2010年夏 フランス紀行 2010.7.2〜7.13



	
	2010.7.6(火曜)曇り

	朝五時半に目覚める。このホテルは禁煙だが、窓を開けて一服する。フランスの朝に紫煙が漂う。六時過ぎにWifeも起きだして、
	PCを持ち出してホテルを探している。昨夜予約したのに、もっといホテルがないか探しているのだ。まったく。
	今日はミディ運河の脇を抜けて、ピレネー山脈の見える所あたりまで南下し、そこからニーム、アルルへ戻ってくる予定。七時半
	頃朝食を取る。道路脇の席に座って、パン、コーヒー、ハム、チーズ、ヨーグルトなどを食べる。コーヒーは今回の旅で初めてだ。
	これまで出てきたコーヒーは、小さなカップのエスプレッソばっかりで、我々がいつも飲んでいる、まともな、いわゆるホットコ
	ーヒーが出てきたのは初めてだ。





	
	チェックアウトをすませ一路運河を目指して走る。小さな町並みを幾つか抜けて行く。ミディ運河に着く。運河の傍でメロンを売
	っている農家があったので、熟れてそうなやつを選んで一個買う。2ユーロ。300円だ、安い。


ミディ運河(Canal du Midi)






	
	ミディ運河	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ミディ運河(Canal du Midi)は、フランスのトゥールーズでガロンヌ川から分岐し、地中海に面したトー湖にいたる全長240km、
	支流部分も含めた総延長では360kmに及ぶ運河である。19世紀に鉄道に取って代わられるまで、大西洋と地中海との間を船舶で結
	ぶ、大量輸送ルートであった。
	この運河の建設プランは、ベジエ出身の徴税使ピエール=ポール・リケ(Pierre-Paul Riquet)により発案された。大西洋岸から
	地中海沿岸に貨物を輸送するための航路を約3,000km短縮し、ジブラルタル海峡の通行税をスペインから削ぐことができる建設プ
	ランは、国王ルイ14世により国家プロジェクトとして認められた。









	
	ミディ運河	(続き)

	1666年に開始された工事は、当時の土木技術の最先端を駆使したものであった。標高差のある運河全域に水を供給するため、最も
	高度の高い位置にサン・フェレオール貯水池を築き、ここから水路を通して運河の最高地点であるノルーズの分水嶺へと水を導き、
	さらに途中にいくつかの人造湖を築くこととで、まんべんなく水を行き渡らせることに成功した。さらに起伏の多い地形を克服す
	るために運河橋を架け、トンネルを掘り、100を越える水門を築いた。なかでも標高差21mを7つの閘門(ロック)で1時間かけて上
	下させるフォンセランヌの7段ロックは、この運河のハイライトとなっている。工事は難工事続きで、国家からの予算だけで賄う
	ことはできず、リケは家財を売り払い、娘の持参金をも注ぎ込んだといわれる。しかし、リケはこの運河の完成を見ることなく
	1680年に世を去った。工事は彼の息子が引き継ぎ、リケの逝去から7ヶ月後の1681年に完成した。その後水害などの被害を受け改
	修がなされ、1694年に最終的に完成した。









	
	ミディ運河	(続き)

	この運河の完成で、運河沿いの地区の産物の流通が盛んとなり、ボルドー、サンテミリオン、ラングドック地方のワインは飛躍的
	に生産量を伸ばした。その結果、リケの故郷ベジエはワイン交易の中心地として大いに発展した。
	その後、19世紀に鉄道が開通し、輸送ルートの主役の座から降り、現在では運河クルーズで人気の観光地となっている。また、動
	力を持たない当時の船舶を人や馬が引くために運河の両側につけられた道には、日差しを遮るために45,000本ものプラタナスや糸
	杉が植えられており、心地よい水辺の散歩道となっている。
	


	
	ミディ運河	(続き)

	ミディ運河は、文化遺産として1996年に世界遺産に登録された。

	登録基準    この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

	(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
	(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値
	  の重要な交流を示すもの。
	(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
	(5) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連する
	  もの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。



運河の裏手には、植えたばかりの葡萄の苗木畑が拡がっていた。



	
	この運河では、運河を巡るクルーズがある。殆ど地べたと変わらないような高度の所を流れているので一寸興味があるが、旅行者
	では乗ってみるわけにもいかない。この周辺に二三泊すれば可能かもしれない。


