2017年春 ウズベキスタン紀行第五日目 ブハラからヒワへ


	2017.4.25.(火) 〜ブハラからヒワへ〜  キジルクム砂漠をゆく

今日はキジルクム砂漠をバスでゆく。ブハラーヒワ間約450km。終日バスの中である。高速道路 があれば4〜5時間なのだろうが、日本の高速道路に匹敵するような道はない。戦後すぐのようなデ コボコ道と、舗装された道との組み合わせだ。一応8時出発で5時半到着予定だから、9時間半の移 動予定。途中のオアシスでの昼食と、2回のトイレタイムがあったのでそれを差し引いても、ま、8 時間ほどのバスの旅だった。飛行場も鉄道もないのでバスでゆくしかないのである。しかし車が出現 するまでは、この道を馬車と駱駝の隊商達が徒歩で通っていたのだ。
















いざ、キジルクム砂漠縦断の旅へ出発。 東トルキスタンのゴビ砂漠のような礫(れき)の砂漠ではなく、タクラマカンのような砂の砂漠でも ない。荒れ地に灌木が点在する、まさに「荒野」という形容がぴったりの砂漠だった。




ブハラとヒワの間にはこの道路しかない。鉄道は建設中だがまだ完成していないし、ヒワには空港は あるが、ブハラには無いようだ。あったとしても、このツアーではその費用を出せないのかもしれな い。延々とバスで移動など、何か無駄な行程のような気がしたが、存外おもしろかった。果てしなく 続く砂漠にも、様々な表情があるのだ。乗客の殆どはその行程の大半を眠っていたようだが、私は砂 漠を見続けながら、深遠な宇宙の真理など、様々な思索にふけっていた。
さぁそれでは、延々と続く砂漠の旅をご覧ください。今日は一日これです。
まだブハラの近郊だからか、結構農作業の機械や人を見る。
小さな村のような集落が点在している。

<キジルクム砂漠> 出典:ウィキペディア他 キジルクム砂漠(英語:Kyzyl kum)は、カザフスタン、ウズベキスタン、それにトルクメニスタン の一部にかけて広がる砂漠。キジルクムはテュルク諸語で「赤い砂」を意味する。面積は約29万8000 km2。北東にシルダリヤ川、南西にアムダリヤ川が流れている。金や天然ガスといった資源が眠り、 川やオアシス周辺では農業がおこなわれている。 ウズベキスタン北西部のキジルクム砂漠には、古代ホレズム王国の都城遺跡(カラ)が点在している。 荒涼とした砂漠に聳える遺跡群で、アヤズ・カラが有名。今回は訪れないが、上の地図には示されて いる。しかしヒワ(ヒヴァ)のイチャン・カラは、1990年にユネスコの世界遺産に登録されているし、 ヒワの旧市街地でこの王国のよすがを今も忍ぶことができる。 イチャン・カラ(ウズベク語: Ichan Qa'la)とは、中央アジア、西アジアの都市に見られる市街地の 形態である。城壁に囲われた市街地で、日本語に直訳すると「内城」となる。城壁の外に発展した郊 外の区域は「デシャン・カラ(ディシャン・カラ、外城)」と呼ばれる。 <古代ホレズム王国> 出典:[国立情報学研究所] 『"古都ホレズムは中央アジアのエジプトである" ― 人類の文明を探求し続けてきた考古学者らは、 古代ホレズムの研究を通じ、偉大な結論に辿り着いた。彼らはホレズムの文化・芸術・歴史は中央ア ジアの発展に密接に関係していることを証明したのである。』 <ソ連の民族学者 S.P.トルストフ> 地理的にホレズムという地域はアラル海の南東、アムダリヤ川下流の両岸と、イラン北東部付近一帯 を指します。また、アラル海の南西部にある乾燥したウスティユルト高原の南側地域と、アムダリヤ 川とシルダリヤ川に挟まれた地域も含みます。現代ではウズベキスタン共和国内にあたり、古くはシ ルクロード上の重要な地域であったところです。 ホレズムという名称はアヴェスタと呼ばれるゾロアスター教の経典の中で記述されています。アヴェ スタには当時、イラン東部と中央アジアには経済格差のある階級社会が存在していたこと、また、国 家を形成していた聖職者、軍人、農夫、職人、奴隷らについても詳細に記されています。また“アリ アナム・バイジャ”の地で起こった物語が翻訳されており、権威あるホレズムの科学者によって立証 されています。 11〜13世紀のホレズム帝国にはパルティア(カスピ海南東部、イラン高原東北部)、メルブ(トルク メニスタン)、ソグディアナ(ウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド 州)、ホレズム(ウズベキスタン西部)が含まれていました。 中央アジアで最初の国家は、紀元前 9〜8世紀頃にアラル海南部のバクトリア地域で発展しました。 ホレズムは、紀元前6世紀に王国として発展しバクトリアとホレズムは、アムダリヤ川河口において、 開拓地を共有していました。乾燥したホレズム地方での最初の灌漑工事が紀元前6−5世紀頃から始ま ったと言われています。住民は、主に村では農夫、都市では職人と貿易商で占められていましたが、 遺跡の発掘により科学者の存在も確認されています。 ホレズム人は天文学、数学において高い知識を持っており、角度を測定する道具を発明し、それらを 科学の研究に使用していました。天文学と多くの自然科学は、古代ホレズムで発展し、使用された道 具は今日まで残されています。 ホレズムにおけるこれらの道具の一部や文化遺産は、アムダリヤ川の数キロ北に位置するコイキリガ ン・カラ遺跡に見ることができます。 ホレズム地方における建築は紀元前4世紀頃から始まります。要塞は君主の埋葬地としてだけでなく、 天文学の研究用に観測所としても利用されました。また、要塞跡からは、紀元後3世紀までホレズム の人々が暦に利用していたと思われる興味深い文書も発見されています。 さらにホレズム人は、トルコとの貿易での利益を独占し、特にホラーサーン地域(イラン北東部〜ア フガニスタン。古代パルティア帝国の発祥地。)における代表的な商人でした。実際、ホラーサーン 地域の全ての街で、現代のホレズムでは見られない、高い毛皮の帽子をかぶった、明らかに地元の民 とは違う人々が数多く行き交っていたそうです。 ホレズムは紀元前6世紀から紀元後19世紀まで、長きに渡り中央アジアにおける商業、政治、文化の 発展において最も重要な地域のひとつでした。 イラン、インドにとって、シルクロードにおけるホレズムは地理的に非常に重要であり、多くの文化 間、国家間で、活発な交流が築かれました。それゆえに商人、職人、科学者、建築家たちとっても、 ホラズムを非常に重要な地域だったのです。 シルクロードは単にキャラバンの交易路として機能してきただけでなく、中央アジアの文明発展に寄 与してきたのです。 (国立情報学研究所) [国立情報学研究所]





