2017年春 ウズベキスタン紀行第三日目 ブハラの町


	2017.4.23.(日) ウズベキスタン3日目 サマルカンドからブハラへ向かう
	
	
クリックでホテルの全景が見れます。 昨夜は12時迄に荷物を部屋の外へ出したが、何と、早朝荷物だけ先にブハラへ運ぶのだそうだ。 この旅行社は客に荷物を一切運ばせない、と言うか、荷物に触れる事も許さないと言う、全く老人 に優し過ぎるツアーである。一度自分でバスからホテル入り口まで運ぼうとしたら、現地ポーター に止められた。驚いてしまう。空飛ぶ老人ホームとは、けだし、言い得て妙である。





ホテル中庭のプール。HOTEL ASIAのホテルには何処にも同じものがある。























AM 7:00朝食。バスでサマルカンド駅へ向かう。午前中二時間の列車の旅。サマルカンド駅は綺麗だ。 珍しく(と誰もが言っていた)時間通りに列車がホームに入って来た。タシケント発ブハラ行き特急。 3分しか止まらないと言うので、みんな大慌てで列車に乗り込む。成る程、これで旅行ケースをガラ ガラ乗せていたら、3分では間に合わないな。先に運んでおくはずだ。旅行社の便宜でもあるわけか。 特急は快適だった。カフェ車両へ行き、インスタントコーヒーを飲みながら、車窓の風景を楽しんだ。 砂漠チックな風景に木々が疎らに生え、放牧とも放し飼いともとれるような牛の群れが幾つもいた。












ウズベキスタンは韓国との繋がりが深くて、一番の大衆車はヒュンダイ自動車との合弁企業の車だそう な。










































金取ってあれだもんねぇ。


勿論、我々以外にも客はいるのだが、我々団体の半分くらいだった。儲かってるんかねぇ。




















































ほどなく、ブハラ駅到着。ここは終点だから慌てなくて良い。昨日のバスが、荷物を運んできて 駅前で待っていた。運ちゃんはちゃんと寝たのかな。ホテル横のレストランで昼食。それからチ エックインしたが、我々の部屋だけまだ掃除が終了しておらず、大戸さんの部屋で30分程待機。 アメリカでもこういう目にあった事があるが、まだまだだ。 昼食後「サマニー族の廟」と言うのを見に行った。

特急の車掌さんと添乗員の原田さん。ウズベキスタンの女子にとっては、電車の車掌はあこがれ の職業らしい。




タルゴ(Talgo スペイン語:Tren Articulado Ligero Goicoechea-Oriolの略称)は、スペインで 開発された一軸台車連接型客車およびそれによる列車の総称であり、これを開発した鉄道車両メー カーの名称でもある。タルゴの名称は、スペイン語での関節(連接)列車、軽量の頭文字と、さら に2人の開発者、アレハンドロ・ゴイコエチェアとホセ・ルイス・オリオールの名前に由来している。























ブハラ 出典:ウィキペディアに加筆 「全世界には光が地上に降り注いでいるが、ブハラでは、光は地上から放たれている」。イスラムの金言にこう謳 われるブハラ。 ブハラ(ウズベク語: Buxoro)は、ウズベキスタンの都市で、ブハラ州の州都。ザラフシャン川下流域に古代より 栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されている。 人口は約23万7千人(1995年)。 古代からサマルカンドと並ぶいわゆるソグディアナの中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝の 首都となってからもイラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつであった。 また近代でも20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれ、西トルキスタンにおける 政治・文化の中心都市であった。特にサーマーン朝にはじまる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残し た足跡は大きい。また、シャイバーニー朝やジャーン朝においてはブハラの宮廷でペルシア語に加え、チャガタイ 語文芸運動を隆盛させその中心都市としても発展した。 このような歴史背景から、現在は住民の大多数が民族籍上ウズベク人とされているものの、住民の間ではペルシア 語系のタジク語が広く話され、タジク人としてのアイデンティティを有する者も数多く存在する複雑な民族構成を もつ。 ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心都市である。約220キロ東にサマルカンド、 450キロ北東にウズベキスタンの首都タシュケントが位置している。約85キロほど南西がトルクメニスタンとの国 境であり、トルクメニスタンのテュルクメナバートは約100キロ南西である。産業は天然ガスを産出するほか、繊 維、絨毯などの生産でも知られる。旧市街地が世界遺産に登録されて以降は観光産業にも力を入れている。