運河から、ナビの示す道とは違う道を行ったりして、ナビと喧嘩しながら、ピレネー山脈の麓の Perpigman という街を目指し南下する。



	
	やがて、遠くに見えていた海がすぐ傍に見えてくる。フランス初めての海だ。地中海の北の果て、golfe de lion 湾である。ピレ
	ネー山脈は、それらしき山並みは見えてきたがとても山脈というにはほど遠い。見えているのはだよんとした山塊である。ピレネ
	ーは、おそらくもっと南下しないと見えないのだろう。標識にも、このまま行けば「バルセロナ方面」とあって、まっすぐ進めば
	スペインへ行ってしまうし、我々のレンタカーは国境を越えないという契約で借りているので、残念だったがこの辺りで引き返す
	事にした。



	
	高速を降りて一般道を反転し、一路ニーム(Nime)を目指して北上する。ニームの街は紀元前後にローマ帝国の領地だった所で、そ
	の頃の遺跡も数多く残っている。小さなパークで朝食の残りのパン等を食べ、午後一時頃ニーム到着。暑い。ショッピングセンタ
	ーの地下三階の駐車場に車を停めてニームの街を散策する。

Nime(ニーム)


	
	ニーム(Nimes)  人口約15万、ガール県の県都。ガリア(フランス)のローマ。

	ニームは初代皇帝アウグストスがクレオパトラ・アントニウス連合軍に勝利しエジプト遠征から凱旋する途中、この地に豊富な泉
	が湧き出ることを見つけ兵士の宿営地を築いたのが始まりという。その後闘技場なども作られ、5賢帝の時代に大いに栄えた。
	ハドリアヌス帝はこの地に好んで滞在した。アントニヌス・ピウス帝はこの町の出身である。現在も円形闘技場などローマ時代の
	遺跡が非常に良く保存されている。
	プロヴァンスとはラテン語の「プロヴィンキア(属州)」から来ており、ローマがまだ帝政に入る前(西暦前1世紀頃)から属州
	化したガリアの地域である。従って、この地方のほとんどの都市はローマ時代の都市に起源をもつ。ローマ時代この地の住民の大
	多数はケルト人(ガリア人)であったがローマ帝国の高い文化に触れほとんどローマ化した。これをガロ・ローマ文化といい、ニ
	ームはその中心都市の一つであった。



町のど真ん中にあった大聖堂。



その横にアウグスタ門があるが、今修理中であった。見事に崩壊していた。

	
	ニーム (フランス)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	ニーム(Nimes)は、フランスの南部に位置する都市で、ガール県の県庁所在地である。古代ローマ時代からの都市であり、当時の
	名をコローニア・ネマウサ(Colonia Nemausa)と称する。ニームには古代ローマ時代の橋・神殿・円形劇場などの遺構が数多く残
	る。水道橋ポン・デュ・ガールは1世紀に建設され、街にウーゼ川から水を供給した。現在ポン・デュ・ガールはユネスコの世界遺
	産に登録されている。ニームの円形劇場は現在も闘牛やコンサートに使用されている。

	街の名前は、ローマ人の村にあった泉ネマウスス("Nemausus")に由来する。ニームの街のシンボルで盾の模様でもある図柄には、
	ヤシの木にワニが鎖に繋がれており、"Nemausus"の植民地あるいは居住を意味する"Colonia Nemausus"の略語"COLNEM"の文字が刻ま
	れている。カエサルのニーム遠征に仕えたローマ軍の退役軍人は、15年間仕えた後、ニーム平原に耕作するための一区画の土地を与
	えられた。 ニームは紀元前118年に建設されたイタリアからスペインに至るローマ街道であるドミティア街道沿いに位置した。



	
	ニーム (フランス)	(続き)

	<ガロ・ローマ時代>
	紀元前28年より以前、ニームはローマ帝国の植民地となった。証拠としては、初期の硬貨にネマウスス植民地の省略文字"NEM. COL"
	と書かれている。数年後、教会と他の建築物は噴水と共に建設された。アウグストゥスが、街を当時のナルボンヌ県の県庁として建
	設し、繁栄をもたらしたが、ニームはすでにローマの影響下にあった。アウグストゥスは街に、6kmにも渡る14の塔で増強された環
	状の城壁を築いた。そのうちの2つの門アウグスタ門とフランス門は、今日も残っている。当時の街の人口は6万人と見積もられてい
	る。彼は公共広場を建てさせた。丘から北側に水を運ぶために、ローマ水道が建てられた。ウゼスとルムーランの間でガルドン川を
	渡る街の北西20kmの地点に、壮大なポン・デュ・ガールが建設された。街に記念碑は無く、発掘の過程で発見された碑文や建築物の
	破片でその存在がわかる。街には市民のバシリカ教会やクリア集会場、高校、そしておそらく円形競技場もこの時あった。円形競技
	場は、2世紀の末に建てられた。ローマ皇帝アントニヌス・ピウスの家族は、ニーム周辺のネマウススの出身であった。 街は3世
	紀末まで繁栄した。4、5世紀の間は、近隣のアルルがより繁栄していた。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、街に浴場を与え
	た。 473年街は西ゴート族により街は占領された。



