Music: Hey jude





一日目 9月14日(金)秋田空港から十和田湖へ





	WIFEがまた働くと言い出した。私が再就職して年収が半分になってしまったからか、或いはこのまま家庭の主婦で朽ち果ててしまう
	のを恐れたのか、その真意はいずこにあるのかはわからないが、まぁ、家事よりはましと思ったのだろう。さっさと就職を決めてき
	て、一月後には働くという。子供達はもう家にはいないし、両方働くとなるとこれまでのように旅行に行くことも早々できなくなる
	に違いないというので、4泊5日の東北旅行を思い立った。私は遺跡・博物館めぐりをテーマに、WIFEはドライブを主体に計画を立
	てた。大阪から秋田まで飛行機で行き、秋田でレンタカーを借りて、秋田・青森・岩手とめぐる事にした。

	伊丹空港から乗った飛行機は、便名が4桁だったので「あぁまたボンバルディアだな。」と思っていたらなんとジェット機だった。
	考えてみれば、大阪から秋田まではプロペラ機では無理かも知れない。左右2列の50人乗り、小さな飛行機だったが、秋田まで1
	時間で着いた。
 






	上左は秋田市の体育館。秋田杉を使った木造のようだ。上右は、昼食をとった蕎麦屋さん。秋田へ来たからには是非と思っていた
	「いなにわうどん」。地元の地鶏のテンプラも付いて千円。うまかった。WIFEは釜揚げのような冷たい「いなにわうどん」を食って
	いた。








午後8時近くに「十和田プリンス」に到着した。魚か肉かがメインディッシュのフランス料理。二人とも魚を頼んだ。歳だねぇ。



二日目 9月15日(土)十和田湖から津軽半島へ

	十和田湖 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地 青森県 秋田県 
	面積 61.1 km2 		周囲長 46.0 km 		最大水深 327.0 m 	平均水深 71.0 m 	貯水量 4.19 km3 
	水面の標高 400 m 	成因 カルデラ湖 	淡水・汽水 淡水 	湖沼型 貧栄養湖 	透明度 9.0 m 

	十和田湖(とわだこ)は、青森県十和田市、秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖。十和田八幡平国立公園内にある。十和田火山の
	噴火で形成された二重カルデラ湖。現在も活火山として指定されている。最大深度327mは日本第三位。流出河川は奥入瀬川。
	胡桃を半分にした形。湖の中央、御倉山と中山半島の間にある中湖(なかのうみ)とよばれる水域が最深部であり、御倉山の東
	側の東湖(ひがしのうみ)や中山半島の西側の西湖(にしのうみ)と呼ばれている水域の水深は50〜100mほどである。
	なお、江戸時代より郡の境界が不明確で十和田湖の帰属が決まらないため、青森県と秋田県との境界はいまだに確定しておらず、
	その分の地方交付税交付金が宙に浮いている。
	衛星写真十和田湖の原型(外縁)は、約3年前の十和田火山の大噴火と陥没(第一カルデラ)によってできたと考えられている。
	東湖や西湖はこの第一カルデラの一部である。
	さらに約1万年前に十和田カルデラの東南部で噴火によってカルデラ内部に五色岩(または五色台)火山が形成された。五色岩
	火山は初期に玄武岩を噴出し山体を成長させた。その後、安山岩・デイサイトを経て流紋岩を噴出するようになった。それに伴
	い爆発的噴火が多発し火口を拡大していった。そして、5400年前の噴火で火口壁が崩壊し第一カルデラの湖水が火口に流入した。
	これにより中湖ができたと考えられている。
	915 年(延喜15年)、十和田火山は大噴火を起こした。このとき毛馬内火砕流が周囲20kmを焼払った。この噴火は過去2000年間、
	日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる。この噴火の火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらした
	と推定される。
	1855年(安政2年)、新渡戸伝(新渡戸稲造の祖父)によって三本木(現・十和田市)開拓が着手された。奥入瀬渓流の下流に
	は、その際に作られた十和田市法量(旧十和田湖町法量)から開拓地への水路(稲生川)の取水口がある。
	明治時代に和井内貞行によってヒメマスの養殖が成功し、特産物として重要な観光資源になっている。なお、湖畔の秋田県側の
	小坂町の生出(通称:和井内)地区には、ヒメマスの孵化場がある。
	「十和田湖および奥入瀬渓流」として文化財の特別名勝及び天然記念物に指定されており、1936年、周辺の奥入瀬渓流、八甲田
	火山群と共に十和田八幡平国立公園に指定された。
	紀行文作家大町桂月はこの湖の美しさについて、「山は富士、湖は十和田湖、広い世界に一つずつ」と評している。
	十和田湖遊覧船( 2004年10月9日)湖畔には高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」の他、十和田ビジターセンター、十和田科
	学博物館などがあり、観光用の湖上遊覧船が運行している。湖に突き出した中山半島には十和田神社がある。
	また十和田湖畔温泉があり、国民宿舎が設置されている。
	毎年7月の第三金・土・日曜日には「湖水まつり」が開催され、また7月下旬の日曜日には十和田湖一周道路(約50km)を約
	12時間かけて歩く「十和田湖ウォーク」が行われる。
	湖自体の帰属が、青森県と秋田県の間で決まっていないので土産物屋では青森の特産物(りんごなど)と秋田の特産物(きりた
	んぽや樺細工)とが両方販売されている。