中央アジアの乾燥地帯の中に位置しながら水資源に恵まれたオアシスに位置するブハラに人々が集落を建築し始め たのはきわめて古く、考古学上の発見から紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が成立していたことが明らかにな っている。 古代のこの地方ではペルシア帝国の影響を受けたイラン系の文明が発達し、紀元後のブハラではソグド人の都市国 家が建設された。都市国家ブハラの商人たちは東西交易の仲介者として活躍し、隋唐時代の中国の記録には「安国」 という名称で登場する。1060年に成立した唐の歴史書新唐書西域伝には「安国は又の名を布豁、あるいは捕喝建と いう」という意味の記載がある。 しかし8世紀初頭にはこの地方にイスラム帝国の勢力が及び、ブハラは709年にウマイヤ朝のホラーサーン総督クタ イバ・イブン=ムスリムによって征服された。これ以後ブハラはイスラム教を奉ずる勢力の支配下に置かれ、次第 にイスラム化が進む。 9世紀後半、土着のイラン系貴族がアッバース朝から自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続 いた王朝の首都となった。サーマーン朝の時代には東方の草原地帯からイスラム世界に向かって送り込まれるテュ ルク系のマムルーク(奴隷軍人)の交易が盛んに行われたことにより、マムルーク交易と結びついた商業都市とし て発展を遂げた。サーマーン朝時代に市域は大幅に拡張され、要塞と長大な市壁に囲まれた市街地、およびその周 囲に発達した郊外地域からなる大都市となり、ブハラはサマルカンドにかわってマー・ワラー・アンナフルの中心 都市に成長した。 また文化的には、サーマーン朝の君主の保護のもと、イスラムによるサーサーン朝の征服以来衰退していたペルシ ア語による文化活動が興隆し、アラビア語の語彙を取り入れアラビア文字で表記するようになった近世ペルシア語 の文学活動の中心地となった。また君主の保護によってさまざまな施設が建設され、中でも第2代君主イスマーイ ール・サーマーニーを葬ったイスマーイール・サーマーニー廟は、現在まで残されており貴重な文化遺産になって いる。 サーマーン朝の滅亡後はテュルク系のカラハン朝、ホラズム・シャー朝の支配下に入り、政治・経済・文化の中心 ではなくなったが、依然として中央アジア屈指の大都市であった。しかし13世紀の前半にはモンゴルの征服を受け、 市街が破壊されていったんは荒廃した。その後のモンゴル帝国支配下で徐々に人口が回復し、同世紀の後半までに 都市は復興したが、15世紀のティムール朝まで政治的な中心はサマルカンドに奪われたこともあり、征服以前の繁 栄には及ばなかった。15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた外交使節の陳誠が陸路でこの地を訪れ『西域番国志』 に当時のブハラ(「卜花児」と記録されている)の様子を記録している。 16世紀後半に至り、ウズベク人のシャイバーン朝がブハラを実質上の首都と定めるとともに、ブハラは再び拡大に 転じた。アブドゥッラーフ2世(1583年 - 1598年)はブハラの再開発を推進し、王族、ナクシュバンディー教団、 貴族によってモスク、マドラサ、公衆浴場、商店街が建設された。シャイバーン朝以来、アストラハン朝、マンギ ト朝とこの地方を支配した歴代の王朝はブハラを首都とし、このためこの政権はブハラ・ハン国(ブハラ・アミー ル国)と呼ばれている。