ノルマンディー博物館 2015年夏フランス・ドイツ紀行 四日目 2015.6.10





	
	カーン城

	<Chateau de Caen>フランス北西部、ノルマンディー地方、カルバドス県の都市カーンにあった城。ノルマンディ
	ー公ウィリアム1世(征服王)が1060年頃に建造。現在は城壁だけが残り、敷地内にカーン美術館とノルマンディー
	博物館がある。
	ノルマンディー博物館はこの「カン城」の中にあり、この地方の歴史を教えてくれる、と言いたいが、何せフランス
	語なので私の理解度は低い。城内にはカン美術館もあり、wifeはここで食べたランチが今回の旅行中最高だったと言
	っていた。征服王によって建てられたこの城も、1944年の爆撃で被害を受けたが戦後修復された。城内には美術
	館とノルマンディー博物館の他に、シティ・ホール、聖ジョルジュ教会もある。


	
	ノルマンディーという名は、9世紀に北欧からやってきたノルマン人(ヴァイキング)に由来する。もともとはノル
	マンディーとは「北の人間の土地」(pays des hommes du Nord)を意味した。


	
	当時ヴァイキングはセーヌ川をさかのぼり、あちこちの町を荒らし回っていた。手を焼いたフランス王シャルル3世
	は、懐柔策として一族の首領ロロンにノルマンディー地方の領有を認め、ノルマンディー公に叙することにした。
	ときは911年。ノルマンディー公国の歴史の始まりである。
	キリスト教に改宗したノルマンディー公はかつて自分たちが壊した修道院や教会を再建し、ヴァイキングたちは武器
	を農具に持ち替えて、大地を耕しはじめる。こうして、今見られるようなノルマンディーの美しい風景が生まれた。


	
	1066年には、ノルマンディー公ウィリアムがヘイスティングスの戦いでイングランドを征服、イングランド王ウ
	ィリアム一世となりノルマン朝を成立させた。バイユーに残るタペストリーには、イングランド征服の様子が生き生
	きと描かれている。その後ノルマンディー公国は、1204年フランス王フィリップ2世に併合され、3世紀の歴史
	に幕を下ろした。百年戦争時は再びイングランドの手に渡るが、1450年最終的にフランス領となった。
	その英仏の戦いのさなか、救国の少女ジャンヌ・ダルクが、ルーアンで火刑に処されるという悲劇が起こった。



これは何だったかな? へぇーと感心した覚えがあるんだが。







ここだけか、美術館と共通のチケットを買うかと言われてるのかな。



	
	“100の鐘楼の町”とも呼ばれるカーンは、フランスの北西、パリから200kmに位置する、バス=ノルマンディー地域
	圏にあります。作家のマダム・ド・セヴィニエは、「この地方はとても美しいが、なかでももっとも美しい町がカー
	ンである」と語っています。
	ヴァイキング、そして、1050年頃にはギヨーム・ル・コンケランの町であったカーンは、第二次世界大戦までは、す
	ばらしい遺産を受け継いでいました。ノルマンディー上陸作戦の際の激戦地となり、1944年には町の70%が破壊され
	ました。町は平和記念館を築くことで、記憶をとどめることができました。旧防塞の敷地に建てられたこのメモリア
	ル記念館では、オーディオガイド付きの見学ができ、映画、ドイツ軍に支配されていたときの日常品の展示、そして
	入り口には、イギリスの戦闘爆撃機「ハウカー・タイフーン」が天井から吊られています。この町は、上陸した海岸
	からは数キロしか離れておらず、ドーヴィルやカブールなどの有名な海水浴場からも数キロのところにあります。
	破壊されたにもかかわらず、町には、ギヨーム・ル・コンケランとマチルド・ド・フランドルの二人によって築かれ
	た豊かな遺産があります。ヨーロッパでいちばん広い城壁のひとつをもつドゥカル城には、今日、ノルマンディー博
	物館と美術館があります。また夫妻は、すばらしい眺めの丘の上に、男子修道院と女子修道院をそれぞれ作りました。
	カーンのメモリアル記念館へは、Pariscityvision.com(パリシティヴィジョン・ドットコム)のさまざまなノルマン
	ディーのツアーで訪れることができますが、なかでも「ノルマンディーと上陸海岸」のツアーがおすすめです。
	(PARIS City vision HPより転載)











	
	ノルマン人  出典:ウィキペディア

	ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点
	では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ。

