2015年夏 フランス・ドイツ紀行 三日目 2015.6.9



	
	2015.6.9.(火曜日) モン・サン・ミッシェル大聖堂

	昨夜は飲み過ぎて、どうやってホテルへ戻ったか、どんな料理の味だったかろくろく覚えていない。例にとって、
	3時、4時、5時と目が覚め、5時でもう起きることにしたらwifeも起きてきた。風呂に入り、ヨーグルトを食べジュ
	ースを飲んでしばしまどろむ。




	今日はカルナック巨石群の残りを見て、ノルマンディー、ブルターニュ地方のど真ん中を抜け、モンサンミッシェ
	ル修道院を目指す。ノルマンディーというのはそもそも、ノルマン人の国、つまり対岸のイギリスを含む北欧種族
	がフランスへ渡って築いた国である。ブルターニュというのもブリテン人の国という意味なのだ。フランス国の中
	にあって、この地方の人達はブリテン人の末裔なのである。自分たちもそれは自覚していて、独自のブルターニュ
	文化を今も世襲し続けている。各種ブリテンの祭りを行ったり、ブルターニュ語を教えている学校まであるのだ。
	一口にフランス人と言っても同一民族では無いのである。





	
	8時の朝食だったので、7:40分頃ホテル前の海岸を散歩する。久し振りに朝食らしい朝食を食べ、9:15分、
	列石遺跡へ出掛ける。ホテルのフロントのおばちゃんが、どこから来たのかとか色々聞くので暫く話しこんでいた
	ら、半島の付け根にある「サン何とか」という場所は、断崖と波が素晴らしいので是非見て行けと勧める。





















殆ど雨が降らないんだろうねぇ。応接セットが、蒼天のホテル前広場に置いてある。







朝食。フランスはイギリスと違って、何処の朝食も旨い。いくらでも食べられる。







ホテルからモン・サン・ミッシェルへは、カルナック遺跡群の中の道をゆくのだ。




	
	昨日のケレスカン遺跡群の端の方で数枚写真を撮って、オバチャンの話していた絶壁海岸へ行って見る。あまり広
	くない田舎道を、あちこち30分程走ってその海岸へ到着。成る程素晴らしい。断崖と言っても海岸へ降りる道も
	あり、バンでウェットスーツを着替えていた兄ちゃんは、大きなエビを我々に見せて、「この下で採ってきた」と
	言う。見事な伊勢エビ。これから家の朝食のテーブルに乗るのだろうか。夕食かもしれない。























上はクリックで大画面になります。





	
	海岸を離れ、10:00過ぎに高速に乗る。ひたすら3時間高速を走って、13:40分、モンサンミッシェルに
	到着。駐車場に車を入れ、近くのガイダンスまで歩く。ここでバスに乗り換え、モンサンミッシェル島へ向かう。
	自家用車では島までは入れないのだ。その為島より大分手前に駐車場があり、中型バスで島まで20分くらい観光
	客を運ぶのである。ガイダンスには色々資料や模型があり、バスが出るまでここで時間を潰すようになっている。
	勿論バス乗り場に並んでいる連中もいる。並べば座れると思っているかもしれないが、ガイドブックによればこの
	バスには殆ど座席が無いのでほぼ全員立つしかないのだ。従って、並んでも並ばなくても同じなのである。ま、最
	初の4,5人は座れるかもしれないが。















ガイダンス施設の内部









上左がガイダンス施設。上右がバス停



バスに乗り込んでバス停を見る



バス内部







	
	ここには日本人が多い。日本人はほんまにこのモンサンミッシェルが好きだねぇ。ま、日本人だけではないかもし
	れないが。バスに乗り14:50分島に到着。満ち潮の時には完全に島になるので、修道院まで長い橋が作ってあ
	る。その橋の手前でバスを降ろされ、この橋を歩いて渡るシステムだ。島が近づくにつれ、修道院の壮大な姿がだ
	んだん大きく見えてくる。しかし海の中の修道院とはなぁ。世界遺産である。

	昔イギリス南西部の、イギリス最南端の村というマラジォン村に泊まった時、そこにもMOUNT-HEVENという海の中
	の修道院があったが、あそこは歩いてはわたれず、海の中の姿を遠くから見るだけだった。モンサンミッシェルは
	観光客が歩いて渡れて内部も見学出来るのでgood!