ブハラ・ハン国の首都となったブハラは中央アジアにおけるイスラム教学の中心地として も重要な役割を果たし、「ブハーラーイ・シャリーフ(聖なるブハラ)」と呼ばれるようになったブハラは各地か ら多くのムスリムが巡礼や修学に訪れる宗教都市の性格も帯びた。 19世紀後半にブハラは南下政策を推進するロシア帝国によって征服され、ブハラ・アミール国はロシアの保護国と してその植民地に組み込まれた。ロシア人たちはムスリムたちが住む旧市街を避け、その隣接地に新ブハラ(カガ ン)と呼ばれる近代都市を建設したため、ブハラは本来の都市構造と景観を維持できた。また、新ブハラを起点と してロシアの各地とブハラを結ぶ鉄道の敷設が進められ、ブハラはロシア帝国と緊密に結び付けられた。カガン駅 は現在もブハラの鉄道の玄関口になっている。 ロシアの支配下に入っても、旧市街に住むアミール(君主)をはじめとする支配者たちは一定の権限を残されて温 存され、またブハラ人社会の指導的な階層は伝統的なイスラム教育を受けた宗教指導者たちが占めていた。20世紀 初頭になると、ロシア帝国内のムスリムの間で起こっていた教育の西洋化改革を訴える啓蒙活動(ジャディード運 動)の影響がヴォルガ・タタール人の手を経てブハラにまで及び、「青年ブハラ人」と呼ばれる若い知識人たちの 活動が起こった。1910年代に入ると青年ブハラ人の運動は急進化し、アミール専制を批判し、国内改革を盛んに訴 えた。 1917年のロシア革命の影響はブハラにも及び、1920年に赤軍の軍事介入でブハラで革命が成功、ブハラ・アミール 国が滅んでブハラ人民ソビエト共和国が成立した。しかし旧支配層から国外の汎トルコ主義者まで巻き込んだ革命 勢力に対する反抗(バスマチ運動)や、ロシア共産党のソビエト政権による介入・粛清によって共和国の指導層は 急速に瓦解した。最終的に1924年にブハラ人民ソビエト共和国は解体されて、民族の分布を基準とする境界線によ る新しい共和国が編成されることになった。 民族的境界策定にあたって旧来ブハラ・アミール国の領域に住んでいた住民は、テュルク語系のウズベク語を母語 とする人々はウズベク人、ペルシア語系のタジク語を母語とする人々はタジク人とされたが、ブハラ市民の大多数 はウズベク人と認定され、ブハラはウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入された。しかし歴史的に中央アジア におけるペルシア語文学の中心都市であったブハラではタジク語が日常的に話される割合も大きく、民族境界画定 の恣意性が指摘されることもある。 1991年にソビエト連邦が崩壊してウズベキスタン共和国が独立すると、ブハラは新しいウズベク独立国家の優れた 文化遺産として再評価されるようになった。1993年のユネスコ世界遺産登録を経て、観光都市としてのブハラの再 開発が進んでいる。ユネスコの後援で開催された1997年のブハラ建設2500周年の祭典をきっかけに、ブハラの歴史 的建造物の修復が行われたが、建物が本来持つ特色が失われたという声もある。 一方ソビエトの崩壊によってタジキスタンとの間の境界は永続的な独立主権国家間の国境となり、ブハラでは多く のタジク語を話す住民、タジク人住民が存在するという矛盾が固定化された。現在も、タジク人住民の中には、ウ ズベキスタンよりもむしろタジキスタン共和国への共感を抱く者もいる。








