞いた近くのイタリアン・レストランを探
	すが見つからない。仕方が無いのでハイデルベルグの街まで行き、そこで見つけたレストランで夕食
	をとる。パスタ、フィレ肉のスライス等々を食べる。

	帰りに明日の朝食を買いにスーパーへ入る。しかしカーネル川の河畔はめちゃくちゃ綺麗だった。
	素晴らしい。



ハイデルベルグ街中のレストランから市街を見る。大学が多いせいか若者が目立つ。















ライン川の支流、カーネル川。