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熊堂古墳
2007年9月18日(火)
岩手県花巻市




	熊堂古墳群[くまどうこふんぐん](花巻市)

	花巻南I.C.の西方にある古墳群。熊野神社境内がA地点、旧上中小学校(現在工場敷地)がB地点、神社西400mの宅地付近
	がC地点、神社の西がD地点となる。A地点の熊堂古墳群は岩手県のほぼ中央部、花巻市上根子字熊堂に有り、北上川の支流で奥羽
	山系に源を持つ豊沢川の北岸で、標高約95mの沖積段丘上に立地する群集墓である。古くは「蝦夷塚」、あるいは「四十八塚」と
	称され、江戸時代以来数多くの副葬品を出土したことで知られる。熊堂古墳群は北上川中流域に、多く分布する群集墓の一つで、直
	径10m前後、高さ0.5〜1.5mほどの小円墳の集まりである。遺体を埋葬する部分の主体部は川原石を積上げ、3m×0.5
	mほどの細長い長方形に作られている。古墳の築造年代は7世紀後半から8世紀中頃までと推定されており、東北地方北部の古代史、
	特に蝦夷社会を知る重要な遺跡の一つ。8世紀律令政府の下、この地方を支配した「蝦夷」と呼ばれる人たちの墓と見られ、現在、
	神社境内に11基、西側にも複数確認されている。遺跡からは色あざやかな玉類、権力の象徴である刀剣類など多数の副葬品が出土
	している。熊堂古墳群は豊富な出土品があったものの、正式な発掘調査の行われないまま、その大半は失われたとされてきた。岩手
	博物館では昭和61年度から発掘調査をし5基の古墳を確認するなど、熊堂古墳群の解明に取り組んでいる。




	熊野神社内に残るA地点群の全景。墳丘は調査後の復原で、熊野神社境内に11基保存されている。石室は江釣子古墳群(北上市)に
	酷似するといわれる。和同開珎、蕨手刀等出土が出土した。古墳は左から8、9、10、11号墳。古墳群の密集度の高さがわかる。
	整備前は10号墳と9号墳の間に石碑群があり、11号墳の北東側には建物があった。



神社の北東角にある豪華な標柱。古墳群から出た瑪瑙製勾玉が上に乗っている。




	東からの周辺景観。中央奥が熊野神社。左手に豊沢川が流れる。立地は北上市江釣子古墳群によく似ているという。敷地の半分くら
	いが通常の神社スペース。東北では神社の社叢も屋敷森も杉などの針葉樹が主体。社殿の裏側(西側)に竪穴状のものが、また南側
	からは礫群が検出されたようだが遺構であるかもはっきりしないようだ。




	神社由来。これに記された盤基駅を想わせる遺跡がこの東方500mほどで発見された古舘遺跡である。古舘遺跡は大型住居を含む
	拠点集落の遺跡で相当長期に存続した形跡を残している。西暦800年頃、坂上田村麻呂が胆沢城と紫波城との相互連絡を容易に出
	来るようにするため設けた盤城駅が、今の熊野とされている。その坂上田村麻呂が信仰していた熊野大権現を勧請し、三社あったも
	のを明治維新後現在の熊野神社に合祀された。




	公式説明板。実際には境内には9基の古墳が認められた。礫槨状の石室墳と土壙墓状のものが混在しているということが気になる特
	徴である。熊堂古墳群からは、実に様々な副葬品が出土している。玉類は、メノウ、ヒスイ、碧玉、滑石、ガラスなどで作られた勾
	玉、碧玉やガラス製の管玉、水晶の切り子玉、ガラスや琥珀などの小玉類などがある。鉄製品は、蕨手刀をはじめとする刀剣類が多
	く出土している。鋤先や斧などの農具も見られる。その他に和同開珎やカ帯金具など、明らかに奈良時代に作られたことを示す遺物
	もある。さらに飾り馬具の一部と考えられる、毛彫りの施された金銅製の金具なども発見されており、当時の文化の水準を考える重
	要な手掛かりとなっている。








	「和同開珎[わどうかいちん]」は、富本銭が大量に発見されるまで、日本で最初の貨幣と考えられていたもの。大きさは、直径
	2.3〜2.4センチメートルくらい、だいたい今の5円玉より一回り大きく、真ん中に四角い穴があいている。表には上から時計回りに
	「和同開珎」とかかれ、裏は無文である。「開珎」の読み方には、珍の異体字が珎という字であることから「かいちん」と読む説と、
	珎の字が寳(宝)という字の略字だから「かいほう」と読む説があり、現在では前者の説が有力とされる傾向にある。和同開珎がつ
	くられたのは、708(和銅元)年のこと。武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父)から銅が出たことを記念して、元号を和銅と改め、
	5月には銀銭の和同開珎を、8月には銅銭の和同開珎をつくったのが始まりとされている。和同開珎は760年ころまでつくられた。 

	和同開珎が盛んにつくられた奈良時代、北東北は、中央から「蝦夷の住む地」と考えられていた。中央の支配下におかれていなかっ
	た蝦夷の人々は、独自の文化を持って生活をしていた。その一方、中央でつくられた和同開珎が花巻市熊堂古墳群(くまどうこふん
	ぐん)、盛岡市太田蝦夷森古墳群(おおたえぞもりこふんぐん)、金ヶ崎町西根縦街道古墳群(にしねたてかいどうこふんぐん)、
	宮古市長根I古墳群(ながねイチこふんぐん)、北上市江釣子猫谷地古墳群(えづりこねこやちこふんぐん)に隣接した集落の竪穴
	住居跡などの岩手県の遺跡から1枚ずつ出土していることから、両者は何らかの交渉を持っていたことが分かる。しかし、その出土
	の仕方からみると、一般に流通していたとは考えられない。和同開珎のみつかった群集墳は7世紀〜8世紀ごろの地域の権力者の墓
	である。中には遺体と一緒に、刀や馬具、ヒスイやめのうでつくられた勾玉や水晶製の切子玉、小さなガラス玉、か帯金具などの副
	葬品を納めた。か帯金具は中央の貴族の身分を示すもので、中央との政治的な交流によって入手したと考えられている。和同開珎は、
	か帯金具と同様に、ごく限られた人々しか持つことができない、中央からもたらされた特別なものとして、扱われたと考えることが
	できる。






発掘調査時点の古墳。



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