何か運河のような所にバスが止まったかと思えば、そこから住居の間を抜けてモスクへ向かうのだった。



チョル・ミノルへ行く








トルキンさんが、民家の錠前について説明している。何か特別なやり方のようだったが忘れた。





チョル・ミノルの4本のミナレット(塔)が見えてきた。



リャビ・ハウズの東北、住宅地の中に絶妙な建築構造で人を驚かせるチョル・ミノル(4つの塔)メドレセが 残存している。このメドレセ(学校)は1807年に豊かなトルクメン(トルコ)人のハリフ・ニヤズクルの 名前で建設された。メドレセ自体の構造は伝統的で両側に一階建てのフジュラが並んでいる中庭、モスク及び 石でできた貯水池である。 廻りに4つのミナレット(塔)があるアーチ型の蒼いドームの建物は、本来メドレセの入り口であった。4つ のミナレットが立ち、その上野小さなドームは蒼いタイルで装飾されている。一つの塔の中には図書室があっ た。(現地で買った案内書より:やや日本語はおかしいが、意味は分かります。)

このミナレットは、見る方角によって2本に見えたり3本に見えたりするので有名だそうだ。さすがに1本には 見えない。


チョル・ミノルは旅行者であって、絨毯と馬の商人でもあった。ニヤズクルはインドで立派なタジマハルを見て、 同じようなものを建てようとチョル・ミノルの建築を始めた。目的は、ケッシュ、ジョンドル、カラクムなどに 住んでいるトルクメン人や旅行者、商人などが泊まれる建物を建てることだった。その時代、ブハラはイスラム 教の中心だったのである。

入り口の部屋は土産物屋になっていて、ココで幾らか払って塔の上に上れるというので上ってみた。





















初めは下で見ていたオバサン達も上って来た。クリックで拡大します。







チョル・ミノルの南側に広場があって、そこが商人達が商品を売る場所だった。チョル・ミノルというのは、 「四本のミナレット」という意味で、ミナレットの形は丸くて高い。このモスクは他の歴史的な建物と比べる と、あまり古くないといわれる。チョル・ミノルの入り口の右側の白い壁にペルシア語でモスクの建てられた 年が書かれている。チョル・ミノルの一階は六角形の玄関ホールで、二階には四つのミナレットに入る扉があ っる。四本のミナレットを持つチョル・ミノルは地震で一部崩壊した。また別の地震で再度一本のミナレット が崩壊するが復元された。










チョル・ミノルには二つの伝説がある。一つは、ニヤズクルは自分の妻のために建てさせたというもので、二 つ目は、四人の娘がいつも仲良くするように建てさせたという。それで、この四本のミナレットは、みんな似 ていてとても綺麗なのだという。
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昼食



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ホテルの横にレストランがある。ここで昼食。ホテルと繋がっていて結構大きな二階建てだった。























レストランの(?)オジサン。カメラを向けたらポーズをとってくれた。





ホテルアジア・ブハラ。レストランのすぐ隣だった。





受ける方が恥ずかしくなるような歓迎振り。そう言えば、昔、日本の観光地もやってたね。


















掃除も済んで無事部屋にcheck-in。午后の見物への出発を待つ。

集合してまた午后の観光へ。サマニー族の廟、ボロ(バラ)・ハウズ・モスクと廻ってバザールへ。夕食に ギョウザが出た。夕食の席で自己紹介があって、私は「このツアーは客を甘やかしすぎるのでは無いか」と 少しキツい事を言った。部屋は風呂の水が少し茶色く濁っていて汚かったので、シャワーだけで済ませた。





サマニー族の廟


サマニー族時代のブハラ(現地で買った案内書より。) 8世紀からブハラは、イスラム教のモワロウンナヒル
(モワロウンナヒルは、マーワラーアンナフルと呼ばれる アムダリヤの北の地域。)の普及の主要な中心都市になった。ハディス集の著者であったイマム・アル・ブハリ ー(870年死亡)は、ブハラの都市を著名なものにした。イスラム世界でのブハラの位置は「聖なる」及び 「高貴」という呼び名に反映されている。 9世紀末、ブハラはサマニー王朝の支配の下で、アラブの支配から独立した。その頃、サマニー王朝はモワロ ウンナヒル、フラサン、及びシスタンを含む広範囲の地域を支配していた。ヨーロッパの財宝に保存されてい る中世のイスラム教の硬貨の大部分は、サマニー時代に鋳造されたものである。 サマニー時代の9−10世紀に、ブハラは拡大していった。職人街、及び多くの隊商宿が建設された。9世紀 の半ばごろにはラバットを含むブハラを囲んだ新しい壁が作られた。ブハラの中心部は大きな市場(バザール) になった。ココではファジル系女子のための最初のメドレセ(学校)の一つが建設され、サマニー宮殿にはイ ブン・シノーの記述によって知られる書物の巨大な図書館が開かれた。 ブハラとバイケンドには、最初のミナレット(塔)が建てられた。ブハラ中世初頭の歴史は、10世紀にナル シャヒと言う歴史家によって書かれた。

