2015年夏 フランス・ドイツ紀行 四日目 2015.6.10



	
	2015.6.10.(水曜日)  カーンからジヴェルニー村へ
	
	4:30起床。昨夜は二人とも酔いと疲れで10:00過ぎには寝てしまったので、少し早いがもう起きる事にした。
	外はまだ真っ暗だ。荷物を整理し、コーヒーを飲んで今日のコースを確認する。モンサンミッシェルからカンを経て、
	ノルマンディー地方を抜けてモネが晩年を過ごしたジヴェルニーの町まで。


	
	カンにノルマンディー博物館があるのでそこは見たい。ノルマンディーは第二次大戦時の連合軍上陸の地で、近郊の
	幾つもの町にそれを記念した戦争記念館がある。映画「史上最大の作戦」で有名なオマハ舞ガンやユタ海岸等、戦役
	の旧跡には事欠かないのだが、wifeは行きたがらないので、また口論が拡大するのはおっくうなので、カンの博物館
	を見れるだけでも良しとしよう。

	朝食は8:30からだったので、それまで庭に出たり、買った本を読んだり、Taylor Swiftを聞いたりして過ごす。
	昨夜は風が強くて少し寒かったので、今日の副葬はGパンとブレザーにする(それまで単パン,Tシャツが多かった)。


	
	荷物を整理して、庭に停めている車に積み込んでいると、客の一人が歩いて来たので挨拶する。コルベットで来た2
	人組でスェ−デン人だという。彼の相方も出てきたので暫く談笑する。日本と違って左ハンドルなので運転しにくい
	だろうと言う。WIFEも出てきて8:30になったので食堂へゆく。

	日本人そっくりのオジサンが給仕しているが、我々に対しても日本語は喋ってこないので、中国人、或いは韓国人か
	もしれない。こんなに泊まってたのかという程、お客さんが食堂へ集まってくる。ドイツ人だという男がいたが、昨
	夜遅くポルシェで到着した男のようだ。到着時に会った中年の夫婦、老夫婦もおりて来た。宿の女主人は、ドイツ語、
	フランス語、英語でそれぞれの客に流ちょうに対応している。


	
	9:30にB&Bを出発。地道をゆっくり走って、11:10分「カン城」に着く。この地方を支配していたノルマ
	ンディー公ウイリアム征服王が11世紀に建てた城で、町の歴史もそこから始まっている。






	
	ウイリアム征服王と王妃マチルドは従兄弟同士で結婚したため、親族結婚を禁じていたローマ法王によって破門され
	てしまう。2人は謝罪のため男子修道院と女子修道院を建て、これをカトリック教会に寄贈した。男子修道院は1006
	年から12年かけて建設され、現在は市庁舎として利用されている。女子修道院は中に地方議会が置かれているが、い
	ずれもガイド付きで一日2回、内部を見学できる。男子修道院にはウイリアム征服王の墓があり、女子修道院には王
	妃マチルドの墓がある。


	
	第二次大戦が終わった時、このカンの町は一面焼け野原だったそうだ。1944年6月から2ケ月に渡った攻防戦は
	市街地の4分の3を焼き尽くした。殆どが燃え尽きた中にあって、前記男子修道院と女子修道院は奇跡的に焼け残っ
	た。現在町は完全に復興を遂げ、ノルマンディー上陸作戦の戦跡を訪れる観光客と、カン大学で学ぶ各国からの若者
	達で活況を呈している。終戦後、下のサン・ピエール教会も尖塔部分が吹き飛ばされ、暫く教会は屋根無しの状態だ
	ったそうだ。





ウイリアム征服王が建てたカン城














	博物館の後は、向いにある美術館である。どういうわけか、14-15世紀のイタリアの絵画が一杯。美術館内のレスト
	ランで12:30−13:30ランチ。テリーヌとDUCKのソテーをオーダーする。どっちも旨い。WIFEは「今までで
	一番おいしいかもしれない。」などとのたまわっている。









美術館のレストランから見たカン城の中庭。



















	
	ランチの後、一路ジヴェルニー村を目指す。高速を、プジョー、ルノー、トヨタ、ニッサン、ホンダと掛け抜けて
	ゆき、まるで国際モーターカー・ショーのようだ。15:00頃、ジヴェルニー村に到着。駐車場に車を停め、直
	ぐ側のジヴェルニー印象派美術館に入ったが、丁度「ドガ展」をやっていてモネの絵はわずかだった。




