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垂柳遺跡
2007年9月15日(日)青森県田舎館村







	ここは、岩手県の「御所野遺跡」と並んで、今回の旅で一番行きたかったところだ。弥生中期の水田稲作の跡。弥生時代、東北に
	も水耕稲作があった事を、日本で最初に証明した遺跡である。東北の稲作水田の北限の遺跡としては、ここより北の「砂沢遺跡」
	があるが、あそこは現在ため池の下にあるので、見学できる遺跡としてはここが北限と言う事になる。
	「砂沢遺跡」は「垂柳遺跡」よりも更に古く、弥生前期に編年されている。つまり、西日本で水田稲作が本格化する頃に、津軽半
	島の根本にもう水田があるのだ。この2つの遺跡の出現は、これまで考えられてきた、水田、稲作の北への伝播について、その時
	期、ルート、伝播速度等について、研究者達に再考を迫っていると言っていいだろう。



出典(上下とも):「全国訪ねてみたい遺跡100」(岡村道雄監修:成美堂出版)




	垂柳遺跡(たれやなぎいせき)

	青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。青森
	県の西部にある津軽平野は、昔からコメの産地として知られてきた。なかでも田舎館村は、単位面積あたりのコメの収穫量日本一
	をたびたび達成している。その伝統が、はるか弥生時代に遡るとは、昭和50年代まで誰一人考えたこともなかった。「東北地方
	に弥生時代の稲作はない」というのが当時の学界の常識だったのだ。ただ一人、東北大学伊東信雄教授(当時)のみは、昭和31
	年に籾痕(もみこん)のある土器や、その後、炭化米も発見し、津軽平野での弥生時代の稲作の存在を主張していたが、学会には耳
	を傾けるものはいなかった。この遺跡は南八甲田山を源とする浅瀬石川によって形成された沖積平野に立地し、明治から昭和はじ
	めにかけて村から出土した多くの土器がみつかっていて、一部に早くから注目する人もいたが、それが稲作に結びつくという考え
	は、伊東教授以前にはなかったと言っていいだろう。




	上に見える道路が国道102号線のバイパス。遺跡はあの下に埋まっている。手前には、当時の水田と同じ大きさで実験的に水田
	が復元してあり、稲も植えられている。

上空から見た発掘当時の垂柳遺跡。この上をバイパスが通った。






	昭和50年代の中頃、田舎館村垂柳地区で圃場整備に伴う発掘調査が行われ、弥生時代の水田跡が出現した。国道バイパス工事の
	ための本格的な発掘調査もおこなわれた。出現した水田跡は、約4000平方mの中に656面あり、大きなものは11平方m以
	上、最大のもので22平方m、中が9平方m前後、小が4平方m前後だが、平均では8平方mと田圃としてはきわめて小規模であ
	った。各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。遺跡は、
	旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれ、112面の水田跡からは弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目を
	あつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。






	この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播を考えるう
	えで大きな問題提起となった。日本の稲作が、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る大
	発見であった。北東北における稲作の実証には、伊東教授の主張から20年以上の年月を必要としたのであった。
	その後1987年に、弘前市の「砂沢遺跡」から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらに
	さかのぼった。現在、垂柳遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は「田舎館埋蔵文化財センター」で保管・展示されてい
	る。平成12年(2000)4月に、垂柳遺跡は国の史跡に指定された。



出典:「田舎館埋蔵文化財センター」パンフレット。






	遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。1956年(昭和31年)に籾痕のある土器が発見され、その後、
	炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。
	東北地方では、垂柳遺跡の発見前から、籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米が一部みつかっていたことから、早い時期の水稲農
	耕説が一部の研究者から提唱されてはいたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部
	で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播を考えるうえで大きな問題提起となった。







今の水田と比べると、一枚一枚が実に小さい。作業効率の問題か、はたまた農耕具のせいだろうか。






	垂柳遺跡年表
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	1897 「日本石器時代人民遺物発見地名表」東京帝国大学(現東京大学)に記載される。  
	1934 県道開設工事の際、大量の土器が発見される。 
	1939 山内清男 田舎館出土の土器を「続縄文式土器」と位置づける。 
	1950 伊東信雄 田舎館出土の土器を「弥生式土器」と位置づける。 
	1956 田舎館村で耕地整理が実施され、大量の土器が出土する。土器の中にモミの跡がついたものが発見される。 
	1957 江坂輝弥 田舎館出土の土器は「弥生式文化の影響を受けているが、稲作が実施されていない」とし、「弥生式土器」とは
	   せず「続縄文式土器」と位置づける。 
	1958 伊東信雄 田舎館垂柳の地を発掘調査する。大量の土器・石器とともに200粒以上の炭化米が発見される。 
	1959 山内清男 「東北北部は続縄文式が主体で、田舎館村出土の土器は弥生式的な文物を多少取り入れたものである」とし、田
	     舎館村出土の土器を弥生式土器とは認めなかった。杉原荘介 田舎館村出土の土器を弥生式土器と認め、弥生時代後期に位
	     置づけた。 
	1981 青森県教育委員会が国道102号路線内を発掘調査する。東北地方で最初の弥生式水田が発見される。 
	1982 2ヵ年の調査で656枚(面積約8,000m2)の水田跡が発見された。 
	1983 発見された水田跡は、弥生時代中期末に位置づけられた。 
	1986 田舎館村教育委員会による史跡指定を目指す発掘調査が開始される。
	1995 − 水田跡の他に木製の鍬が発見される。  − 高樋(3)遺跡から垂柳遺跡と同時期の水田跡と水路跡が発見される。 
	1997 発掘調査が完了する。 
	1999 史跡指定申請書提出 
	2000 4月11日 史跡垂柳遺跡として告示される。 
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ここに出土物があるのかと思って入ってみたら、ここは遺跡とは関係ない施設だった。それでもパネル写真と土器が2,3置いてあった。