サマニー族の廟(同) サマニー族の有名な廟は、チャシマ・アユブ墓地の南の現在の公園の領知に位置している。中世に書かれた文 章によると、サマニー王国の設立者であるイスマイル・サマニーは、この廟を父のナイスT世(892年に死 亡)のために、9−10世紀に建てたという。その後墓地は家族共同墓地となった。おそらくイスマイル(9 07年死亡)自身、また名前が、入り口の上の板に書かれている彼の孫のナスルU世のイブン・アフマド(9 43年に死亡)が茲に埋葬されているといえる。これは中央アジアで知られている最初の王立の廟である。  廟の構造は非常にシンプルで、半球が被せられている立方体となっている。完璧なレンガ建設、レンガのプ レートによる飾り、及び全体の理想的なバランスは人々から讃えられている。その幾何学的な形式の調和のた め、このブハラの廟は世界遺産の建築上の傑作として認識されている。ここで8−9世紀のイスラヌ教の文化 は、イスラム教が伝来するまでの建築の伝説と混ざり合ったのである。
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皆さんが今ご覧なっているところはブハラの真珠と言われ、中央アジアで一番古いイスラム建築のイスマイー ル・サーマーニ廟です。廟は素朴な美しさによって世界中の注目を集め、ユネスコの世界遺産になっています。 このサーマーニ廟は、9世紀(874年)にブハラを侵略してサーマーニ国家の首都としたイスマイ−ル・サ ーマーニによって、父親のアフメット・イブン・アサッドのために建てられました。記録によりますと、この廟 は892年から943年まで50年もかけて建てられたということです。 父親のために立てた霊廟ですが、後になって 彼自身もそして、彼の孫も葬られて、サーマーニ朝の王族の霊廟になりました。
13世紀にブハラがチンギスハンによって破壊された時に、この廟は破壊を免れました。それは土の中に埋もれて いて、周りが墓地だったため、チンギスハンが気づかなかったからです。ここはムスリム人の最初の墓地でした。 霊廟は立方体の形をして、どの方向から見ても同じ正面に見えます。 壁の厚さはなんと1.8mもあります。サーマ ーニ廟は拝火教の神殿の形をしています。それは、その頃アラブの建築様式がまだなかったからです。廟の4 面全部に入口がありますが、それはもてなしの心を表しています。廟の下は正方形で地面上は円形で空を表し ています。
正方形は永遠のシンボルで拝火教(ゾロアスター教)の神殿も同じ形をしていました。正方形から円形に変る のは、人の精神が地上の世界から天の世界に渡ると言う意味があります。 廟は拝火教の神殿の近くに建てられ たという可能性もあります。 この廟には焼いたレンガが初めて使われ、非常に重要な初期イスラーム建築の一つになっています。外装は三 つの部分にわかれています。まず、地下の世界、二つ目は、 我々が生きている世界で、レンガの積み上げ方が 色々ありますが、これは、この世はさまざまだという意味です。
ドアの上、この三角は地下の世に向かっていて、土の下に世界があってそれは地獄を表しています。廟全体の 形は四角形です。三つ目は空、つまり天の国を表していて、空が地面を抱えんでいます。ドームは太陽の家なの です。ドームから出ているレンガは二つの意味を持っています。第一に太陽の光で、第二は邪悪な視線を防ぐ お守りです。この九つの小さい窓は精神の入口で、廟の中を照らすためにも必要でした。四本の柱は世界の四 つの方角を表しています。











レンガ積みの詳細を見たい方は上をクリックして下さい。


壁は四角の連続ですが、それは地球がいつも回っていることを表しています。上の円形は太陽で角にある草は 木の命を表しています。ここには陶器が使われていませんが様々な種類の粘土で作られた焼きレンガはそれぞ れ色が違って見えます。長い年月にも耐えて、この廟がいい状態で保存されているのは建築材料の質が高かっ たからでしょう。










イスマイル・サマニー(907年死亡)






カササギは広くヨーロッパからアジア大陸に生息するが、どういう訳か日本では北九州にしか居ない。長崎県、 大分県の一部にも少しは居るが、福岡、佐賀が中心で、山口県にも居ないのである。関門海峡など簡単に渡れ るような気がするが、近畿圏や関東など本州には渡って行かない不思議な鳥なのである。勿論、鹿児島などの 南九州にもいない。
市場(バザール)へ行く。古代からブハラの中心には市場があった。