	
	ニーム (フランス)	(続き)

	<4-13世紀>
	侵略と退廃の時代であったガロ・ローマ時代の後、1世紀ガリア人によって設立されていたキリスト教会が、市民に開かれた最後の避
	難所として登場した。教会は重要な人物によって組織され指導されていたので、時代の流れの中で徐々にその重要性を増していった。
	異民族の侵略後、710年、スペインからムーア人の襲撃に直面した。占領は小ピピンの支配下で754年まで続いた。街は、数多くの紛
	争や侵略により破壊されたが、現在は華麗なガロ・ローマ文化都市の影響のみが残る。その地域的な力は円形闘技場に見られる。
	カロリング朝の支配が、比較的平和な状態をもたらした。しかし12世紀の封建時代には、ルイ9世の時代が訪れるまで、地域紛争が続
	いた。この間、ニームは古代の円形闘技場内の平民の力で共同で運営されていた。競技場内にはViguierや闘技場の騎士が住んでいた。
	宗教的な権威は、教会と司教座聖堂参事会、司教の家周辺の司教関連の複合施設に基づいていた。一方、街はメゾン・カレの4人の執
	政官によって代表されていた。
	絶え間ない封建時代の争いにもかかわらず、牧畜業やそれに関連する活動と同様、商業や産業の両面でもある程度の進歩がみられた。
	トゥールーズ伯レーモン7世(en)による尽力の後、ルイ9世は、ラングドックとなったこの地域に、なんとか王室の権力の基礎を固
	めた。



	
	ニーム (フランス)	(続き)

	<侵略の時代>
	14-15世紀の間、ローヌ谷は、経済を破壊し、飢饉の原因となった絶え間無い一連の侵略にみまわれた。習慣は忘れ去られ、宗教的な
	動乱(ユグノー戦争)や疫病が起き、街は影響を受けた。ニームは、プロテスタントの拠点の1つであったが、悲惨な疫病の定期的な
	発生に加えて、17世紀中頃まで続く激しい弾圧や親族が殺し合う対立の影響を受けた



	
	修理前のアウグスタ門

	事前に知人にこの写真を見せたら、「これ修理中じゃなくて、もともとこのままなんちゃう?」という指摘をうけた。崩壊の凄さ
	に、てっきり「こりゃ、いま工事中やな。」と思ったのだが、そういえば何処かに「工事中」と書いてあったわけではないような
	気もする。もともとこれが現在残っているアウグスタ門かもしれない。





ニームの町。中央が円形劇場


 
 
	

	アウグスタ門、円形闘技場、ニーム考古学博物館等を見学するが、アウグスタ門は工場中、円形闘技場は、何か今夜有名なバン
	ドのコンサートが行われるようで見学は不可、期待していた考古博物館も、入り口付近に少し遺物が並べてあるだけで、奥の方
	の展示室らしき部屋への入り口には、鍵が掛かって中へは入れなかった。がっかりだ。まるで夏の日のような(夏の日なんだけど)
	暑さと、三ヶ所とも期待はずれだったショックにガックリして、もう昨夜予約したホテルへ向かう事にした。




	
	約一時間程で enteurs の「La bastide Senteurs HOTEL」に午後2時頃着く。プール付きの、フランス民家を改造したホテルで、
	石垣と白壁の綺麗なホテルだった。民家を改造してゆく過程の写真がホテル内に掲示してあったが、元々の民家はとても今のホ
	テルからは想像も出来ないくらい、みすぼらしく荒れ果てていた。それをどうやら、家族総出で改築したもののようだった。
	えらいもんだ。昨夜電話で話したニコルは、今日は非番だそうでいなかった。残念。










	
	ここはホテルの裏手。正面ゲートを入ったところに駐車場があったのだが、「荷物が重くて石段はよう昇らん」というと、じゃ
	裏手に回れと、ホテルを半周してここに止めさせてくれた。これならフロントまで段差無しだ。やれやれ、言うてみるもんやな。


上が、フロントと同じフロアの、屋外レストランのテラスから見た駐車場。この高さの石段を、カート2つ抱えてはよう昇らんわ。

	
	部屋に入ると疲れていたのか夕食までバタンQ。フランス料理はどこで食っても盛り付けが綺麗だ。ソースの色も鮮やかで、写
	真が映える。今夜はロゼワインを注文する。例によって、半分食ったところでWifeと皿を交換する。魚料理も肉料理もどちらも
	楽しもうと、我々夫婦があみだした食事法だ。ワインも料理もうまかった。



















私は相当疲れていたと見えて、部屋に戻ると再びバタンQ。WifeはPCをやって、洗濯してから寝たようだ。南仏第五夜が更けていった。