	
	モネの家からほど近いところにあるジヴェルニー印象派美術館。印象派をテーマにした興味深い展示を行っている。
	この美術館にも手入れの行き届いた庭園があり、庭を眺めながら食事の出来るレストランもある。






	
	2009年5月開館の比較的新しい美術館である。この美術館の前身は、テラ・アメリカン・アート財団によるジ
	ヴェルニー・アメリカン・アート美術館である。テラ財団がパリに拠点を移すことになり、ジヴェルニー・アメリ
	カン・アート美術館はジヴェルニー印象派美術館として生まれ変わった。美術館の建物は1992年に完成したもの。
	庭園も整備されている。普段は主にモネの作品が展示されているそうだ。




	
	村の中を歩いて、モネの家へ行く。
	モネが晩年を過ごした村として知られるジヴェルニー。ルノワールやセザンヌらと共に、1800年代の新芸術運
	動「印象派」をおこしたクロード・モネ。絵を描くための刺激と環境を求めてセーヌ河畔を転々としていた彼は、
	ジヴェルニーの豊かな自然と水辺の風景に魅せられ、43歳でこの地に移り住んだ。





モネの家




	
	パリの北西約70km、セーヌ川沿いのこの町に、まだ貧困から抜け出せないモネは43歳で移り住み、やがてこ
	の地を「終の棲家」と定め、1890年、50歳で家を購入した。彼はそこに庭を造り、池を掘り睡蓮を植える。
	以来、80歳で生涯を閉じる1926年までジヴェルニーで暮らし、名画「バラの小道」や「小舟」、彼のライフ
	ワークとなった「睡蓮」シリーズなど、数々の名作を生んだ。


	
	現在は、モネ一家が暮らした邸宅、アトリエ、そして園芸家でもあったモネ自身が作った2つの庭園が一般公開さ
	れている。日本美術の大ファンだったモネは、日本を代表するヤナギやフジの木、日本産のリンゴの木を庭に植え
	た。庭には花々が咲き誇っていて、さながらこの世の天国(?)のような光景だ。現在10人の庭師がこの庭を守
	っている。ちょっと前、TVで華道家の河原崎なんたらがこの庭師に1週間ほど弟子入りして修行する番組を見た。







モネのアトリエ







二階から見たモネの庭園







母屋の2階にあるこの寝室で、1926年12月6日、クロード・モネは家族に見守られ静かに息を引き取った。


	
	部屋や廊下には、モネが1871年から収集していた400点を超える浮世絵が展示され、歌麿、広重など日本で
	もなかなか見られない名絵師の作品を鑑賞する事が出来る。さながら浮世絵館にいるような気がするほどだ。幾ら
	好きと言ってもここまでやるか、という程壁一面浮世絵だらけ。










	
	一家の住まいだった母屋は、バラ色の壁とグリーンの窓枠が印象的な建物である。内装や家具は当時のままに再現
	され、台所は青、ダイニングは黄色、と部屋毎に色調が統一されているところに、印象派の巨匠らしい色彩へのこ
	だわりが感じられる。この光景そのものが、まるで絵の中にいるようである。食器もダイニングルームに色を合わ
	せて、現代的と言ってもいい。








	
	四季折々の花々が咲き乱れる庭園の端から、地下道をくぐって(道の下を横切っている)日本庭園に出る。太鼓橋
	の架かった、有名な睡蓮の池が目の前だ。ここであの「睡蓮」の連作が生まれたのだ。「日本風の橋」と紹介され
	る太鼓橋も、この庭園の日本情緒を大いに醸しだし、庭園に詩的な情景を添えている。












	クロード・モネ Claude Monet	出典:ウィキペディア

	生誕	1840年11月14日
	死没	1926年12月5日(86歳)
	代表作	「印象・日の出」、「ルーアン大聖堂(英語版)」連作、「睡蓮」連作 

	クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の
	画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印
	象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。
	ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象
	派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であっ
	た。フルネームは当初オスカル=クロード・モネ(Oscar-Claude Monet)であったが、本人がオスカルの名を好まな
	かったため通常は「クロード・モネ」と名乗っていた(改名したのかどうかは不詳)。