	田舎館村(いなかだてむら)

	青森県中西部、南津軽郡の村。東は黒石市に、西は平川をはさんで弘前市に接する。津軽平野南部に位置し、中央を岩木川支流の
	浅瀬石川がながれる。東西に広がる村全域が平坦地で、山林はない。地名は大和言葉の「稲家」(いなか)が由来ともされる。
	明治22年(1889)村制施行した田舎館村が、昭和30年(1955)、光田寺村(こうでんじむら)と合併して新生「田舎館村」が成
	立した。面積は22.31k平方m、人口は2003年で9028人である。
	古くから水田地帯として開けており、米とリンゴを中心とする農業が基幹産業で、副産品の稲藁(いなわら)を利用した筵(むしろ)
	などの生産もおこなわれていた。近年はイチゴやブドウ、花卉(かき)などをとりいれた複合経営のほか、リンゴジュース、野菜入
	りうどんなど農産物加工品の開発もおこなわれている。
	南北朝〜戦国期に一帯をおさめていた田舎館千徳氏(せんとくし)の居城だった田舎館城跡があり、胸肩神社(むなかたじんじゃ)に
	は円空作の木造十一面観音像がのこる。



垂柳遺跡出土の土器と下はその出土状況。






	しきりにパネル写真を写していると、後ろからおじさんが「埋蔵文化財センターへ行けば本物があるよ。」と声をかけてくれて、
	丁寧にその場所を教えてくれた。この建物から見えていた。「埋蔵文化財センターと博物館が一緒になっていて、4時半までだか
	ら見るなら急いでいかんと。」とせき立てられてここを後にしたが、センターでまたそのおじさんと会った。どうやら教育委員会
	の人のようだった。大阪からこの遺跡を見に来たと言ったら驚いていた。








	垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田は、その灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など、技術的には西日本の稲作技術と大差がない。つまり、
	弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が、東北にも到達しているのである。北九州に伝わった稲作が、一体どんなス
	ピードでここまで到達したのだろうか。古墳時代における文化の伝播速度にも驚かされるが、この稲作技術の伝播も恐ろしく早い。
	通常言われる弥生時代がほんとに600年程ほどだとすると、ここに稲作が伝わったのが中期と言うことなので、およそ3-400
	年で稲は日本列島を縦断したことになる。これは驚くべきスピードである。稲作は、実はもっと早くから北九州には伝わっていた
	のではないだろうか。そうでなければ、こんな短期間で津軽まで来るのがどうしても理解できない。本土の弥生時代をみても、低
	地では稲作を始めていても、まだ山中や丘陵では狩猟や木の実採集に明け暮れていた痕跡があるのに、稲作だけが恐ろしい速度で
	伝播していっている。
	北海道には水田の痕跡が皆無なので、垂柳遺跡の稲作技術が北から来たという事は考えられない。青森では、北海道の続縄文文化
	(本土の弥生時代・古墳時代に相当)に続く、擦文文化(さつもんぶんか:奈良時代以降に相当)で盛んに使われた「擦文土器」
	が発見されているので、少なくとも北海道の一部の人々が津軽海峡を渡ってきていた事は明白だが、稲作は反対に海峡を越えなか
	ったようである。すると稲作技術の運び手は、勢い、南か西から来たという事になるが、西は日本海である。常識的には西日本か
	ら東進した一団が、関東平野を北進して東北までやってきたと考えるのが一般的である。或いは、西日本の連中が陸伝いに日本海
	を北上し、直接、北陸や東北に稲作技術を伝えたとも考えられる。以下にみる、遠賀川式土器の東日本一帯への拡散は、そのどち
	らも可能性がある。遠賀川式土器は、これが出現する地域ではほぼ稲作が行なわれていたと判断してよい、いわば稲作の指標のよ
	うな土器である。
	青森南部の松石橋遺跡で遠賀川式土器が発見されるまでは、この土器の東限は伊勢湾周辺と考えられていた。その後続々と関東・
	東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無く、コメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰
	も否定できなくなった。垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである。







 










