2010年夏 フランス紀行 2010.7.5 Carcassonne(カルカッソンヌ城)


	7月5日(月)晴れ カンカン照り


Carcassonne(カルカッソンヌ)










	
	ここの宿は道路に面していて、駐車場もホテル裏の、通りを隔てたところにあってちょっと不便だったが、フランスへ来て初め
	て浴槽のある部屋だった。今までは全てシャワーだけだったので、久しぶりに身体がほぐれた。荷物を整理して、インターネッ
	トへ繋ごうとするがうまくいかない。フロントの金髪のお姉ちゃんに聞くが、何やら分からない事を言う。しばらくトライして
	みるがダメなので、諦めてシテ「Siteの」見学に行く事にした。





	
	シテとは、古代城塞都市の事だ。カルカッソンヌ城を中心にした巨大な城下町とでも言うか、堅固な城壁は二重になっていて、
	内壁の下部に残る石積みは、古代ローマ時代に積み上げられた石が今も残っているもの。



	
	カルカソンヌ

	カルカソンヌ (Carcassonne) は、フランス南部の都市、ラングドック=ルシヨン地域圏に属するオード県の県庁所在地である。
	古代ローマ時代、要塞都市が建設されたことで有名である。面積は65.08km2、1999年の人口は43,950人、近郊を含めたカルカソン
	ヌ都市圏としての人口は82,577人である。2004年に施行された自治体間連合(Intercommunalite)の人口は64,952人。
	街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていた女性カルカス (Carcas) 
	が勝利の鐘を鳴らした (sonner) ことに由来する。
	古代ローマ時代から発達した城塞都市であるシテ(cite, またはville haute)と、オード川をはさんだ向かいに展開した下街(ville
	basse)との二区画からなる都市である。シテを覆う城塞は19世紀に建築家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによ
	り修復されており、シテは「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で1997年にユネスコの世界遺産に登録された。  





	
	シテの内部へ入る門は、深い堀の上にかかっていて、敵の侵入を防ぐために、鎖で引き上げるようになっている、あの跳ね揚げ
	門である。本物は初めて見た。渡っているのはWife。





	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	「歴史的城塞都市カルカソンヌ」は、フランス南西部の都市カルカソンヌのうち、城壁に囲まれた部分を指す、ユネスコ世界遺産
	としての登録名。世界遺産登録後は、フランス国内ではモン・サン=ミシェルに次ぐ年間来訪者数を誇る一大観光名所となってい
	る。
	かつては、この部分だけでカルカソンヌ=シテという独立したコミューンだったが、現在は周辺も含めてカルカソンヌ市となって
	いる(以下、本項目では便宜上「カルカソンヌ」ないし「シテ」はこの旧「カルカソンヌ=シテ」を、「カルカソンヌ市」は現在
	のコミューンとしてのカルカソンヌを指すものとする)。

	ガロ=ローマン期から続くこの都市は、オード川右岸に沿って、現在のカルカソンヌ市内南東部に位置しており、ひとつの城(コ
	ンタル城)とひとつのバシリカ(サン=ナゼール大聖堂)を抱えている。
	2500年に及ぶカルカソンヌの歴史は、建物の各所に刻まれている。



	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	(続き)

	<ガロ=ローマン期から西ゴート王国時代>

	紀元前6世紀以降、この一帯にはガリア人が進出した。そして、のちには古代ローマ帝国の都市として発達した。この頃の城塞都市
	(オッピドゥム)の面影は、残存する図面などから窺い知ることが出来る。3世紀になると、都市は様々な攻撃にさらされ、城壁の
	内側に籠城することも見られた。このガロ=ローマン期の城壁は、現存する城壁の一部として残っているものもある。453年には、
	西ゴート王国の北部の前線都市となり、508年には、フランク国王クロヴィス1世が、カルカソンヌを奪取するために西ゴート王国
	を攻撃した。
	こうした入植の歴史は、地理的要件に基づく戦略的優位性から説明される。カルカソンヌは、モンターニュ・ノワールとピレネー
	山脈の間に位置し、かつ地中海と大西洋を結ぶ要衝でもあるのだ。
	725年から729年にはシテはムスリムの手に落ちたが、ピピン3世が奪還した。この時期は、歴史の語り部たちに、後述する女領主カ
	ルカスの伝説を触発することになった。

	<封建時代>
	封建制初期は、都市と城塞の拡大期であった。1082年に、トランカヴェル家が権力を握り、カルカソンヌからニームにいたる広大
	な公国のなかで、都市をまとめ上げていた。アルビ、ニーム、ベジエの子爵ベルナール・アトン・トランカヴェルのときに、カル
	カソンヌは大いに栄えたが、カタリ派が根付いたのもこの頃だった。