	<略史>

	8世紀後半から活発化。9世紀にはヨーロッパ各地を侵略し、次のような国々を建国した。ヴァイキングが住み着い
	たフランス北西部のノルマンディー(コタンタン半島辺り)のフランス人もノルマン人と言う。「ノルマンディー
	公国」を建国し、11世紀にイングランドに征服王朝「ノルマン朝」を建国した(ノルマン・コンクエスト)。
	その一部は、イタリアへ侵攻し、南イタリアにシチリア王国(オートヴィル朝)を建国した(ノルマン人による南
	イタリア征服)。
	グレートブリテン島、アイルランド島をたびたび侵略した一派は、デーン人、ノース人と呼ばれる。ノース人は北
	方ドイツやフィンランドをはじめ、西はカナダ、東はウクライナにまで進出した。彼らの一部は地中海へ進出し、
	ノルマンディーから来たノルマン人と合流している。
	ロシア平原(ガルダリケ)に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれる。ヴァランジャンとも言う。彼らはこの地で
	「ルーシ・カガン国」、「ノヴゴロド公国」、「キエフ大公国」を建国した。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国
	のコンスタンティノポリス侵攻も行った。ただし彼らは、商業目的も兼ねていた。また、北欧から東ローマへ赴い
	て傭兵となり、皇帝の親衛隊として活動したノルマン人も多い。
	8世紀から9世紀にかけ、ヴァイキングの故地スカンディナヴィア半島を中心にデンマーク、スウェーデン、ノルウ
	ェーと言った王国が建国され、10世紀には、アイスランドが成立した。北欧諸国家を建国したノルマン人たちは、
	北欧神話、ルーン文字を捨て、キリスト教(西方教会)に改宗した。
	アイスランドに進出したノルマン人の中には、大西洋を越え、グリーンランド、アメリカ大陸(アメリカ大陸の発
	見)へ達する者もいた。
	地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加した。その中には、1099年にアンティオ
	キア公国を建国した者もいた。

	ヴァイキングが終了した後、彼らは、北欧において独自の国家を建設し、中世以降、デーン人、スヴェーア人、ノ
	ース人、アイスランド人へと分離し、ノルマン人としての概念は薄れていった。しかし彼らの言語である「古ノル
	ド語」は、16世紀頃まで使用されていた。ノルマン人と言う呼称が復活するのは、19世紀である。この時代、つか
	のまではあったが、彼らのナショナリズムが昂揚し、ノルマン人を冠した「汎スカンディナヴィア主義」が沸き上
	がった。しかし同じゲルマン人であるドイツ人が掲げた「汎ゲルマン主義」(ドイツ統一)に敗れ、ノルマン人と
	しての一体化、統一は失われたまま現在に至っている。20世紀、第二次世界大戦後、北欧諸国が北欧理事会を設立
	したが、これは北欧諸国の協調と協力のための国際組織で、ノルマン人の合同と言うわけではない。

	<移動ルート>

	西ヨーロッパには北海を船で渡り、ロシア平原へ向かった者はバルト海を渡って東のヴォルガ川上流でノヴゴルド
	公国を興し、川を下り、カスピ海へ出た。バルト海から南へ向かった者はドニエプル川上流でキエフ大公国を興し、
	下流へ進み黒海へ出た。黒海からはアゾフ海に注ぐドン川を遡上し、ハザール王国でヴォルガ川からカスピ海へ移
	動することが出来た。こうしてイスラム支配下のコーカサス地方を経由せずにカスピ海まで進出した。カスピ海と
	スカンディナヴィアを結ぶ歴史はこのように古くからあり、現在のアゼルバイジャンのバクーでは地表に浸み出し
	た石油の存在が知られていたため、スウェーデン王カール11世が派遣した調査団のドイツ人医師エンゲルベルト・
	ケンペルが1683年12月頃にヨーロッパ人初の油田記録を残した。ケンペルは1ヶ月滞在後ペルシャに渡り使節団と
	別れ、インドとインドネシアを経由して1690年に来日し、出島に2年間滞在した。19世紀にはスウェーデン人のノ
	ーベル兄弟がバクーに石油会社を設立した。





石器時代の遺物。と言っても石器しか無いが。





フランス語が読めないのが残念だ。ノルマンディの歴史が、先史時代から現代に至るまで展示・解説されている。


上はクリックで拡大します。



5200−2300年前















ようやく土器が出だしたね。







金属器も出現。人間の歴史は、産業革命までは殆ど同歩調ですな。














上はクリック7で拡大。









やがてこの地方もローマ帝国の傘下に入る。







































































ノルマン人の大陸(フランス)上陸の図。





このあたりがノルマン人の残したもののようだ。





















日本の小さな博物館同様、最後のコーナーは民具・農具の展示である。



右上は全く日本と一緒やね。驚いてしまう。





ノルマンディーは競馬が盛んな地方のようだ。いたる所に競馬場がある(上図)。