2010年夏 フランス紀行 2010.7.2〜7.13



	
	2010.7.9(金)晴れ

	二時半、四時、六時と目が覚める。今日はいよいよパリだ。朝目覚めて、七時半だと思っていた朝食が八時半からだったので、
	荷物を整理してから付近の散策に出る。全く絵に描いたようなフランスの田園風景である。刈り取った麦畑の丘陵がどこまでも
	続き、プラタナスの木立は道を囲んでいる。小鳥たちが囀り、アヒルや鴨の親子が時折道を横切る。ここにはキツネやイタチの
	類はいないのだろうか。




	
	朝食には、オヤジが作ったというチョコレートのペーストが出た。パンも自家製だ。朝食の後現れたオーナーの息子にも挨拶を
	して、 Chevannes を後にする。昨夜同宿したフランス人の老夫婦は、後から食堂に来たが、我々より少し先に出発していた。
	車は、延々と続く田園風景の中をゆく。
	塔のある農家の朝食は、自家製のベリー類のジャムとチョコペーストじゃなくてブラウニー、もしくはチョコレートケーキ。
	朝食のテーブルの上の四角の物はブラウニーが正しいと思う。飲み物はホットチョコレートだったような気がする。[wife]











宿を出てしばらくしてポツリポツリと降り出した。だが本格的な雨ではなく、小雨にもならなかったが1,2時間は降っていた。



	
	畑は小麦(若しくは大麦?)が実っていた。このあたりには葡萄畑は無かった。フランスは、農産物輸出額では世界第2位を占める。
	農業は、生産額世界第6位とフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。







小さな町へ入る。パン屋を探して昼食のパン、飲料等を仕入れる。下左がそのパン屋さん。





	
	上左の公園にトイレがあったので(右側の塔。左側は何かわからなかった。)、ここで止めて昼食。すぐ小振りになったので
	ベンチから車内へ移動した。他にも何組か、同じように社内でランチにしているカップルがいた。



小さな林の側で煙草休憩。フランスの田舎はホントに真っ直ぐな一直線の路が多い。しかも車も人も少ないし、何か爽やか。





あと10cm足が長ければねぇ。往年の小林旭も真っ青、てな感じで芸能界へ行けたんだが。





ここからの三枚の写真は、スッ飛ばして教会が下の大きさになるまで3枚しか撮れなかった。





	

	今日はパリへ入る前に、藤田嗣次の廟があるランスに寄る。前回Wifeがフランスへドライブ旅行に来た時には、開館時間が14:00
	〜16:30で間に合わなかったらしく、今回は是非とも寄りたいと言う。前回Wifeは、大学時代の友人と二人でフランスをドライ
	ブしているのだが、友人がオートマでないと運転できないと言うのでオートマにしたが、殆どWifeが運転していたそうだ。私も、
	その友人も旦那もよく知っていて、東京時代は、七里ヶ浜の自宅に泊りにいったり、家族ぐるみの付き合いをしている。前回は
	このオバサン二人組のドライブ旅行だったのだ。

	レンタカーは最初友人の希望でATを予約したら、ベンツが待っていた。初めて運転するベンツだなぁと思っていると、二人の
	大型スーツケースが2こラゲッジルームに収まらない。バックシートに荷物を入れたまま駐車してクルマを離れたりすると必ず
	車上荒らしに会うと言うので、大きな荷物室のクルマに変更して貰う。用意されたクルマはシトロエンのC4ピカソだった。
	ちょうどオデッセイくらいのクルマでMTディーゼル車。左ハンドルのMTで、しかもシフトレバーがダッシュボードから生え
	ている。どのレンジに入っているのか慣れるまで、ちょっと戸惑う。MT車だったので、友人は楽しみにしていたフランスでの
	運転を諦めランチにビールを楽しむことで納得していた。
	景色を見ながら運転していると「景色は私が見とくけん、あなたは前を向いて運転に集中とって。」と、言われた。彼女は、博
	多を出てから標準語で話すことが多い。[帰国後Wife]

 



嗣次廟をでて空を見上げると、カラリとすっかり晴れていい天気である。ヒットラーではないが「パリは晴れているか?」








	
	後は地道を通って一路パリを目指す。フランス的な、余りにフランス的な光景の、小麦畑、ひまわり畑等々の丘を幾つも越えて
	パリへ入る。パリの直前まで、田舎の光景が続く。






	
	シャルルドゴール空港の Herts事務所ですんなり車を戻す。今回は去年のような事故もなく、窓口で待つこともなかった。空港
	から、PER という電車でパリ市内へ入る。空港を出た時はガラガラだったが、途中からサラリーマンや学生が沢山乗り込んでき
	て、サンミッシェル駅に着いた時には満員だった。駅からホテルまで、石畳の上をゴロゴロと荷物を引いて行くので、最初ドゴ
	ール空港についた時壊れていたバッグの、もう片方の車も壊れてしまった。Wifeは、難儀している私にはお構い無しで、一人で
	どんどんホテルへ行こうとするので、小さな諍い発生。



