2010年夏 フランス紀行 2010.7.12 ロダン美術館





	
	2010.7.12(月曜日)雨

	ロダン美術館 (パリ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	ロダン美術館 (Rodin Museum in Paris) は、フランスのパリ7区にある美術館である。オーギュスト・ロダンの自己の作品及び
	ロダンがコレクションした美術品を中心として所蔵する。美術館の建物は1908年から亡くなるまでの10年間、ロダンがアトリエ
	として使い、そして暮らした「ビロン邸」(Hotel Biron)である。
	ビロン邸は1728年〜1730年にかけて造られた。設計を手がけたのはシャンティイの大厩舎の建築で知られるジャン・オーベール。
	彼はヴェルサイユ宮殿の天井画を描いた宮廷画家フランソワ・ルモワーヌの手を借りて、ロココ芸術の粋を集めた建築を完成さ
	せた。この屋敷が「ビロン館」の名を得たのは、幾人かの所有者を経た1753年、フランス衛兵隊の総司令官ビロン将軍が館を手
	に入れて以降のことである。将軍は建物にはほとんど手を加えなかったが、庭園をパリ有数の美を誇る姿に変貌させた。その後、
	1820年にこの領地がサクレ=クール修道会の手に渡ると、庭の一角に小さなチャペルが建てられ、屋敷からは華美な装飾がなく
	なった。
	1911年にフランス政府がビロン邸を買い取ることとなったときに、この館を気に入っていたロダンが、自己の作品及びコレクシ
	ョンを国家に寄付するので、美術館として残して欲しいと提案した。ロダンの死後の1919年に開館した。別館として、パリ近郊
	のムードン(Meudon)に、ロダンがもう一つ、アトリエ兼自宅としていた館が美術館となっている。





	
	数年前にリニューアルされ、ガラス張りのモダンなエントランスが18世紀の貴族の館と美しいコントラストをなしている。
	19世紀を代表する彫刻家、フランソワ・オーギュスト・ロダンの美術館はパリで見逃せない美術館のひとつである。



スパゲッティの、違った、カレーの市民



「いくでぇーっ!」「ヨッシャー!」{エイエイオー!」



庭園に置かれた未完の大作「地獄の門」(The Gates Of Hell/La Porte de l'Enfer)

















「考える人」はそういう題が付いているから、パッと見考えているように思うが、無題だったら寝ているようにも見える。



これは中庭に置いてあります。





	
	ロダンの彫像が並べられた庭園も人気のスポット。1ユーロで庭園だけの入場もできるため、晴れた日にはベンチで本を読んだり、
	散歩をする地元のパリジャンたちも多く集まる。


	《聖アントニウスの誘惑》
	分厚い僧服に包まれ、体を丸く縮め込む男性の上で、伸びをする官能的な裸体の女性。地面に顔が付かんばかりの修道士は、肉体の
	誘惑から逃れるため、夢中で十字架に接吻する。言い伝えによると、砂漠の地に引きこもった聖アントニウスは、心を惑わす女たち
	の幻想に取りつかれていた。



文豪バルザック





上は文豪ビクトル・ユーゴーがモデル





バルザックのヌード









カレーの市民































これは日本で一番ポピュラーな「ロダン三部作」











花子さん(太田久)・・・・・これ知ってる人はエラい! ロダン通です。







ううう、かわいいねぇー。でも、これが三倍の体積になるんだもんねぇ。





	
	オーギュスト・ロダン	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(Francois-Auguste-Rene Rodin, 1840年11月12日 - 1917年11月17日)は、フランスの
	彫刻家。19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える
	人』など。

	<生い立ちと長い職人時代>

	パリ在住の労働者階級の子として生まれた。父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、オーギュスト・ロダンは妻マリ
	ーとの間に生まれた二人目の子供だった。ロダンはエコール・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青
	年期以降は殆ど独学で彫刻を習得した事で知られている。
	本人の談によれば10歳の時に初めて絵を描いた事で美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と
	呼ばれる工芸学校に入校した。子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランという教員はロダンを最初に評価した
	人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残している。17歳に工芸学校を退校するまで、ジュール・ダルー・アルフォンソ・ルグロな
	ど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っている。

	プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。
	ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続
	けたが、全くボザールからは相手にされなかった。当時のボザールは技術的な要求水準が然程高くなかったとされ、数度に亘って
	入学を拒否された事は非常に大きな挫折といえた。ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの新古典主義に基いた彫刻教育
	と異なる嗜好で作品を作っていた事も一因かも知れない。入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索
	していた。
	1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちを掛けたのが姉マリアの死だった。ロダンを経済的に支えていた姉は恋
	人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていた。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹
	介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神
	学へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の
	道を続けるように諭した。
	修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ・ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けた。また24歳の
	時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンを儲けている他、装飾職人としての労働
	も再開した。普仏戦争の勃発に関しては徴兵対象となったが、近視であった事から難を逃れる事ができた。それでも戦争の影響で
	仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった。職を求めて新天地に向かう事を決めた
	ロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介でブリュッセル証券取引所の建設作業に参加した。

	ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりだったが、様々な理由から6年間滞在を続けた。ベルギー
	時代は彼の創作活動において重要であったと考えられている。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していたが、展覧会用
	の作品を作る余裕がなかった為に、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていた事を知らなかった。1875年、職人の親方との関係が悪
	化した事もあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かけ
	ていった。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受ける事
	になった。
	彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている。ベルギーに戻ったロダンは早速イタ
	リア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。


	<彫刻家ロダン>
 
	『青銅時代』はオーギュスト・ネイトと言う人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところ
	がそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人
	間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと解った審査員たちは、ロダンの彫刻に対して
	賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。

	1880年、ロダンの元に国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作って欲しいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選
	んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などで
	デッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。
	この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミ
	ーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかっ
	た。ローズの元に逃げ帰るロダン。ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、
	死ぬまでそこで過ごす事になる。
	1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製
	作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、彫り続けた。
	ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のモノとなって
	いたのである。

	『考える人』そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」
	と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであると言う説もあるが、
	ロダン自身であると言う説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズと
	の間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』と言う名はこの像を
	鋳造したリュディエがつけたものである。

	1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去
	し、更に9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。
	結局『地獄の門』は未完に終わった。

	ロダンの作品群は世界的に人気があり、特に『考える人』は数多く鋳造され、世界中に存在する。体を捻り、頬杖をついて、地獄
	の門を覗き込む男。そこには人間の内面までも浮かび上がらせようとするロダンの情念が息づいていた。彼の弟子には、アントワ
	ーヌ・ブールデル、小倉右一郎、シャルル・デスピオらがいる。