2010年夏 フランス紀行 2010.7.11 コンシェルジュリー(Conciergerie)



	
	2010.7.11(日)晴れ

	
	コンシェルジュリー

	もとは王宮であったが革命時代の牢獄で有名。もともとフランス王の住居だったコンシェルジュリーは、5世紀に建てられたとい
	われる。その後、1793〜1795年には革命裁判所となり、フランス革命に敵対する政治犯が収容され、刑務所内は常時満員となり、
	ここから2600人以上の人が、コンコルド広場の断頭台へ送られ処刑された。フランス革命(1789年)やロベスピエールの恐怖政治
	の時代である。王妃マリーアントワネットも収容された。断頭台で処刑されるまでの2ヶ月半ここで生活した。
	当時を再現された独居房や牢獄があり、華やかな王宮生活から一変した生活ぶりが哀れである。
	囚人も身分によって待遇が異なり、大半はワラの上で寝かされた。中に入ると、重苦しい、まさに牢獄といった雰囲気が漂う。























薄暗い中に、ジッとこっちを見ているお姉ちゃんの姿を見ると、思わず背筋が寒くなる。



断頭台の露と消えた人々の名前が書いてある。2600人が処刑された。





こんな鍵なら脱走出来そうな気もする。どうせ殺されるのなら、私なら何とかして逃げるね。













この後ろ向きの女性がマリーアントワネットである。勿論人形だが、太秦の映画村のようにいきなり振り向いたりしたら怖かろねぇ。
	
	マリー・アントワネット( Marie Antoinette )	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	マリ・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ(仏: Marie Antoinette Josepha Jeanne de 
	Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
	ハプスブルク=ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテ
	ファンの十一女。結婚前のドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
	(独: Maria Antonia Josepha Johanna von Habsburg-Lothringen)。フランス革命中の1793年に刑死した。



	
	マリー・アントワネット( Marie Antoinette )	(続き)

	<生涯>

	1.幼少期・結婚まで
 
	マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープや
	クラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。
	オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃から
	バレエやオペラを皇女らが演じている。
	当時のオーストリアは、プロイセン王国の脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交
	革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)
	との政略結婚を画策した。
	1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェル
	ディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)が
	ともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
	1765年に、ルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このと
	きアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始
	することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿
	にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネ
	ットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

	2.宮廷生活 デュ・バリー夫人との対立
 
	婚姻の儀式の様子結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、
	ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジ
	アの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきた
	りにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫
	人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている。
	1769年の肖像画ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年
	7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アント
	ワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、
	皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
	2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイ
	ユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女ら
	とは距離を置くようになった。

	3.結婚生活
 
	王と王妃の結婚を祝うメダルマリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって
	(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王
	室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気
	かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。
	母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存する)。さらに賭博に
	も狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれるとピッタリと止めている。
	また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のた
	めのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようである。



	
	マリー・アントワネット( Marie Antoinette )	(続き)

	4.フランス王妃として
 
	1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事
	風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に
	下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、
	アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。
	ローザ・ベルタンという新進ファッションデザイナーのドレスを好んで着ており、ローザ・ベルタンのデザインするドレスや髪型、
	宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパの
	ファッションリーダーとなっていった。
	また、アントワネットはファッションに浪費はしたが、凝ったスタイルのファッションは好まず、簡素なデザインのものを好んだ。
	プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、この頃ローザ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払った
	スリップドレスをデザインしている。ここではポリニャック伯夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入
	りできなかった。
	こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの
	噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間に
	もそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞ
	って非難した。
	彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、
	特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎
	悪をかき立てることとなった。
	1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。この
	ように彼女に関する騒動は絶えなかった。


	5.フランス革命
 
	1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック伯夫人ら、それまでマリー
	・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹
	エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移
	されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助け
	を求めようと計画する。
	1791年6月20日、計画は実行に移され、ルイ一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは
	疑惑をそらすためにルイとアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そ
	して足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料
	品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅ら
	せてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。
	このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
	1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。
	8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、
	エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
	タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの
	時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

	6.革命裁判
 
	1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコ
	バン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー牢獄に
	移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の
	生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に
	難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」と証言させた。しかし、こ
	の汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。
	しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場におい
	て夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
	処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきもの
	だが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から後に革命の独裁者となる
	ロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー
	・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。



	
	マリー・アントワネット( Marie Antoinette )	(続き)

	7.ギロチン処刑

	遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われ
	る。そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き
	立てられて行った(ルイ16世の場合は馬車だった)。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛ら
	れていた。その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴
	が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。
	通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが
	見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もあるが、これは真実ではない。しかしこのような噂話が実しやかに語られるほど、
	彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠にはなろう。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑さ
	れた彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。
	遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地と
	なっていた旧墓地を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋
	葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、
	歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。

	8.評価

	サン=ドニ大聖堂の慰霊碑その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、「パンがなけ
	れば」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明している。ただし、彼女が一部の寵臣
	のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルに耽ったことは事実であり、彼女個人や
	王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪が
	ことさら生み出された。
	しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。1778年の場合を例に取ると、王室お
	よび特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。フランスのシンボルた
	る王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言え
	る。既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていたのであり、当時の貴族は免税の特権があった。また、アントワネット
	が所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとさ
	れ、信憑性が疑問視されている。
	マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。彼女はフラ
	ンスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、
	あえて旧体制を守ろうとしたのである。このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)、それだけでも
	死に値する罪状となったのである。彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え
	上がらせる結果となってしまうのである。
	このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に
	登る間際まで彼女を案じる手紙(彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの)を残すなど、妻としては幸福な一生だったと
	も言える。その幸福が王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても。
	死刑が決定した直後のマリー・アントワネットがエリザベート王女にあてた書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、
	何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如
	や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であ
	るかを知るものです」という言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたとも言える。