	トランカヴェル子爵は1096年にサン=ナゼール大聖堂の礎石を置くことを許可した。この大聖堂の建材は、ローマ教皇ウルバヌス
	2世によって聖別されたものであった。1130年には、子爵は城の建造に着手させる一方、ガロ=ローマン期の城壁の修繕を命じた。
	この時初めて、カルカソンヌは完全な城壁に取り囲まれた都市となったのである。
	しかし、都市は、カタリ派の拡大に対してインノケンティウス3世が命じたアルビジョワ十字軍という形でカペー朝の歴代国王たち
	の侵攻を受け、1209年には十字軍による攻囲も受けた。レモン・ロジェ・トランカヴェルはすぐに降伏し、城に幽閉されていたと
	きに赤痢で歿した。そして、1226年にはカルカソンヌはフランス王領に組み込まれたのだが、この時期は純潔派の追放に関連して
	火刑や告発が横行し、都市住民にとっては受難の時代となった。

	<王国領の時代>
	ルイ9世は、籠城によって戦争を回避するための第二の城塞の建造を命じた。カルカソンヌは、スペイン王に支配されていたアラゴ
	ン王国とフランスとの国境紛争の前線地帯に含まれていたからである。この城塞建設以降、シテは戦火にさらされることもなくなり、
	百年戦争にも耐えた。大胆王フィリップ3世の治下での工事において、ナルボネーズ門、トレゾー塔、サン=ナゼール門などの建造
	が行われ、ガロ=ローマン期の城壁やコンタル城の外堡の修復なども行われた。



	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	(続き)

	<シテの放棄>
	1659年に、現在につながるフランス・スペイン間の国境線を定めたピレネー条約が締結されたことにより、カルカソンヌは、その軍
	事的・戦略的地位を喪失した。
	それ以降、アンシャン・レジーム、フランス革命期を通じて、シテは兵器や食糧の貯蔵庫として使われ、第一帝政期にも戦火とは無
	縁の場所となった。

	<シテの修復>
	修復計画の始まり
	戦略的な重要性を失ったことによって、シテは状態が悪化していった。19世紀末には、シテ内には112軒を数えるのみであった。塔
	は荒れ果てていたし、多くが貯蔵庫などに転用されていた。
	1850年に、歴史家でもあったシテの名士ジャン=ピエール・クロ=メイルヴィエイユによって、シテの破壊は食い止められた。彼は、
	地元の企業家たちによって、外壁が石材として盗み取られていくことに心を痛めていたのである。また、彼は大聖堂の最初の本格的
	な発掘を行い、ラデュルフ司教の礼拝堂を発見した。
	史跡調査の責任者であった作家プロスペル・メリメも、この朽ちかけたシテに愛着を抱いた。すでにサン=ナゼール大聖堂の修復作
	業に着手していたヴィオレ=ル=デュックは、併せてシテの修復のための研究も担当することになった。
	1853年に、城塞内の西部から南西部にかけて修復工事が始まり、ついでナルボネーズ門の塔やシテの正門の修復も行われた。城塞は
	あちこちが補強されたものの、修復工事の主眼は、塔の屋根やコンタル城の銃眼・櫓等に向けられていた。ヴィオレ=ル=デュック
	は、城壁に沿った区域の土地収用と建造物の取り壊しも命じた。彼は、シテとその修復に関する数多くのスケッチも遺している。
	1879年に彼が亡くなると、門下に当たるポール・ベスヴィルバルド (Paul Boeswillwald) が遺志を継いだ。

	<物議をかもした修復>
	彼らの修復作業は批判を招いた。実際のところ、ヴィオレ=ル=デュックやベスヴィルヴァルドの選択が常に適切なものだったわけ
	ではない。その典型例は屋根に用いられた建材である。ヴィオレ=ル=デュックは、北フランスの城を修復した経験をもとに、スレ
	ートを使って尖った屋根をつけた。ところが、カルカソンヌ一帯では、屋根はタイル作りの平らなものが一般的だったのである。
	このため、現在目にしている屋根は、シテ本来の屋根とは異なる特徴を持っている。ナルボネーズ門に備わっている跳ね橋も、修復
	工事の誤りの例とされる。しかしながら、こうした錯誤にもかかわらず、ヴィオレ=ル=デュックは、観光客にとっては壮麗なシテ
	の姿を今日においても見せてくれる天才的な建築家とされているのである。

	<シテの建築>
	サン=ナゼール大聖堂軍事的な技術はこのシテの建築に影響を及ぼした。その防衛システムは、巨大さ、複合性、保存状態の良好さ
	とで突出したものであり、現存するヨーロッパの城塞の中では最大を誇る。都市には二重の防壁が取り囲んでいる。それらは砂岩製
	で、全長3000mで53の塔や外堡を含んでいる。



	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	(続き)