	
	イギリス海峡を挟んで英国コーンウォール州にある英語で同名のセント・マイケルズ・マウント(英語版)はモン
	・サン=ミシェルそっくりの小島で、古い城砦と教会がある。また、同じ聖ミカエルの修道院はアイルランド南西
	端の島であるスケリッグ・マイケルでもケルト人が始めており、モン・サン=ミシェルまで結んだ、これら3か所
	はほぼ一直線上に位置する。(出典:ウィキペディア)




	
	堤防道路(1849年築造)の影響により、島の周囲が砂洲化したため、国家事業として2億3000万ユーロ(約312億円)
	をかけて、かつての「島」に戻す工事が行われた。2006年から着手し、駐車場となっている堤防の代わりに橋でつ
	なぎ、海流により堆積砂を取り除くもので、潮の流れを妨げにくい脚付きの橋(長さ約760m)が2014年7月22日に開
	通した。



	
	モン・サン=ミシェル 出典:ウィキペディア

	モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)は、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島、及びその上に
	そびえる修道院である。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年には「モン・サン=
	ミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地と
	なった。

	英名	Mont-Saint-Michel and its Bay 
	仏名	Mont-Saint-Michel et sa baie 
	面積	6,558 ha(緩衝地域 57,589 ha) 
	登録区分 文化遺産 
	登録基準 (1),(3),(6) 
	登録年	1979年 
	拡張年	2007年 
	備考	世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の一部としても登録されている
		(ID868-023)。 

	ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所
	として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩
	でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた(トン
	ボロ現象)。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。
	最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18km まで引いた潮
	が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン
	=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。
	1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによ
	って潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化(陸繋島化)が島の周囲
	で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。かつての姿を取り戻すべく2009年には地
	続きの道路が取り壊され、2014年に新たな橋が完成した。







上をクリックすれば大画面になります。
	
	モン・サン=ミシェル(続き)

	主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。
	教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式(フランス語版)(11〜12世紀)、百年戦争後の1421年に破
	壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば〜16世紀初頭)として再建された。
	これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と13〜15世紀の軍事施設が取り囲んでいる。ゴシック・リヴァイヴ
	ァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成し、その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・
	フレミエ(フランス語版)によって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺
	構も残る。

	この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴラ
	ンシュ司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の
	悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、
	今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自
	分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物
	であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。
	966年にはノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀
	にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。

	百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギ
	リス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。
	18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィ
	クトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになっ
	た。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有
	数の観光地となっている。


	
	1979年にはユネスコの世界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町か
	ら通って運営に当たっている。


	
	島の内部は広い。昔は何か修道院の為の建物だったのだろうが、修道院の下部はいま土産物屋である。所狭しとお
	土産が並んでいる。等身大の中世の甲冑、絵ハガキ、Tシャツ、ハンカチ等々、所狭しと並んでいる。資料館もあ
	る。修道院へ登ってゆく途中にキップ売り場がある。ここでお金を払って修道院の中へ入ることが出来る。


	
	入り口にある「プラールおばさん」(la Mere Poulard)のオムレツ(スフレリーヌ)が名物料理となっている。
	世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市と、ル・モン=サン=ミシェルは観光友好都市である。









修道院下の狭い路地は店が立ち並び観光客で溢れている。





ここは私設の資料館のようだ。それぞれの国の言葉で案内が書いてある。高かったのでパスした。(と思う)







石段を相当登って、大分上まで来た。下の土産物屋が小さくなった。





ここが有料での内部への入り口だ。7ユーロ(800円ほど)と書いてある。ま、妥当だね。











上左のカウンターで料金を払い、下の柵の所に立っているオジサンにチケットを渡して、中へ入れて貰う。











塔の上から見たモンサンミッシェル大橋(?)。何か埋め立て工事をやっていて、ダンプやショベルカーが見える。







修道院





ヘリコプターで塔の先端部分を取り付けた時の模型図。





モンサンミッシェル修道院がどのようにして出来上がったかの模型図。









どうやら満ち潮になりつつあるようだ。













修道院内部








































































	
	百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイ
	ギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。








	
	今夜の宿は、モンサンミッシェルの近くのB&Bである。広い庭に面した部屋だった。このB&Bからも、遠くに
	モンサンミッシェル修道院が見えている。部屋でしばし、うつらうつらして過ごす。









































裏口を開けると、部屋は広い庭に面していて、上はその庭から部屋を写したもの。
右側部分が我々の部屋で、左にも部屋があるが客はいないようだった。



庭には木々が植えてあり、草花が綺麗だった。



その向こうには畑が広がっていて、どこまでも続くフランスの農地風景だ。



	
	B&Bオーナーのおばさんに教えて貰った町のレストランへ行くので、午后8時頃に部屋をでた。歩いても5,6分
	ほどだというので、のんびり小麦畑(だったかな?)の間の道を町へ向かう。








	
	5〜600m歩いてレストランへ。地元の人達が何組か食事中だった。ヒゲヅラのオジサンにオーダーする。ラム
	ステーキが旨かった。腹一杯になって、こりゃ帰国したら体重が完全に元へ戻りそうだ。
	(実際にはさほど戻っていなかった。思うに米は全く食べなかったし、パンもあまり食べなかったからだと思う。)





















	
	帰り道結構風が強く、すっかり体が冷えてしまった。今日の部屋はシャワーしかなく、こんな体にシャワーを浴び
	たら風邪を引きそうだったので、その、ままBEDに入る。wifeは早くもうつらうつらしている。
	フランス第三夜だ。






   上下2枚の写真は、ウィキペディアより転載。






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