2010年夏 フランス紀行 2010.7.11 オテル・デ・アンヴァリッド(廃兵院)



	
	2010.7.11(月曜日)晴
	ナポレオンの墓


地下鉄「オルセー駅」の駅構内にあったゴッホの絵。「オルセー博物館」はここで降りる。そっちへ向かう人の方が多い。



地下鉄「オルセー駅」を」出てすぐの「オルセー博物館」。



	
	オテル・デ・アンヴァリッド	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	オテル・デ・アンヴァリッド(仏: l'Hotel des Invalides)、通称アンヴァリッド(仏: Les Invalides)は、パリの歴史的建造
	物の一つ、旧・軍病院。廃兵院もしくは癈兵院とも書く。1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブ
	リュアンが設計の指揮をとり1674年に最初の傷病兵たちが入った。
	建築史上有名なのは附属する礼拝堂の建築である。教会の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれジュール
	・アルドゥアン=マンサールのもとで1706年に完成した。ドーム教会の地下墓所にはナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポ
	レオン一世)の柩が中央に置かれている。また、それを囲むようにして、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれ
	ている。
	21世紀当初となっても100人ほどの戦傷病兵や傷痍軍人が暮らしている。一部は軍事博物館として公開されている。











	
	私は、友人達がまだナポレオンなど聞いたこともない小学三年生の頃に、既にその名前を知っていたし、その生涯も知っていた。
	それは、その頃私が熱を出して三日間程寝込んだ時、父親が三冊本を買ってきてくれて、その中に「ナポレオン伝」があったのだ。
	一冊は何の本だったかもう思い出せないが、もう一冊は南洋一郎の「南海の孤島」という少年向けの冒険活劇小説だった。この本
	にも私の想像力は掻き立てられたが、それ以上に興奮したのが「ナポレオン伝」だった。
	何回か読み返しては、ジョセフィーヌの馬車を追い掛けて求婚する場面では胸がドキドキし、ロシアの冬将軍に惨敗して敗走する
	場面では涙がこぼれた。



	
	しかし私が一番感動したのは、皇帝になる戴冠式の場面だった。ナポレオンは、元老院の長老からかぶせてもらう皇帝の冠を、長
	老の手からもぎとり、「俺は皇帝にしてもらうのではない。俺が自ら皇帝になるのだ。」と言って、自分の手で王冠をかぶるのだ。
	そして ジョセフィーヌの頭にも、自らの手で王妃の冠をかぶせるのである。私はこれを読んで感激した。どういう理由であれほ
	ど興奮したのか。男らしいと思ったのか。上り詰めた出世物語に感動したのか、今となっては皆目わからない。

	しかし当時ナポレオンに憧れたのはよく憶えている。しばらくはノートの名前にも「ナポレオン井上」とか、「ナポレオン修一」
	とか書いていた記憶がある。ともあれ、そんなわけでナポレオンの墓所にこれたのは感慨深かった。棺はどデカかった。フランス
	初代皇帝ナポレオン・ポナパルドはここに眠っているのだ。



この絵が読んだ本の挿絵にあったのをはっきりと覚えている。





	
	ナポレオン・ボナパルト	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下緑字全て)

	1.生い立ち

	1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人
	の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ。島を追われてフランスで一生を暮
	らすと決めて出世しだした1794年ごろから、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレ
	オン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。
	ブオナパルテ家の祖先は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ古い血統貴族であった。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長として
	コルシカ島に渡って16世紀頃に土着した。判事をしていた父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パ
	オリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦争も終わったため、懐柔の見返りとしての報奨を受
	けてフランス貴族と同じ権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れ
	て認められたことで特権を得て、フランス本土への足がかりを得た父カルロは、コルシカ総督とも懇意になり、その後援でナポレオン
	と兄ジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を施すためにフランス本土に送った。

	ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、すぐに国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に1779年に入学
	し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、
	彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を使った戦術は、後の彼の命運を
	大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で
	必要な課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

	この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、このころ
	から指揮官としての才能があったとされるが、実話ではなく偉人伝を彩る後の作り話である。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読
	書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。学校ではコル
	シカ訛りを馬鹿にされて、ナポレオーネという名前から「ラ=パイユ=オ=ネ」とあだ名され、裕福な貴族子弟とは折り合いが悪かっ
	たためである。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に
	文学活動もしていた。





	
	2.軍人ナポレオン

	1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義
	者であった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。1792年、アジャ
	クシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れている独立指導者パスカル・パオリの
	腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと
	家族は追放され、船で脱出するという逃避行によってマルセイユに移住することとなった。

	マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリー
	と結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボー
	ケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエールの弟オーギュスタンの知遇を得ていた
	(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなっ」
	た)。
	1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンはフランス軍のなかでも王党
	派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に参加。前任者の負傷により、砲兵司令官となり、少佐
	に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国)」
	の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンは、フランスの地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた
	反革命側が鉄壁の防御を敷いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元絵描きのカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への
	無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。
	ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言
	する。次の次の司令官であったデュゴミエ将軍がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降
	伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に准将(旅
	団長)へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。

	1794年、イタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され
	たことで、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、
	収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして公安委員オーブリと対立
	したため予備役とされてしまった。
	しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった。この時に国民公会軍司令官となったポール・バラスは、
	トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポ
	レオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮
	圧に成功した。これによってナポレオンは将軍に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール
	将軍」の異名をとった。





これはナポレオンの最初の妻ジョセフインの棺である。



	
	3.若き英雄
 
	近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあっ
	たジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に
	抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国をまきこんでいく中、総裁政府はドイツ
	側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの
	軍を任されたのである。

	ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。 1797年4月にはウィーンへと迫り、同年
	4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。
	これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品
	を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオン
	はラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

	オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フラ
	ンスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つこと
	を企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、
	これを認められた。
	1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。 しかしその直後、アブキール湾の海
	戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びか
	けにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還
	され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近の
	みをつれ単身フランス本土へ舞い戻った。

	フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョ
	ゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握
	った。もしこのクーデターが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪で銃殺刑を免れ得ないところであっ
	た。






	
	4.統領ナポレオン
 
	統領政府の第一統領(第一執政)となり、政権の座に着いたナポレオンであるが内外に問題は山積していた。第二次対仏大同盟に包囲
	されたフランスの窮状を打破することが急務であった。

	まずイタリアの再獲得を目指し、当時イタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つ
	の有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主なものであったが、これらはすでに1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用して
	いたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権
	を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝の後、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に
	大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻って来て、1800年6月14日 のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝
	利した。 別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であった ドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリン
	デンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの
	和約)、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊
	し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポ
	レオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が
	成立した。
	ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生
	産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図った。1802年には有名な
	レジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布
	した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」
	「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。教育改革にも尽力し「公共教育法」を制
	定している。また、交通網の整備を精力的に推進した。

	フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、
	国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登
	用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
	ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きてい
	た。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国
	の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突
	き進んで行くことになる。
	さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもま
	た海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。すでに1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの
	関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリス
	によって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナ
	ポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終
	身執政)と規定した。そして、1804年には、議会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせる皇帝の地位につ
	いた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとし
	たものだったとする見方もある。

	一方、植民地のサン=ドマングでは、ジャコバン派による奴隷制廃止の後にフランス側に戻った黒人の将軍トゥーサン・ルーヴェルチ
	ュールがイギリス軍やスペイン軍と戦ってサン=ドマングを回復し、さらにはスペイン領サントドミンゴに侵攻してスペイン領の奴隷
	を解放した後に全イスパニョーラ島を統一し、1801年7月7日に自身を終身総督とする自治憲法を制定して支配権を確立していた。ナポ
	レオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリ
	ラ戦に苦戦しながらもだまし討ちでトゥーサンを捕え、フランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月アメリカ合衆
	国にルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11
	月にフランス軍は大敗を喫した。
	1804年1月1日、ジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。
	この敗北は、ナポレオンのフランスにとって最初の大規模な敗北となった。



これがナポレオンの棺である。デカい。



	

	5. 皇帝ナポレオン
 
	ナポレオンは、1804年12月2日に即位式を行い 「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となった
	この出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。
	この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアをのぞく欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼
	として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。政治の支配のもとに教会をおくという意志のあら
	われであった。ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家・官僚・学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍
	人を用いた。

	<絶頂期>
 
	1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオース
	トリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オース
	トリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーファーをプロイ
	センに譲渡するとの約束をした。
	1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。もっともナポレ
	オンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解されることになったという。

	海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリア
	のフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇
	しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の
	皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリア
	の間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲等が取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。
	イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦い
	での勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。

	戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟
	を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、
	プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東プロイセンへと逃亡する。こうしてロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン
	帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン
	同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、神聖ローマ皇帝フランツ2
	世は退位し、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。
	並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの
	貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリスの製品を輸
	入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
	ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。
	ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子ア
	レクサンドル・ヴァレフスキを出産した。
	1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失っ
	た兵は多く実際は痛み分けのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約に
	おいて、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削
	って小国としてしまい、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、ドイツ
	のヴェストファーレン地方を含む地域にヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には
	弟ジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年
	に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。
	スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはい
	えない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナ
	ポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。

	ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、
	オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。







	
	<滅亡へ>

	1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し、ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度はスペイン王に就けた。しか
	しこれに対するスペインの反発は激しく、スペイン独立戦争(1808年 - 1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス
	軍は苦戦を強いられた(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。
	ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが後に「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、
	このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。当然のことながらスペインの背後にはイギリスがついた。
	7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてき
	たナポレオンの陸上での最初の敗北だった。
	ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなか
	ったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦いではナポレオンが勝利し、5月には2度目のウィ
	ーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れた。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双
	方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブ
	ルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。

	この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。
	この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消
	滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世
	が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。
 
	大陸封鎖令を出されたことでイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの
	代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイ
	ギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンはロシア遠
	征を決行する(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。

	フランスは同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入した(1812年ロシア戦役)が、兵站を軽視したため、広大な国土を活用
	したロシア軍による徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落者を出した。さらにモスクワをも大火で焦土とされ
	たため、ナポレオン軍は総退却となった。冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵が失われ、無事に本
	国まで帰還してこられたものはわずか5千であったという。
	それに加え、パリではクーデター未遂が起こされた(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。ナポレオンはクーデターの報を聞き、撤退する軍
	よりも早く帰国する。この途上でナポレオンは、大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール
	12世のようにはなりたくない」と洩らしたという。
	この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結
	成する。この同盟には元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子についていたベルナドットのスウェーデ
	ンも7月に参加した。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ル
	イーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・ロシア等の同盟軍と、リュッツェンの戦い・バウツェンの
	戦いに勝って休戦に持ち込んだ。オーストリアのメッテルニヒを介した和平交渉が不調に終わった後、オーストリアも参戦し同盟軍はナ
	ポレオン本隊との会戦を避けるトラーヒェンブルク・プランを採用、ナポレオンの部下たちを次々と破った。ドレスデンの戦いでナポレ
	オンはオーストリア・ロシア同盟軍を破ったが敗走する敵を追撃したフランス軍がクルムの戦いで包囲されて降伏、10月のライプツィヒ
	の戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。

	1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東にはシュヴァルツェンベルク、ゲプハルト・フォン・ブリュッヒ
	ャーのオーストリア・プロイセン軍25万、北西にはベルナドットのスウェーデン軍16万、南方ではウェリントン公率いるイギリス軍10万
	の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。
	3月31日にはフランスナポレオン帝国の首都パリが陥落する。	ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏
	切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、4月16日のフォンテーヌブロー条約の締結の後、地中海コルシカ島とイ
	タリア本土の間にあるエルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。
	ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者として望んだが、同盟国側に認められず、また元フランス軍人であり次期ス
	ウェーデン王に推戴されていたベルナドットもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボン家が後継
	に選ばれた(王政復古)。







南大西洋の孤島セントヘレナ島から、ナポレオンの遺骸をパリへ運んでくる兵士の像。





	
	<百日天下とその後>
 
	ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示
	すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。

	1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な
	勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギ
	リス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗してナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。

	ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇
	をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。
	ナポレオンはベルトラン、モントロン、グールゴらごく少数の随行者と共に、島中央のロングウッドの屋敷で生活した。高温多湿な気候
	と劣悪な環境はナポレオンを苦しませたばかりか、その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、自身の行動を監視、乗馬での散歩も制限され
	るなど、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは、随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セン
	ト・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成
	に大きく寄与した。

	ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐
	ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国
	させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。
	そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し1821年に死去した。
	彼の遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されている。その遺骸
	は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。









	
	<ナポレオンの評価と影響>

	ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が
	滅亡するという皮肉な結果に終わった。
	一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から
	「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョ
	ワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現わ
	れた。以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれることとなった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失から
	フランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設されることになった。

	ナポレオンの後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレ
	オンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から、
	反ボナパルティズムを取り、数年に渡り白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根
	を残すことにも繋がった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各
	国へ飛び火して行くことになる。
	その一方で産業革命などによって急速に個性を喪失していく中において、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンをそのような時代に
	対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。ゲオルク・ヘーゲルが「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、フリードリ
	ヒ・ニーチェが「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって
	現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。ベートーヴェンがその楽譜を破いたとされる故事はそうした背景を象徴するもので
	あると言われている。
	1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフラ
	ンス第二帝政を生み出すことになる。







	
	<ナポレオンの功績>

	ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法
	・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
	
	ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与え
	ている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン
	法典である。ナポレオンはこの法典の条文の完全性に自信をもち注釈書の発行を禁じた。 
	軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重の重視、指揮官の養成などは、そ
	の後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化さ
	ることになる。 
	「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募することも行い、そ
	こで発明されて採用されたのがニコラ・アペールが発明した「瓶詰」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及し
	にくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「缶詰」(1810年イギリスにて発明)などの保存食
	の大発展へと繋がっていく。 
	ナポレオンの大陸封鎖令(対イギリス経済封鎖)によって砂糖価格が暴騰した結果、ビート(砂糖大根)からの製糖が一気に普及し
	た。 
	道路の右側通行がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので左側通行のままとなっている)。 
	1790年3月に国民議会議員であるシャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールの提案によって、世界共通の新しい長さの単位
	を創設することが決議された。それを受けて1791年に、地球の北極点から赤道までの子午線弧長の1000万分の1として定義される新
	たな長さの単位「メートル」が決定され、質量もこのメートルを基準として1立方デシメートルの水の質量を1キログラムと定めた。
	ただフランス国内でさえすでに使われていた単位系があったため使用には反対が多くすぐには普及しなかったが、ナポレオンの進軍
	により一定の普及の効果はあったかもしれない。 
	政治思想史においてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃して
	はならない。 
	短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破
	し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立し、フランスと同様の民法を移植していった。長くフランスの支配を
	受けた地域では工業化が始まり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていった。また、ヨーロッパの諸民族は他民族からの解放
	や民族の統一を学んだ。列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前に戻そうとしたが、社会の仕組
	みは既に変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。 







	
	死因をめぐる論議
 
	ヒ素中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体
	をフランス本国に返還するために掘り返した時、その身体が死の直後と変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用があ
	る)、さらにはスウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変
	化から毒殺を確信し、グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を
	検出して、ヒ素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。
	ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われてい
	て、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。
	フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁・ス
	トラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結
	果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛
	の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明し、生前にヒ素を摂取
	した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には
	両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった。もちろんヒ素以外にも痕跡を残
	さない毒物はこの世にたくさんあるため、死因については依然として論議が続いている。

	とはいえ、死の直後に公式に発表された胃癌説(病死説)は公式には今まで一度も覆されたことはなく、最近の研究でも胃癌を支持する
	ものは多い。また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者がいたし、ナポレオン自身もまた胃
	潰瘍であった。特に1817年以降、体調は悪化している。もっとも20年以上に渡り戦場を駆けめぐり、重圧と緊張が持続し続けた生活では、
	元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさない訳はなかった。
	それでも若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃には、ナポレオンの体を蝕んでいたという主張もある。その死は、ナポ
	レオンが没落し、激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰
	瘍であるという者もいる。これは心身ともに打ちのめされた人間に起こりやすいといわれており、まさに英雄から敗北者・戦犯に貶めら
	れたナポレオンにこそ当てはまるのではないかと主張する医学者もいる。

	ただし解剖所見では、胃潰瘍により胃に穴があいていたことは確認され、初期の癌も見つかったが、癌患者であっても最終的な死因は癌
	ではない可能性もあるため、直接的な死因と断言するには乏しいのがこの公式見解の弱点である。死因かどうかはともかく、胃潰瘍と癌
	をナポレオンが患っていたのは確かな科学的事実である。

	その他、様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病
	理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリ
	ウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞(かんこう)を大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲
	みやすくするために使われた甘味料オルジエとあわせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体
	内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過
	誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する。これはヒ素中毒を、胃癌や胃潰瘍に置き換えても、同じことが言え、さらに死の直
	前に起こった不可解な病状の激変を説明できる唯一の仮説である。

	総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。ヒ素毒殺説は有名であるので誤解されやすいが、フランスでの公式
	見解は一貫して胃癌説である。また前述のようにかつては毒殺の証拠とみられたヒ素が実は証拠能力がないことも証明された。



	
	<両親とその兄弟>

	父:シャルル・マリ・ボナパルト(カルロ・マリア・ブオナパルテ) 
	母:マリア・レティツィア・ボナパルト(旧姓ラモリノ) 
	母方の叔父:ジョゼフ・フェッシュ 

	(兄弟)
	兄:ジョゼフ・ボナパルト(ジュゼッペ)    ジョゼフの妻:マリー・ジュリー・クラリー 
	弟:リュシアン・ボナパルト(ルチアーノ)   リュシアンの子:ピエール=ナポレオン・ボナパルト   
	妹:エリザ・ボナパルト(マリア・アンナ)   エリザの夫:フェリーチェ・バチョッキ 
	弟:ルイ・ボナパルト(ルイジ)		   ルイの子:ナポレオン・ルイ・ボナパルト 
						   ルイの子:ルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世) 
	妹:ポーリーヌ・ボナパルト(パオレッタ) 
	妹:カロリーヌ・ボナパルト(マリア・アヌンツィアタ) カロリーヌの夫:ジョアシャン・ミュラ 
	弟:ジェローム・ボナパルト(ジローラモ)   ジェロームの子:マチルド・ボナパルト 

