2017年春 ウズベキスタン紀行 第二日目


	
写真に表示されている時間は、日本時間のまま変更していないので、現地時間とは異なります。 あしからず。
2017.4.22.(土) サマルカンド第二日 サマルカンド見学。今日はWIFEの誕生日である。 AM3:00、3:30、4:00、4:30と30分おきに目が覚める。繊細な男は旅にでるとやっかいだ。 今朝は早朝のサマルカンド・レギスタン広場を散策する(希望者のみ)というので、6時起床、 6時半ロビー集合。なので5時半頃もう起きる事にして荷物の整理を始める。残すもの、持ち歩 くものを分けて、寝ているWifeを尻目に何度も荷物を入れ替える。今日もこのホテルに宿泊す るので、重たいものをガラガラ引いて行く手間は省ける。



AM6:30ホテルロビー集合。朝のレギスタン広場へ希望者のみ(といってもほぼ全員のようだっ たが)散歩に行った。ホテルから10分。今日の夜、ウズベクツーリズム(ウズベキスタン観光 局)主催の「サマルカンドの夕べ」と言う特別プログラムのイベントが開催されるところである。 楽しみだ。 広場は、3つのイスラム神学校が並んで建つ、サマルカンド一の名所である。その内一つはモ スクもあり、サマルカンドのイスラム教の聖地でもある。広場を囲んで建つこれら3つの神学 校を、一望出来る。素晴らしい光景だ。これこそイスラム美の極致だ。
30分程見学してホテルへ戻る。途中の建物も見学可能な所には寄っていく。ホテルの朝食はビ ュッフェ形式だった。
移動




8:30、サマルカンド市内観光に出発。まずウルグベク天文台へ行く。15世紀のサマルカンドの 統治者、ミルゾ・ウルグベクによって建造された、当時東洋一の天文台である。当時のイズラ ム文化圏は天文学が盛んで、その成熟度はヨーロッパを凌いでいた。地動説を唱えたあのコペ ルニクスも、イスラム天文学の成果を参考にしていた。現在我々が目にする星座(雄牛座、は くちょう座など)の呼び名。及びその主星に付けられた名前はアラブ語が多い。ミルゾ・ウル グベクは王であったが政治より学問が好きで、特に天文学には造詣が深く、巨大な六分儀を作 らせた。学問的には大きな成果を残したが、施政が上手く行かず実の息子に暗殺されてしまう。



天文台からアフラシャブ博物館へ行く。ウズベキスタンは,大きな2つの川、シルダリア川とア ムダリア川に挟まれているのだが、その挟まれた地域に紀元前8世紀から7世紀にかけて、 「多くの都市」という意味の、ソグディアナ(ソグダ)という国が誕生した。アフラシャブの 丘の上に、マラカンダという都市が建設され、これがサマルカンドの始まりとされる。 紀元前6世紀半ば頃、ソグディアナはペルシャ帝国アヘメニド朝の一部となり、紀元前4世紀 頃まで続いたが、アレキサンダー大王の軍隊がそれを破壊した。その後もこの地域は累々と変 遷を重ねることになるのだが、このアフラシャブの丘にその雄大な歴史の痕跡を残した博物館 が建てられているのである。博物館見学後、昼食。
昼食



レストラン


昼食後、14世紀からサマルカンドの神聖な墓所とされているシャービジンタ廟を見学。その後、 ビビハニムモスク、バザール(市場)を巡り、一旦ホテルへ戻り15分の休憩をとる。
休憩後、再びレギスタン広場での歓迎レセプションに参加する。観光局長(大臣?)の挨拶に 始まって、民族衣装の女性達による踊りと歌の饗宴。中央アジア情緒たっぷりの余興だった。 それから夕食へ。Wifeの誕生祝いにケーキが用意してあった。四人で、ワイン1本、ビール1本 を飲む。酔いも廻って来た頃、又々レギスタン広場へ。真っ暗闇のなかでの3Dマッピングは 素晴らしかった。

アムールティムール 出典:ウィキペディア(一部を抜粋:表記不能な文字は英語に変換) 在位  1370年 - 1405年 戴冠  1370年4月10日、於バルフ 出生  1336年4月8日/4月9日 ホージャ・イルガル村 死去  1405年2月18日(満68歳没) オトラル 埋葬  1405年2月23日  サマルカンド、グーリ・アミール廟 王家  バルラス 王朝  ティムール朝 父親  アミール・タラガイ 母親  タキナ・ハトゥン 宗教  イスラム教スンナ派 ティムール(Timor/Taymur, 1336年4月8日 - 1405年2月18日)は、中央アジアのモンゴル=テ ュルク系軍事指導者で、ティムール朝の建国者(在位:1370年4月10日 - 1405年2月18日)。 中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモン ゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行 う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を 行う二面性を持ち合わせていた。 (ティムール朝の支配領域) 「ティムール」という表記はアラビア文字の綴りに由来し、ペルシア語による綴りに基づいて 「ティームール」とも表記される。ペルシア語では「跛者のティムール」を意味する「タメル ラング」「ティムーリ・ラング」「ティムール・イ・ラング」(Timor-iLang)とも呼ばれ、 ペルシア語名のTimor-i Langが英語に転訛したタメルラン(Tamerlane)の名前でも知られてい る。「跛者のティムール(Timor-i Lang)」の渾名はヨーロッパ世界でも普及し、タメルラン のほかにタマレイン(Tamerlane)、タンバレイン(Tamburlaine)といった名前で呼ばれてい る。またこの名は中世モンゴル語では Temur、現代ウズベク語では Temur であり、「テムル」 とも表記される。『明史』などの漢語史料では「帖木児」と表記される。 語義は「鉄」を意味し、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。ティ ムール自身、一時はトゥグルク・ティムールの許におり、また、その覇道の最中で他の「ティ ムール」という名を持つ男達と何度か敵対している(ティムール・メリク、ティムール・タシ ュなど)。 ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず、 「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗った。ティ ムールが鋳造した貨幣にはチャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれ、モス クの金曜礼拝でもハンの名前とキュレゲンの称号がフトバに入れて唱えられた。彼が没してか らおよそ20年後、ティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』で彼が生前名乗らなか った「ハーガーン(ハン)」「スルターン」の称号が追贈された。 史家が著した年代記では、ティムールは「サーヒブ・キラーン(サーヒブ・ギラーン、Sahib Qiran、「幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者」、「吉兆の合(吉兆の星である金星 と木星が太陽と重なる天文現象)の支配者」、「星座の支配者」)」の雅号で呼ばれている。 その歴史家のうち、ヤズディー(英語版)はティムールとともにアレクサンドロス3世を、ニ ザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)はチンギス・ハーンとティムールの孫ウマル を「サーヒブ・キラーン」として称している。
1380年頃に描かれたと考えられているティムールの肖像画
夕食



WIFEのバースディ・サプライズ。添乗員の原田さんが手配してくれたらしい。








部屋へ戻り、荷物の整理。バスで運ぶ荷物は12時迄にドアの外へ出しておいて、夜中にポーター がバスへ積み込むのである。なんという行き届いたというか、サービス過剰というか、驚いた サービスだ。このツアーに年寄りが多い筈だ。 明日はウズベキスタンの新幹線と言う列車でブハラへ向かう。エキサイティングなサマルカン ド第二夜が終わった。