	晩年のモネは、ジヴェルニーの自宅への来客を断る事が多かったが、日本人の来客は歓迎したと言われる。ジヴェル
	ニーの自宅に来訪した日本人家族の少女に顔をほころばせるモネの写真が残されている。また、美術収集家である松
	方幸次郎も作品購入目的で訪れている。若い頃からの日本美術への傾倒が、その理由の一つであったと思われるが、
	モネの作品が日本に多く在る事と合わせて、モネと日本の結びつきが感じられる。





	「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作したが、
	もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。
	『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200
	点以上制作されている。

	1883年にジヴェルニーに移り住んだモネは、1890年に同地の家と土地を正式に購入。1893年には土地を買い増して池
	を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895
	年に造ったものである。睡蓮や池をモチーフとした作品は1890年代半ばから現れるが、本格的にこのテーマに取り組
	むのは1899年からである。同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制
	作された。1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。例外は1908年10月
	から12月の初のヴェネツィア旅行の際に描いた同地の風景である。

	1890年代の『睡蓮』には岸に生える柳の木や、池に架かる日本風の橋などのモチーフが描かれていたが、1900年代に
	なると、画面のすべてが水面でおおわれるようになり、水面に浮かぶ睡蓮、水中の茎や水草、水面に映る空や樹木の
	反映が渾然一体となって描かれている。晩年はモネが白内障を患い、失明寸前の状態にあったこともあり、画面は限
	りなく抽象に近付いている。
	1903年から1908年にかけては多くの『睡蓮』を描き、1909年にはデュラン=リュエル画廊で『睡蓮』48点を展示した
	「睡蓮、水の風景」という個展を開いた。その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をして
	いない。この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。

	1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようにな
	る。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。
	1922年には片目は強い光が分かる程度、もう一方の目の視力も極度に落ち、1923年には3回にわたって眼科の手術を受
	けた。最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。

	パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレ
	マンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては

	(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、
	(2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、

	などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作
	を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ
	思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるとい
	う選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の
	死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ『睡蓮』
	の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。	(出典: ウィキペディア)






Museum shop。壁に掛かった睡蓮の大作も買えるのだ。観客の半分近くは日本人(らしい)。


	
	日本庭園は中に小川が流れ、蕗や芹が生えていて、睡蓮も咲き誇り素晴らしかった。なるほどなぁ、日本人が沢山
	見に来るはずだ。フランスで日本人の琴線に触れている。




	
	セーヌ川を挟んで、モネの家とは反対側の、小高い丘の上の屋敷が今夜の宿だ。くねくね曲がった山道を15分ほど走
	った所にある、元フランス貴族の館で素晴らしい建物だった。昔パリの貴族達がこの辺りを狩場にしていて、狩りの
	時に泊まった宿だそうで、広い庭がついている。パリから車で1時間ほどのところなので、昔の貴族もよくこの地を
	訪れたのだろう。パリから1時間と言っても、パリとはまるで趣が違う。目に映る光景も、風も光もまるで違う国の
	ようだ。





狩りに来る客のために、沢山の寝室を作ったんだろうな。部屋が幾つもある。NETでなければ探せない宿だ。



もう6時は過ぎているが、駐車場には我々の車だけ。翌朝には5,6台に増えていた。












	
	夕食に、丘を降りて麓の町へ来てみたが、レストランが全然わからない。宿のオーナーに聞いてはいたのだが、どこ
	にもレストランらしい家はない。勿論看板も上がっていないし、人が出入りしてそうな雰囲気もないのだ。仕方が無
	いので、今夜はスーパーでパンと肉でも買って部屋で食べようとするが、スーパーがまた分からない。ジヴェルニー
	村へ渡る大きな橋のたもとにある町で、結構そこそこの町なのでスーパーくらいはあると思うのだが。

	仕方が無いので、町の中央にある市営駐車場に車を止めて、買い物客らしき人が歩いてくるのを探す。するとおばさ
	んがやってきた方向2,3分の所に大きなスーパーがあった。やれやれ。
	ハムやサラダやヨーグルト、パン、コーヒー等を買い込んで館へ戻り、ささやかなディナーとなる。

	

	3日分溜まった洗濯物を洗って干す。10:00時頃やっと廻りが暗くなった。AM3:30頃また目が覚めた。