トイレ・タイム

上はクリックで拡大します。

添乗員の原田さんが「ここでトイレタイムでーす」と言ったが、休憩所やトイレらしき建物はない。 「え、ここ?」「ここのどこですんの?」「なになに」とガヤガヤ。

男女とも、本当にこんなところで用を足すとは思わなかったが、どうも、砂漠を印象づけるための 演出だったような気もする。





















西欧人の観光客もいたが、我々以外にも日本人の観光客がいた。阪急交通社のツアーも同じコースを 行ってるとすれば、彼らやね。シシカバブーは旨かったが、パンやサラダのようなものは大して旨く 無かった。やたら水やジュースが出た。ハンバーガーは旨かった。








上から下へつながってます。










寸暇を惜しんで腕立て伏せをするオジサン。帰りの飛行機はこの人だけビジネスだった。

































夕方5時半頃(予定通り)ヒワの Hotel ASIA に到着。世界遺産イチャンカラの城壁の側にあるホテル である。今回の旅は全て、Marco Polo(マルコポーロ)という企業グルールの経営する Hotel ASIA に 宿泊したのだが、サマルカンド、ブハラに比べてここのホテルが一番しっかりしている。ホテルも設備 も従業員の応対も、ここが一番いい。カササギがたくさんいる。白い鳩も多い。ムクドリは日本に比べ て、羽の白い部分が多いような気がする。











ホテルの部屋から向かいの城壁が見えた。数羽のカササギが城壁の周りを飛び回っている。ほんとに この国はカササギが多い。






日本人がイメージする「月の沙漠」のイメージとは相当違う砂漠の旅だった。「月の沙漠」は東トルキ スタン、すなわち中国の敦煌郊外の砂の砂漠や、トルファン、ウルムチへつながるタクラマカン砂漠で 体験したが、ここの砂漠はまさしく「荒野」であった。隊商たちは、いくつかのオアシスだけを頼りに、 星空を見て進路を決め、ラクダの背に揺られて、一体幾日かかってこの砂漠を縦断したのだろうか。 ご多分に漏れずこの地方も、幾百年に渡る支配、被支配、戦争、和解の年月を経て現代にいたっている。 その歴史は、冒頭に紹介したように複雑極まりない。しかも以下の年表はあくまでも概略である。 詳細なこの地域の歴史と文化を把握しようとすれば、多くの時間と資料を必要とするだろうし、それで も果たしてその全容を理解できるかどうかは、はなはだおぼつかない。だが大きな流れとして、ウズベ キスタンのたどってきた運命は、アレキサンダー大王、ジンギスカン、ソビエト連邦に翻弄されてきた といえるだろう。ソ連から独立し、いま新たなる国家建設に邁進しているウズベキスタンに栄光あれ! と祈るばかりだ。