	2006年4月7日(金)   東奥日報
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	■うるし 縄文と弥生/是川遺跡ジャパンロード 漆の道  
	連載INDEX  (5)東北地方/少ない弥生時代の漆器/県内は垂柳遺跡で出土例 

	縄文時代の漆遺物は北日本での出土が圧倒的に多く、各地の遺跡から次々と発掘される多彩な縄文漆器は「北の輝き」を放ってい
	た。では、弥生時代はどうなのか。東北大学大学院の須藤隆教授(日本考古学)は「東北地方では仙台平野などで弥生の漆器が確
	認されているが、西日本に比べると出土しているところは非常に少ない。両手で数えられるぐらいしかない」と現状を語る。
	仙台平野は、稲作農耕を基盤とする弥生文化が発達していた。仙台市教委によると、弥生時代の漆遺物は、同市の高田B遺跡で儀
	仗(ぎじょう)のような木製品が一点と飾り弓の断片が二点、漆を塗った形跡のある土器が出土している。中在家南遺跡では、儀
	仗のような木製品と赤色漆塗りの木製鉢など、富沢遺跡からはこまのような形をした赤色漆塗り木製品が一点見つかった。いずれ
	も弥生中期の遺物とされる。
	「高田B遺跡では弥生時代の木製品が六百点以上、中在家南遺跡は五百点以上出土した。だが、漆が塗られていたものは数点で非
	常に少ない」と荒井格・市教委文化財課主任は話す。縄文漆器の発掘成果が他地域より著しい本県も弥生時代になると状況は一変
	し、県埋蔵文化財調査センターの三浦圭介次長は「漆遺物がはっきり確認できるのは、田舎館村の垂柳遺跡ぐらい。弥生の漆遺物
	は極めて少ない」という。

	<クマの装飾も>
	津軽平野にある垂柳遺跡は、東北地方で最初に弥生時代の水田跡が発見されたことで知られる。これまでの県埋文センターの調査
	で、水路から大量に見つかった木製品の中に、盾のようなものの一部とみられる漆塗り木製品が一片と、別の漆塗り木製品の断片
	三片をはじめ、赤色漆塗りの高坏(たかつき)、黒っぽい漆が塗られたつぼ型土器が出土した。
	また、田舎館村教委の調査では、クマの装飾がある漆塗りの木製ひしゃくと、糸などをよったものに漆をかけて固めたリング状の
	装飾具が見つかっている。
	クマの装飾品は、日常用具ではなく祭祀(さいし)用と考えられている。村教委社会教育課の武田嘉彦主査は「当時の社会ではク
	マが一番強い獣だったろう。クマの装飾品を持つことは強さの誇示であり、権力の象徴だったのではないか」と推察する。

	<特別なものに使用?>
	須藤教授は「クマの装飾は縄文の系譜であり、垂柳遺跡は縄文の精神性や技術が受け継がれている。高田B遺跡など各遺跡で木製
	品が大量に出土していながら漆器が少ないということは、漆は特別なものに塗っていたのではないか」とみる。

	一方で「東北地方は弥生時代も縄文の漆文化を手放していないと思われるが、出土資料が少ないため、実態はまだまだ分からない」
	とし「小さな破片なども含め、各遺跡で漆遺物の出土がないか丁寧に確認するなど、調査成果を積み上げていくことが大切だ」と
	須藤教授は言葉を続けた。

			◇        ◇           ◇           ◇           ◇

	<東北地方の弥生文化>
	「青森県史資料編考古3」(編集・県史編さん考古部会)によると、東北地方の弥生文化は、縄文晩期の亀ケ岡文化の伝統を残し
	た地域色の強い農耕文化とされる。西日本の遠賀川系土器に伴って稲作技術が広がったが、半島や山間部など稲作が不適な地域の
	人々の生活、これらの人々と津軽平野で農耕を営んでいた集団との関係など解決されていない課題も多い。また、東北地方は弥生
	文化を代表する銅鐸(どうたく)や銅剣などの青銅器が発見されていないなど、西日本とは政治・経済・文化などあらゆる面で大
	きく異なっていた。 




砂沢遺跡




	砂沢遺跡(すなざわいせき)

	青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出
	された。砂沢池は江戸時代に建造された溜め池である。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで4年間にわたって発掘
	調査が行われ、水田は6面発見されたが、2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本
	で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに、日本最北端の弥生時代水田址として注目される。
	日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見だったが、農耕地に供給す
	る溜め池の水位を維持するため完掘していない。畦畔は垂柳遺跡よりも幅広で高く、丹念に築造されている。完掘できれば東北北
	部における前期稲作の全容が解明するのではと、将来に期待が持てる。なお遺跡を見ようとすれば、今のところ、溜め池の水が落
	とされる晩秋の数日しかチャンスがないが、見ても水田跡の痕跡はないかもしれない。





西日本で見られる弥生式土器と違って、縄文土器の形式を残している。





邪馬台国大研究・ホームページ/ 北東北の旅・遺跡巡り / 垂柳遺跡