十和田プリンス・ホテル







午前6時頃の十和田湖。朝霧につつまれてまったく神秘的である。







	6時半から、ホテル主催の「朝の自然観察会」というのに参加した。大阪出身の、めちゃくちゃ自然に詳しいおっさんが約1時
	間、湖畔を歩きながら自然環境について解説してくれた。下右の写真があの有名な「トリカブト」である。その強烈な毒性で、
	山菜取りに来ていたおばさんが、山菜に混ざったトリカブトを一緒に料理して死んでしまったらしい。根だけでなく、茎や葉を
	食べてもイチコロだそうだ。桑原桑原。




みずひき草とモジズリ(ねじ花)。








	上右は、散策路のあちこちに落ちていたトチの実。縄文人はこれのアクを抜き、場所によっては殆ど主食として食べていた。ク
	リとよく似ている。恥ずかしながら、山育ちのくせに、このときまでトチの実を見たことがなかった。でも九州にはなかったよ
	うな気もする。

十和田神社









	十和田神社 (とわだじんじゃ) 青森県上北郡十和田湖町 
 
	祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと) 開運・金運上昇・諸願成就・家内安全
	大同2年(807)、坂上田村麿が一宇を建て、日本武尊を祭ったのが始まりという。八郎潟伝説(八頭の大蛇伝説)も残り、藤原
	是真が、熊野権現に祈念して生れた南祖坊(南蔵坊、南草坊)という説もある。建武元年(1334)北畠顕家 に従って当地に来た
	甲州南部氏が、甲斐白鳥 の宮の祭神を遷して再興した。熊野権現、青龍権現の名で知られ、東北の修験宗徒の修行の地として、
	恐山と共に南部藩の二大霊場として人々の信仰を集めたといわれている。例祭は旧5月14日・15日。







十和田湖









	高村光太郎製作の「乙女の像」。はじめて来たWIFEは、もっとスマートなギリシア像のような乙女の像をイメージしていたらしく、
	「え、こんなずん胴なん?」と驚いていた。高村光太郎はただ忠実に当時の日本婦人を模しただけなのに。
	私はココは3回目だが、思えば始めて来たのはもう40年近く前である。18歳の時、ワンダーフォーゲル部の夏合宿で来たとき、
	この像のすぐ側にごろ寝したのだが、朝起きてゴミ捨て場の横だったのに気づいた。岩手県の雫石から青森までの500km位を
	1週間で歩いたのだから若かったよなぁ。思えば、恥も外聞もなく行動できるのが青春の特権かもしれない。



















八甲田山死の彷徨







	八甲田雪中行軍遭難事件    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。
	訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬山登山史上もっとも多くの遭難者が発生する事件となった。

	事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としてすすめていたことが挙げられる。日本陸軍は1894年の日清戦争で冬季
	寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件か
	ら2年後の1904年に日露戦争として現実のものとなった。
	この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、
	日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前〜十和田湖畔〜三本木〜田代〜青森」と
	「青森〜田代〜三本木〜八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ
	形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等・・」の全般
	に渡る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否・・」が目的だったとされている。

	遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊第2大隊である。部隊の指揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文
	吉(かんなりぶんきち)である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口ユが指揮に容喙したとされている。神成文吉大尉は、秋田
	県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。
	神成大尉の命を受けて危急を知らせる途上で仮死状態となっていた後藤房之助伍長が1月27日に捜索隊に発見されたことから、
	遭難の詳細が判明した。5月28日に全遺体が収容された。

