2015年夏 フランス・ドイツ紀行 六日目 2015.6.12



	
	2015.6.12.(金曜日) エトルタからカレーを経て、ベルギーへ
	
	例の如く小刻みに目覚め、4:30頃起床。フランスへ来て始めて夢を見た。なんか大学同窓会と関西あさくら会
	(ミニ県人会)の夢だった。昨夜から断続的に鳴っていた雷が、今朝1回だけ鳴った。窓の外を見ると、白い大き
	なゴミ収集車がゴミを回収して廻っている。カモメや他の鳥たちも啼きだして、wifeも起きてきたので早朝の散歩
	に出る。








しかし古い建物だ。モネも泊まった事があるのかもしれない。

















朝一はさすがに観光客も居ない。街はひっそりと静まりかえっている。







ホテルから海辺までは直ぐである。2,3分で海岸へでる。さすがにこの時間では浜辺に人はいない。











人は居ないと思ったが、漁師達はいた。どこでも漁師や釣り人は朝が早いのだ。




	
	wifeと明日の宿の相談をする。今日はベルギーのB&Bに泊まるのだが、明日はそこからドイツへ入り、ゾーリン
	ゲンン近くの何とか言う所にホテルを予約してある。しかしそこはネアンデルタールからは少し遠いので、ネアン
	デルタール近くのホテルに変えようとwifeが言うのだ。
	ま、そりゃ近い方がいいかもしれないので、明日の分をCANCELして、ネアンデルタール近くのケルンに予約し直し
	た。これがまたエライ目に遭うのだが、それは、ま、明日のコーナーで。

	寒くなってきたのでホテルへ戻る。ボチボチ朝食だ。


	
	8:00朝食との事だったので階下のレストランへ降りていくと、女性支配人(オーナーかな?)が両手を広げて
	「10分待ってくれ」と言う。今からパンでも買いに行くのかなとレストランのイスに座っておとなしく待つ。他
	にも客が居たが、彼らもおとなしく待っているようだ。支配人は、向いのホテルに飛び込むと、大きな瓶に入った
	オレンジジュースを抱えて戻って来た。どうやら向いのホテルと経営は同じもののようだ。
	テーブルのバスケットに、女性マネージャーが山ほどのパンを置いてゆく。ハムや卵は無い、所謂コンチネンタル
	というスタイルの朝食だったが、パンやチ−ズが旨かった。






	
	9:30分頃、エトルタの街を後にする。街で運営している駐車場のようだったが、どうも料金体系が分からない。
	有料のようなことが書いてあるが、集金の機械も集金人もいない。仕方がないのでそのまま車を出す。今日はベル
	ギ−へ向かうのだが、その前に途中のカレーに寄っていく事にする。ロダンの彫刻にあるあの「カレーの市民」の
	カレーだ。




	ドーバー海峡の、英国とは距離が一番近いカレーの街に来た。英国王エドワード三世がここを征服した後、殉教者
	達を処刑し、その嘆き悲しむ人々の姿を描いたのが、有名な「カレーの市民」である。大聖堂の前にそのレプリカ
	が置いてある。











	
	イングランド王のエドワード3世は、クレシーの戦いで勝利を収めた後カレーを包囲、フランスのフィリップ6世
	は、なんとしても持ちこたえるようにカレー市に指令した。しかしフィリップ王は包囲を解くことができず、飢餓
	のためカレー市は降伏交渉を余儀なくされた。エドワード王は、市の主要メンバー6人が自分の元へ出頭すれば市
	の人々は救うと持ちかけたが、それは6人の処刑を意味していた。エドワード王は6人が、裸に近い格好で首に縄
	を巻き、城門の鍵を持って歩いてくるよう要求したのである。

	カレー市の裕福な指導者のうちの一人、ウスタシュ・ド・サン・ピエール(Eustache de Saint Pierre)が最初に
	志願し、すぐに5人の市民、ジャン・デール(Jean dAire)、ジャック・ド・ヴィッサン(Jacques de Wissant)、
	ピエール・ド・ヴィッサン(Pierre de Wissant)、ジャン・ド・フィエンヌ(Jean de Fiennes)、アンドリュー
	・ダンドル(Andrieu dAndres)が後に続いた。 彼らはズボンまで脱いだのである。 サン・ピエールを先頭に、や
	せ衰えた6人は城門へと歩いた。 まさにこの、敗北、英雄的自己犠牲、死に直面した恐怖の交錯する瞬間をロダン
	は捉え、強調し、迫力ある群像を作り出したのである。(出典: ウィキペディア)










