2010年夏 フランス紀行 2010.7.9 藤田嗣治美術館(藤田嗣治廟)



	
	2010.7.9(金)晴れ






	
	藤田嗣治	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日 - 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。
	現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつ
	つ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家であ
	る。
	1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸
	軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学
	者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野
	(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義
	信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤
	田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されている。





	
	藤田嗣治		(続き)

	藤田は子供の頃から絵を描き始め、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範
	学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようにな
	る。森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス
	留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされ
	ており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。
	観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが
	当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
	なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フラ
	ンス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
	1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さ
	で芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム
	・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザ
	ッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。
	また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八 金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フラン
	ス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
	パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の
	絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄する
	ことを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。





	
	藤田嗣治		(続き)

	1914年、パリでの生活を始めてわずか一年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリ
	では絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦
	が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結
	婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月
	後には初めての個展を開くまでになった。
	シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けた。
	すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まっ
	てきており、この状況が藤田に追い風となった。
	面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人
	だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。



	
	藤田嗣治		(続き)

	当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを
	据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも
	含まれている。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couche a la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題され
	る作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。

	このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほ
	どの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
	2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リ
	ュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、再び不倫の末に離婚。1931年に新しい愛人マドレ
	ーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行
	き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。



	
	藤田嗣治		(続き)

	2年後に日本に帰国、1935年に20数才離れた君代と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小
	磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ド
	イツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
	帰国後は戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年こ
	の戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われる事となり、千葉県内の味噌醸造
	業者に匿われていた事もあった。

	1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈
	られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
	1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)
	に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
	最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会
	図録等の監修もしている。40年以上を経た2009年4月2日に東京で、98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったラ
	ンスのフジタ礼拝堂に埋葬された。





	
	ランスは静かで落ち着いた小さな街である。塀に囲まれた芝生のキャンバスの中に、藤田嗣次は眠っていた。壁から天井にかけ
	て、嗣次の描いた絵で埋めつくされている。



	
	廟の入り口で受付をしていた白髪の大男のオジサンが、嗣次自身を描いた所があるといってその絵の前まで案内してくれる。白
	髪のおかっぱ頭にメガネを掛けた嗣次の顔がそこにあった。まるでヒッチコックの映画のように、画家自身も絵の中に登場して
	いる。


	
	写真を撮ってもいいかと聞くと、ほんとはダメだけど仕方ないかという仕草をする。嗣次と同じジャポンだというので目こぼし
	してくれたのだろう。此処には君代夫人も一緒に埋葬されていて、ほんとに落ち着いた静かなチャペルだった。



上の絵の中に嗣次の顔がある。