2017年春 ウズベキスタン紀行 おわりに




	☆ 旅を終わって 
	

	平成30年(2018)7月28日 台風12号日本接近の日に
	
	Taylor Swiftを聴きながら写真を編集していると、ウズベキスタンに行ったのはもう1年3ケ月も前
	だったのかと、月日の流れる早さに改めて驚いてしまう。イスラム社会という、日本人にはあまり馴
	染みの無い歴史・文化に触れた旅は結構面白かった。東トルキスタン(中国・新疆ウイグル自治区)
	に行った時のような、砂の砂漠が醸し出すシルクロードの印象こそ薄かったものの、また違ったシル
	クロードの片鱗に触れることができたような気がする。
	それにしても、ウズベキスタンの近代化には驚いた。良くも悪くもソビエト時代の遺産を引きずって、
	いまからさらに大きく発展しようとしている新しい国のエネルギーも随所に感じることができた。
	まさに、ウズベキスタンに幸あれ!である。

	

	上の地図で、黄色い印の都市が、今までに行ったシルクロードの断片である。東西のトルキスタンを、
	かすめるような紀行ではあるが一応体験した。あと、楼蘭やホータン、カシュガルと言った、本格的
	なシルクロードとも言える天山南路、西域南道が残っているが、果たして生きているうちに訪れる事
	ができるだろうか。昔、歴史倶楽部の栗本さんが「シルクロード行ったらハマるらしいでぇ」と言っ
	ていた言葉を思い出す。単なるロマンチックな憧れだけでは無く、何かシルクロードには人を引きつ
	けてやまない魅力がある。旅人の心を捉えて放さないものは一体何なのだろうか。


	
タシケント郊外、ヤッカサライ市民墓地内に「タシケント日本人墓地」がある。
タシケント抑留日本人墓地 タシケント抑留日本人墓地(タシケントよくりゅうにほんじんぼち)は、ウズベキスタンの首都タシ ケントに存在する日本人抑留者の墓地。場所は市の南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地 の一角、ドイツ人墓地に隣接している。 太平洋戦争の終戦直後、中国東北地方(満洲)や樺太に駐留していた日本兵約57.5万人が、武装を解 除して投降した後、捕虜としてソビエト連邦内の各地に連行され、過酷な労働を強いられた中央アジ ア地域のウズベキスタンにも約2万3千名の日本軍捕虜が移送され、同国の各地で建設事業に従事する 長期的な抑留生活を送り、日ソ間の国交が回復(日ソ共同宣言)し、帰国する1956年までの間に884名 (2010年1月現在)が亡くなった。ヤッカサライにある日本人墓地は、タシケント地区及びウズベキス タン各地で亡くなった抑留日本人共同墓地である。
ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角に日本人抑留者共同墓地として整備されている。ここに は、タシケント市より79名、タシケント地区墓地より8名、計87名の日本人が眠る。 ソヴィエト時代は土を盛っただけであったがウズベキスタン独立後、遺族関係機関の支援やウズベキ スタン政府の協力により、現在のような戦没者名と出身県を刻印した墓石が設けられ、敷地内奥には これらウズベキスタン各地に点在する13か所の日本人抑留者墓地の共同慰霊碑が設営されている。 隣接してドイツ人抑留者の墓地がある。
鎮魂碑「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑」には1990年5月23日、もうひとつに碑「永遠の 平和と友好の誓いの碑」には1995年10月1日の日付が刻まれている。
一般に、ソビエト連邦政府が捕虜にして自国内へ連れ去った日本人捕虜については「抑留」という言 葉が使われる。しかし、終戦後に有無を言わさず捕虜にしたやり方やその扱いは、とても「抑留」な どというソフトなものではない。これは明らかに「拉致」であり「虐待」である。ウズベキスタンで は比較的ましな扱いを受けたが、シベリア開発の労働力として取れ去られた者たちの運命は過酷なも のだった。シベリア拉致中に死亡した者は46,571名(2013年9月現在)、ウズベキスタンでは884名が 命を落としている。
ウズベキスタンでの死亡者 第26収容所 〔アンヂジャン地区〕 33名 第288収容所 〔ベカバード地区〕 148名 第360収容所 〔ボスタンデグスキー地区〕 13名 第367収容所 〔コーカンド地区〕 242名 第372収容所 〔アングレン地区〕 135名 第386収容所 〔タシケント地区〕 266名 所属不明  47名             合計884名
ウズベキスタンで出遭った鳥たちの写真は、別コーナーにまとめてあります。 興味のある方はクリックしてみてください。 ウズベキスタンの鳥たち
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