	サン・ピエール大聖堂の隣にあるパン屋さんでサンドイッチ他を買い込み、この像の後ろにある公園で昼食にする。
	茂みの中は広い公園になっていて、同じ様にベンチに座ってランチを食べているサラリーマン風の人達がちらほら。
	丁度お昼時なのだ。数人の若者がスケボーをやっている。




	フランスとイギリスは近いだけに、昔っから争っていた長い歴史がある。陸続きで国境を接している、或いはドー
	バーのように短い海峡で接していると、争いは絶えず起きていたのだろうと推測できる。秀吉はいざ知らず、江戸
	時代になって日本が鎖国した時、朝鮮や中国に攻め入る機会が無かったし、また攻め込まれる事もなかった。

	鎖国は悪い面ばかりが強調されるが、あの頃の日本にとっては純粋に国内だけで日本文化や社会を形成する土壌が
	培養されたのだと考えれば、あながち悪い制度では無かったのかもしれない。鎖国により外国文化を受け付けなか
	ったおかげで日本文化は成熟できたのかもしれないのだ。出なければとっくに西欧諸国の植民地になっていた可能
	性が高い。南太平洋などは、外国の地図を見ると、今でも頭に「French−xxxx」とフランス領であることを示す巻
	頭語がついているし、フランス海軍の大平洋艦隊はニューカレドニアやタヒチ島などに海軍基地を持っている。
	カナダやオーストラリア、ニュージーランドのように、イギリスの大英帝国領支配はよく知られているが、フラン
	スも結構旧植民地支配は続いている。アフリカの東南端にあるマダガスカルなども、領土面積は日本の数十倍ある
	が、ここも今だフランス支配である。

	こういう西欧列強の支配をまぬがれたのも鎖国のせいだし、海外文化から遠ざかっていたのは、当時の日本人の精
	神構造が、列強に対抗できるまで高揚する熟成期間として評価されてもいいのかもしれない。
	「カレーの市民」像とカレーの歴史を知って、そんな事を考えた。




	12:00時頃カレーを出発。xxxxxxxxxxxx/xxxxxxxxxxxxxxxxxxx(自分で書いておいて読めない部分が2行)。

	13:05分ダンケルクに向け出発。「地球の歩き方」にはカレーもダンケルクも記載がない。最初ダンケルクと
	言う名前からてっきりドイツかなと思っていたが、どっこいフランス国内だった。ダンケルクはフランス本土最北
	端、ベルギー国境から10キロの地点に位置し、ル・アーヴルとマルセイユに次ぐフランス第3の港湾都市である。
	それなのにガイドブック「地球の歩き方」に載っていない。もう一冊のガイドブックもトランクから出しておけれ
	ば良かった。カレーからダンケルクまでは37.7km。そこからベルギーへ入る。

	ダンケルクに入っても迷う。フランスの北方は良く道が判らない。ナビにも「ベルギー」が入らない(入れ方がわ
	からない)ので、賢そうなおじさんを捉まえてナビの設定を訪ねたが、おじさんも暫くナビをいじっていたが結局
	分からないと匙を投げた。仕方が無いので、IPADで出した地図だけを頼りに、南からベルギーを目指す事にした。

	高速道路、一般道路と地図を頼りに北東へ。やっとの事で国境を越え、フランスを出てベルギーに入った。しかし
	それを示す施設などは何もない。道路脇の立て札にユーロのマーク(青地に円形の小さな星印)と「Belgique」と
	書いてあるだけで、税関も入国審査所もない。考えればヨーロッパは陸続きで繋がっており、いまや「ユーロ」と
	いう一つの国なのだ。



	地図と景色を見比べながら、「あっちだ!」「こっちだ、次を右、右」などとやりながら、やっとの事でベルギー
	の Sonlyacks(?良く字が読めない)のB&Bに辿り着いた。



	普通の家に見えるB&Bで、可愛い感じの奥さんが出迎えてくれて部屋に案内してくれる。街も家も、全般的にめ
	ちゃくちゃ綺麗である。室内もフランスとは比べものにならないくらい整えてある。ベルギー人って綺麗好きなん?























	暫く休憩して、教えて貰ったレストランへ行く。広場に面して建物が建ち並び、レストランも4,5軒ある。広場
	を2,3周してやっと教えて貰ったレストランを見つける。久々のステーキにオマール海老。旨かった。ベルギー
	ビールも美味だ。





これは何だ?












	すっかりいい気分になって宿へ帰宅。明日は今回の旅で一番行きたかったドイツの「ネアンデルタール」へ行くの
	だが、ルートを全然検討していない。ナビを操作できない以上、何とかして辿り着かないといけないのだが、もう
	考えるのも辛いほど気分は天国。二人ともベッドにバタンQ。フランスの旅(ベルギーだけど)第六夜が更けて行
	った。