	
	ホテルはセーヌ川から少し入った所にある。ホテルに荷物を置いて、Wifeがモンパルナスにあるスーパーマーケットに行くとい
	う。何でフランスに来てまでスーパーにと思うが、何でもMONOとかいう有名な店らしく、そこを見たいという。仕方ないので付
	き合う事にする。「モンパルナスの夜は更けて」の舞台も見たかったし。



パリでも便利な回数券綴りのようなTichetセットを買う。これは何か、小さなキップが何枚もPocketにセットになっている。





	
	パリ	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	国  フランス 
	地域圏(Region) イル=ド=フランス地域圏(地域圏首府) 
	県(departement) パリ(県庁所在地) 
	郡(arrondissement) 20区役所所在地 
	郵便番号 75001 - 75020、75116 
	市長(任期) ベルトラン・ドラノエ(2001年 - 2014年) 
	自治体間連合(fr) aucune 
	座標 北緯48度51分44秒 東経2度21分04秒 / 北緯48.86223度 東経2.351074度 / 48.86223; 2.351074 
	標高 平均:33m
	最低:28m
	最高:130m 
	面積 市:105.40km2
	都市圏:14,518km2 (10,540ha) 
	人口 市:2,170,000人
	都市圏:11,840,000人(2007年1月) 
	人口密度 20,348人/km2 
  

	パリ(Paris、巴里)は、フランスの首都であり、イル=ド=フランス地域圏の首府。ニューヨーク、ロンドンなどと並ぶ有数の
	世界都市である。
	ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。行政上
	では、1コミューン単独で県を構成する特別市であり、ルーヴル美術館を含む1区を中心に、時計回りに20の行政区が並ぶ(エスカ
	ルゴと形容される)。
	北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって一年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気
	候の代表的な都市である。
	市域は城郭都市時代の城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km2。参考:東京都・山手線の内側は63km2、
	ニューヨーク市・マンハッタンは59km2)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形と
	なっており、面積は105.40km2。
	市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2007年現在で217万人である。郊外
	のイル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)を含めると人口1,170万人で、この地域にフランスの全人口の約2割が集中しており、
	西ヨーロッパではロンドン都市圏に次ぐ人口規模を有する都市圏となっている。




	
	パリ		(続き)

	パリ市内の地形は、比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。

	パリ出身者・居住者は男性がパリジャン (Parisien)、女性がパリジェンヌ (Parisienne) と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地で
	あったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、更に近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌ
	も多民族・多人種化している。
	2008年にはグローバリゼーションと世界都市の研究グループおよびネットワーク(GaWC)により、東京と同ランクである第1級世界
	都市+に選ばれている。
	フランスにおける経済の中心地である。2008年のパリ都市圏のGDPは5640億ドルと世界第6位であり、ロンドン都市圏(5650億ドル)
	とほぼ同規模である。世界レベルの大企業の本社も集積しており、2008年のフォーチュン・グローバル500においては、東京に次
	ぎ、世界で2番目に世界的な大企業の本社が集積しているとの評価を受けている。
	また観光が大きな産業となっているフランスにおいても最も多くの観光客を迎え入れる街である。




	
	パリ		(続き)

	「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは絵画から彫刻、流行、音楽に至るまで、さまざまな芸術の世界的な中心地とし
	て名を馳せている。特に近年はパリコレクションや料理競技会の開催にみられるように、フランスを代表する服飾文化や食文化の
	分野で世界的な情報発信地となっている。
	パリは「芸術の都」「花の都」などと呼ばれてその文化的影響を世界に与え続け、結果、世界屈指の観光都市ともなった。そのた
	めに1989年の欧州文化首都に選ばれていた。毎年約4,500万人の観光客を受け入れ、その6割は国外からの人々である。
	主な集客装置は、歴史的な建造物、数多くの著名な美術品、高級銘柄に代表される流行やグルメ等である。建造物は、中世以前の
	ものも残るが、第三共和政期のパリ改造やベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造
	物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によっ
	て収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。



	
	スーパーは、私に言わせれば普通のスーパーで、わざわざ電車に乗ってくるようなとこかい、と言う気がするが、ここで土産の
	お菓子や、哲平への土産にロシア産ウォッカなどを買う。ビニールの買い物袋を両手に下げて、地下鉄でホテルへ戻ってくる。