チャシマ・アユブ(現地で買った案内書より。) チャシマ・アユブ(ヨブ予言者の「井戸」)はブハラの最も古い遺跡の一つである。伝説によると、コーラン でアユブ預言者と呼ばれる聖者ヨブが一度この場所を訪問したと書かれている。彼が棒を打ち据えると、井戸 (チャシマ)ができたそうである。別の伝説によると、これはヨブの聖書の本で言及されており、アユブが沐 浴をして受難から解放された泉であるという。とにかく、アユブと関連する何らかに出来事がブハラの誕生と ここでのユダヤ人の出現に影響を与えたと言える。  前イスラム教の時代に、チャシマ・アユブは既にブハラの仙骨の中心地であり、その隣には「ナウカンド」 の墓地が造られた。しかし、井戸の築後年数は未知のままである。 チャシマ・アユブというイスラム教の墓地は、12世紀前にここで造られた。建物の上にある碑文は、この建 物がアムール・チムールの治世(1370−1405)に建設されたと指摘している。アユブの井戸は中央の ホールに位置している。その後ろに、まだ知られていない人々の墓が安置されている地下室がある。建物の特 徴としては円錐のドームが挙げられる。それはおそらくアムール・チムールがホレムズから強制的に連れてき た建築家によって建設されたと予想されている。



ココはお米屋さんである。これは試食という訳にはいかないが、綺麗な米が並んでいた。オバサンも人なつっこい。







日用品も売っているが、テントの中は基本的に食品である。イチジクやナツメなど、菓実の乾物が多かった。







バスの車中から見た、ウズベキスタン住宅の建設現場。柱や鉄骨が在るようには見えない。全部レンガだ。







ボロ・ハウズ・モスク






ボロ(バラ)・ハウズ・モスク(現地で買った案内書より。) 過去のレギスタン広場には、多数の美しい建物があったが、現在まで残存しているのは、中世のブハラの唯一 の記念碑ボロ・ハウズ・モスクである。このアンサンブルは、カジャン・モスクの次に都市の2番目のジュマ・ ムスク(1712年に建設された)の周りに造られた。その南と北にフジュラがあるメドレセの中庭がついて いる。マジョリカでできている碑文が残っているモスクの入り口は、アルクの門に向かっている。

ドームの下に大きなホールがあり、そのホールのミヒラブのニッチは鍾乳石形の飾りで装飾されている。20 世紀の初頭、モスクの正面は、高い木製のアイウ”ァンで覆われていた。1917年に職人のウスタ・シリン によって、貯水池の岸にカリャン・ニナレットに似ている塔が建てられた。

モスクの顕著な特徴は、20本の木製の柱が支えるアイウ”アンの装飾である。二つの木の幹をつないで、よ り長い柱ができている。鍾乳石形のキャツプには多彩の色のペンキが塗られている。大梁は、天上を多色の正 方形の部分に区分する。その一部は独特の特徴を持ち、職人の傑作となっている。



確かに「職人の傑作」かもしれないが、よくもまぁチマチマと。









ブハラの女性も喜んで写真に収まってくれる。写真を撮ってはダメと言われていたのは何時の頃やら。



この青さはどうだ!イスラム教はホントに青が好きだねぇ。





目の覚めるような青というのはこういうやつなんだろうねぇ。一面にアラビア文字(?)が書かれている。



何が書いてあるのかトルキンさんが説明していたような気がするが、全く忘却の彼方。











最初こんな所でしょんべんかい!と思ったが、とんだバチ当たりだった。神聖なイスラムのお祈りなのだ。







市場の中を通ってホテルへ戻る。













ウズベキスタンの名物はコウノトリの形をしたハサミである。みんな買っていた。WIFEも4,5個買った。

 



どうもトルキンさんはこのハサミ屋からナンボか貰ってるね。売り子に徹していた。





ブハラ市中で見た、裁判所か何かの門の上のコウノトリ。この鳥がウズベキスタン・ハサミの原型。



ホテルへ戻る。



ホテル前の広場。クリックで拡大します。



上が韓国のヒュンダイ自動車との合弁会社で作っている、ウズベキスタンの大衆車。名前は・・忘れた。

夕食