2010年夏 フランス紀行 2010.7.5 サントセシル大聖堂


	7月5日(月)晴れ カンカン照り




	
	サントセシル大聖堂(Cathedrale Sainte−Cecile)

	1282年からおよそ2世紀をかけて建造された大聖堂。巨大な赤レンガの大聖堂は 簡素にして威厳に満ちた堂々たる姿を呈し
	ている。この恐ろしいほどの威容を誇る聖堂は、教会の現世での威光を発揮し、同時に要塞としての役目も果たしていた。12世
	紀頃、ここアルビは「カタリ派」というキリスト教の一派の最大の拠点となっていた。地理的に「アルビジョワ派」とも呼ばれた。
	彼らは本来素朴で純粋な平和主義者であったが その教義は当時のローマ教会には不都合なことばかりであった。

	その教義は徹底した二元論で、「神と悪魔」「善と悪」「光と闇」という相反するものの同等の存在を信じていた。つまり神に属
	する普遍の純なる魂と悪魔に属する堕落した邪悪な肉体との葛藤という観点で あらゆる事象を捉えたのである。
	例えば邪悪な肉体からキリストが生まれるはずがない、純粋な精霊であるキリストの磔刑と復活もあり得ない、聖三位一体の存在
	もない、最後の審判もない、純なるエリート信徒は肉体の堕落を避けるため牛肉、鶏肉、卵を食べてはならない。著しく穢れた存
	在の女性にも触れてもならない。
	さらに ローマ教会に大きな富をもたらしていた聖人や殉教者の遺骨や法衣 ゆかりの品の売買をも忌み嫌った。教皇の権威を認
	めない彼らに業を煮やした教皇は遂に1209年、アルビジョワ撲滅の十字軍を派遣した。この討伐隊は血に飢えた極めて残酷な
	軍隊で ほぼ1世紀をかけた絶滅の戦いの中で恐るべき殺戮が繰り返された

	カタリ派もいたるところに城砦を構えて防戦したが、とりわけ彼らの最後の砦でとなった険しい山岳地帯、モンセギュールの攻防
	は悲惨なものだった。10ヶ月の篭城の末彼らは降伏した。カタリ派は15日間の猶予を与えられて、死か改心かを迫られた。
	投降前夜4人の信者がカタリの秘宝を携え、見張りが付かないほどの急斜面づたいに脱走した。この秘宝については、以後数限り
	ない論争のまととなり続けたが 今日まで遂に謎のままである 

	残りの207名全員は信仰を放棄することを拒んだ。1244年3月、彼ら全員は歌を歌いながら丘を下り、行き着いた平地に丸
	く積まれた巨大な薪の山に登った。火が一斉に放たれる中 彼らはなおも歌を歌いながら火あぶりの刑に処せられたという。ギリ
	シア語の「純粋」に由来するカタリという言葉に恥じない 彼らの最後であった

	十字軍との戦いで疲弊し、一時は壊滅状態となったアルビの町だが、その後着任した司教が私財を投じたり、市民の税金を免除し
	たりして復興を図った。この大聖堂もその時建設されることとなった。



サントセシル大聖堂。これが教会である。恐ろしいほどの高さだ。
	1282年に着工されたこの大聖堂は、教会の威厳を示す必要から、高さ40mの壁を持つ要塞のような形に造られたと言う。15世紀に
	描かれたという巨大な壁画「最後の審判」には圧倒される。