	
	セーヌ川	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	パリ市内を横断する川であり、パリのセーヌ河岸は世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸 (Rive Droite) 、
	南部を左岸 (Rive Gauche) という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひ
	とつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市
	東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴ
	ァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けた後は蛇行を繰り返し、ノルマンディー
	地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。



	
	パリ	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	語源はパリシイ(パリースィイ) Parisii(複数形。単数形は Parisius 「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前か
	らの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語では
	Παρ?σι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリジ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音さ
	れるのはここからだという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム) Lutetia (Parisiorum) 「パリシイ族の、水の中の
	居住地=シテ島のこと」とも呼ばれていた。

	<古代>
	ルテティアの円形劇場(模型)セーヌ川の中洲シテ島は古くからセーヌ川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集
	落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島
	からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場の遺跡が残って
	いる。しかしローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティ
	アに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。



	
	パリ		(続き)

	<フランス王国首都>
	5世紀末にフランク族の王クロヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしク
	ロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニ
	ュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から
	886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結ん
	だため信望を失い、代ってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。

	1223年のパリ西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス
	王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁が築かれた。このころの
	パリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、のちのパリ大学につながってい
	った。パリ大学はヨーロッパ最古の大学のひとつであり、特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル
	(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。
	12世紀にはパリ水運商人組合が結成された。後にその商人頭は事実上の市長として市政を司るようになり、エティエンヌ・マルセ
	ルのように王に匹敵する権力を持つものも現れた。市の規模が大きくなるにつれ、城壁は何度か壊され市域が拡大していった。



	
	パリ		(続き)

	「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に描かれた15世紀のルーヴル宮殿百年戦争後半にはパリはオルレアン派とブルゴーニュ派の
	対立で混乱に陥った後、イングランドと同盟したブルゴーニュ公の支配下に入った。しかし1436年にはフランス軍に奪還され、翌
	1437年、シャルル7世は改めてパリをフランスの首都と定めた。しかしこの後もフランス王はパリには住まず、ロワール渓谷の城
	を好むようになった。ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こった。
	アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。これ以降パリ市内ではテュイルリー宮殿、リュクサン
	ブール宮殿、廃兵院などの大規模建築が相次いで作られた。しかしルイ14世はパリ郊外のヴェルサイユに造営した離宮に政治の本
	拠を移し、ルイ16世の治世の末期までヴェルサイユが政治の中心となった。

	1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的
	にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。



	
	パリ		(続き)

	<19世紀>
	19世紀のパリは政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的、文化的には繁栄した。
	1837年にはパリ(現在のサン・ラザール駅)-サン=ジェルマン=アン=レー間に鉄道が開通し、以後各方面への鉄道路線が次々と
	開業した。
	第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行なわれた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新し
	たほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行なわれた。これによりパリは近代都市として生まれ変わった。
	現在のパリ市中心部の姿はほぼこの時の状態をとどめている。

	パリ・コミューンのバリケード普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。
	翌1871年1月に政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューン
	が発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな
	被害を出した。
	19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年に
	はメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。



	
	パリ		(続き)

	<20世紀>
	第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利
	により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。
	戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹き付けた。
	パリに入城したドイツ軍しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せ
	ざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。
	占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者は後に対独協力
	者として糾弾されることになる。
	ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ
	軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍はヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、
	これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市
	民号を贈られている。
	戦後のパリでは主に郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都
	心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という
	構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。



	
	パリ		(続き)

	<行政区画の変遷>
	フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地
	であった。市域は現在より狭く、ほぼメトロ2号線、6号線の内側に相当する。
	1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に20の行政区が設けられた。1968年にはセーヌ県が廃止され、パリ市は単
	独で県と同格の自治体とされた。1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。

	<気候>
	西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖であり、猛暑や酷寒を経験することは少ない(ただ
	し2003年夏に1万人以上の死者を出した異常高温のような事例はある)。11〜2月の冬は、元々高緯度で昼間の時間が短い上、曇り
	や雨の日が多いので日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。3〜5月が春である。6〜8月の夏は日照時間が長く、極
	端な高温や高湿になることも少ないので過ごしやすい。9〜10月が秋となる。



	
	Wifeは昼間の諍いが尾を引いているのか、晩飯は要らないと言う。仕方ないので、一人で付近をブラブラし、誘われて寿司屋に
	飛び込む。満員だ。ひさしぶりの寿司と赤出しがうまかったが、どこか日本で食べるやつとは違うような気がした。おそらく魚
	が違うのだろうと思うが、もしかしたらパリで食べる寿司というので、余計な感覚が舌をマヒさせていたのかもしれない。
	パリでアサヒドライが呑めるとは思わなかった。

	


	ホテルへの帰り道を迷いそうになって焦った。街の角に、それらしい女性が立っていた。君子危うきに近寄らず。