	(妻と嫡子・養子)
	妻:ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ 
	継子:ウジェーヌ・ド・ボアルネ 
	継子、ルイの妻:オルタンス・ド・ボアルネ 
	養女、ジョゼフィーヌの姻戚:ステファニー・ド・ボアルネ 
	妻:マリ・ルイーズ 
	子:ナポレオン2世(ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ またはフランソワ・ボナパルト) 

	(愛人と庶子)
	愛人:エレオノール・ドニュエル 		子:レオン伯シャルル 
	愛人:マリア・ヴァレフスカ 		子:アレクサンドル・コロンナ=ヴァレフスキ 


	



	<フランス君主一覧>
 
	・カロリング朝
	(843?888, 898-922, 936-987) ピピン (751-768) ? カルロマン1世 (768-771) ? シャルルマーニュ (768-814) ? ルイ1世 (814-840) ?
	シャルル1世 (843-877) ? ルイ2世 (877-879) ? ルイ3世 (879-882) ? カルロマン2世 (879-884) ? シャルル2世 (885-888) ? 
	シャルル3世 (898-922) ? ルイ4世 (936-954) ? ロテール (954-986) ? ルイ5世 (986-987) 
 	・ロベール朝
	(888-898, 922-936) ウード (888-898) ? ロベール1世 (922-923) ? ラウール (923-936) 
 	・カペー朝
	(987?1328) ユーグ (987?996) ? ロベール2世 (996?1031) ? ユーグ (共同君主1017-1025) ? アンリ1世 (1031?1060) ? フィリップ1世 
	(1060?1108) ? ルイ6世 (1108?1137) ? フィリップ (共同君主1129-1131) ? ルイ7世 (1137?1180) ? フィリップ2世 (1180?1223) ? 
	ルイ8世 (1223?1226) ? ルイ9世 (1226?1270) ? フィリップ3世 (1270?1285) ? フィリップ4世 (1285?1314) ? ルイ10世 (1314?1316) ?
	ジャン1世 (1316) ? フィリップ5世 (1316?1322) ? シャルル4世 (1322?1328) 
 	・ヴァロワ朝
	(1328?1498) フィリップ6世 (1328?1350) ? ジャン2世 (1350?1364) ? シャルル5世 (1364?1380) ? シャルル6世 (1380?1422) ? 
	シャルル7世 (1422?1461) ? ルイ11世 (1461?1483) ? シャルル8世 (1483?1498) 
 	・ランカスター家
	(1422-1453) ヘンリー6世 (1422-1453 異説あり) 
 	・ヴァロワ=オルレアン家
	(1498?1515) ルイ12世 (1498?1515) 
 	・ヴァロワ=アングレーム家
	(1515?1589) フランソワ1世 (1515?1547) ? アンリ2世 (1547?1559) ? フランソワ2世 (1559?1560) ? シャルル9世 (1560?1574) ? 
	アンリ3世 (1574?1589) 
 	・ブルボン朝
	(1589?1792) アンリ4世 (1589?1610) ? シャルル10世 (対立王1589?1590) ? ルイ13世 (1610?1643) ? ルイ14世(1643?1715) ? ルイ15世
	(1715?1774) ? ルイ16世 (1774?1792) ? ルイ17世 (名目上 1792?1795) 
 	・ボナパルト家
	第一帝政 (1804?1814, 1815) ナポレオン1世 (1804?1814, 1815) ? ナポレオン2世 (1815) 
 	・ブルボン朝
	ブルボン第一復古王政 (1814, 1815?1830) ルイ18世 (1814?1815, 1815?1824) ? シャルル10世 (1824?1830) ? ルイ19世 (1830 異説あり) ?
	アンリ5世 (1830 異説あり) 
 	・オルレアン朝
	7月王政 (1830?1848) ルイ・フィリップ1世 (1830?1848) 
 	・ボナパルト家
	第二帝政 (1852?1870) ナポレオン3世 (1852?1870) 
 


軍事博物館




























































































中庭には馬関戦争でフランス海軍によって押収された長州藩の大砲の一部が展示されている。別のHPで先に使ったのでちょっと表現が変ですが。