	<ガロ=ローマン期の技術>
	ガロ=ローマン期に作られた最初の城壁は、オード川やその渓谷を支配できるようにと岩だらけの突き出た場所に作られたものであ
	る。この内部の城壁は今も一部に見ることが出来る。それは規則的な切石とレンガの列で出来ている。このレンガはその柔軟性によ
	って構造物の安定性を保証するものであり、不測の沈下をカバーしうるものである。当時の塔は西側の城壁に見ることが出来る。こ
	の塔の上層はアーチ状に大きく開かれているが、これは弓で射ったり槍を投げたりするためである。他方で、防衛上の観点から、こ
	の解放部には、上下する大きな窓が取り付けられていた。

	<中世の技術>
	封建制の時代は、1096年からの大聖堂の建築と、12世紀の伯爵城の建造とによって特徴付けられる。伯爵城は元々二棟の建物からな
	っており、1150年に礼拝堂が加えられ、ちょうど中庭を囲むようにU字型になった。
	13世紀を通じて、フランス王たちはシテの外側に第二の城壁を建造するよう命じた。塔が取り囲み、乾いた溝が設置された。その後、
	二つの城壁の間は矢来 (lice) に改修された。ルイ9世の時にはコンタル城が建て増しされ、オード川沿いに別の城塞都市を建設する
	ことも許可された。
	内側の城壁は、フィリップ3世とフィリップ4世の時に改修された。この時にナルボネーズ門、サン=ナゼール門、トレゾー塔などが
	建造されたのである。これらの建造物は、打ち出し模様の石の使用と壁の高さとに特徴付けられている。







	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	(続き)

	<女領主カルカスの伝説>
	「女領主カルカス (Dame Carcas) の伝説」は、カルカソンヌの名の由来を説明しようとするものである。サラセン人の占領下にあっ
	た頃、侵略しようとしたカール大帝は市門の前に陣を敷き攻囲戦を行った。この攻囲は五年を超えたが、この時、夫の大公亡き後シ
	テの騎士団を率いていたのが、公妃カルカスであった。
	攻囲が六年目に入ったとき、シテの内側では兵糧も水もなくなりかけていた。カルカスは残っているものの一覧を作ろうとしたとき
	に、市民は豚一頭と小麦の袋をもってきた。彼女はこれを見て一計を案じ、豚に小麦を食わせて太らせた上で、塔から市外へと放り
	捨てた。
	これを見たカール大帝とその部下たちは、太った豚を惜しげもなく捨てるのだから、市内にはまだ十分な兵糧があるに違いないと考
	え、撤退を決めた。カルカスはその勝利を祝福し、町中の鐘を鳴らさせた。撤退中の大帝軍の一人はこう書き記した。「カルカスが
	鐘を鳴らしている(Carcas sonne ; カルカ・ソンヌ)」と。伝説では、これが市の名前の由来になったのだという。

	<ジョゼフ・プー>
	ジョゼフ・プー(Joseph Poux, 1873年 - 1938年)はこの城塞都市を研究した歴史家で、1923年に『カルカソンヌの城塞都市』を上
	梓した。この本には、カルカソンヌについて知っているべきことが網羅されている。現在では、城塞の入り口の庭園には、彼の功績
	を称える石碑が置かれている。



	
	歴史的城塞都市カルカソンヌ	(続き)

 	<世界遺産>
	シテは1997年に「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で世界遺産に登録され、夏の4ヶ月間で20万人が訪れる一大観光地となった。

	<登録基準>
	この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

	<数字でみるカルカソンヌ>
	2500年	- シテの歴史。
	53	- 城壁の塔の数。
	3km	- 城壁の長さ。
	1323人 - ヴィオレ=ル=デュックの計算による市の防衛に必要だった人数。
	15%   - シテの修復された部分。
	58年  - 修復工事の期間。
	33万人 - 2001年の伯爵城の入場者数。
	200万人 - シテを訪れる年間の観光客数。これはモン・サン=ミシェルに次いでフランスで第二位である。






	なにやら怪しげな店や、何を売っているのかわからん店もたくさんあった。wifeはなにやら料理の道具らしきものを買っていた
	が、帰国して使っているのを見たことがない。









城壁内の町は通路が入り組んでいて、入ってきた所へ戻るのが大変だった。









	
	広場を取り囲む様にして展開しているレストランの一軒で夕食にする。ムール貝とシーフードのパスタがばかでかい量だった。
	メロンとスモークした鴨のスターターも、メロンが一玉丸ごと入っているのではないかと思うほどデカく、旨かった。





	
	七時半頃から始めたディナーが九時頃まで続いたが、みんなまだ食べているし客も引っきりなしに来る。薄暗いが、まだ完全に
	は暗くなっていない。イギリスに行った時と同じく、ここフランスでも夏場は完全に日が暮れるのは夜10時すぎである。おそ
	らく、夜遅くまで起きているので、昼間二三時間の昼寝が必要なのだろうと思う。









そろそろLight upが始まった Carcassonne 城。