	最終的に生存したのは後藤房之助伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、小原
	忠三郎伍長(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、及川平助伍長(岩手)、長谷川貞三特務曹長(秋
	田)、阿部寿松一等卒(岩手)、村松文哉伍長(宮城)の11人のみであった。
	生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外の、その殆どが凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な
	方では、及川平助はアキレス腱と指3本、山本徳次郎は左足を切断した。その他は四肢切断であった。また、一番元気だった倉
	石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1月27日に戦死した。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

	1907年銅像が立てられたが、後藤房之助本人は当時の連隊長に『よく見ろ』と言われたが、照れくさくなかなか見ることができ
	なかったそうである。また、彼は遭難の話はあまり話したがらなかったそうである。また、後藤伍長は同じく生き残りの村松伍
	長と仲が良かった。
	後藤伍長は銅像のほか、現在青森県道40号青森田代十和田線の路上に「後藤伍長発見の地」という板が立っている。ただし、発
	見の地は銅像よりも数キロ青森よりの場所である。銅像の場所は馬立場付近で、第二露営地と第三露営地の間である。
	こちら側に向かうスキーのコースは銅像コースと言われる。同コースでは、2007年2月14日に、死者2人・重軽傷者8人を出す雪崩]
	事故が発生した。




津島文治先生謝恩碑 このわきでおばあさんがぶどうを売っていたので2房買った。懐かしいキャンベルでうまかった。


	津島 文治(つしま ぶんじ)	  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	1898年1月20日 ? 1973年5月6日。日本の政治家。大地主で銀行家の津島源右衛門(旧姓松木)とタ子(たね)の三男として青森県
	北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれ、長兄総一郎、次兄勤三郎の早世により津島家(通称、津惣[つそう、津島惣助の略])
	の家督を継ぐ。12歳下の実弟に津島修治(太宰治)がいる。長男津島康一は俳優。
	金木第一尋常小学校から五所川原農学校(現青森県立五所川原農林高等学校)を卒業後上京し、早稲田大学政治経済学部に入学。
	早稲田大学文学部の同期入学者に井伏鱒二がいた。(井伏は学生時代から津島文治が津軽の大地主の息子であることを噂に聞いて
	いた。)当初は政治評論家を志望。大学時代、長唄の稽古に通う。
	大学在学中、1922年12月に結婚。1923年3月3日、大学を卒業。翌日に父が急死したため、津島家の家督を継ぐ。1925年、金木町長
	に選ばれ、2年間務める。1927年、青森県議選で最高位当選を果たし、最年少の県議となり、2期を務める。1930年11月、弟修治が
	カフェの女給田部シメ子と心中未遂事件を起こし自殺幇助容疑で鎌倉署に逮捕された時には、担当刑事が金木出身で津島家の小作
	の息子だったことや、管轄の横浜地裁の所長が黒石市出身で父源右衛門の姻戚だったことを利用し、自らの政治的影響力を行使し
	て、修治を起訴猶予処分に持ち込んだ。
	1937年4月30日、政友会から衆院選に初めて立候補。その若さや家柄から「青森県の近衛公」と呼ばれ、将来を嘱望される。5月1
	日に開票、第2位で当選するも、5月4日に選挙違反の容疑で五所川原署に逮捕される。留置場から衆院議員当選不承諾届と県議辞
	任届を提出、さらに金木銀行頭取、西北畜産利用組合長、北津軽郡青年団長、神社の氏子総代などの公職をことごとく辞任。のち、
	公判にて罰金2000円および10年間の公民権停止を言い渡された。以後、第二次世界大戦中は自邸の書斎に籠る日々が続く。
	1945年7月、疎開先の甲府で空襲に遭った修治の一家を自邸に迎える。
	1946年、進歩党から戦後初の衆院選に立候補。修治も背広にリュックサック姿で選挙運動に協力。同年4月10日の選挙において、
	全県一区定員7名中6位で当選。公務のため上京し、東京に住む。
	1947年、青森県知事に就任(初代民選知事)。以後、3期(9年余)を務めた。十和田湖湖畔の裸婦像(「乙女の像」)は、津島が
	高村光太郎に依頼して制作されたものである。1958年から衆議院議員として2期を、1965年から参議院議員として2期半余を務めた。
	なお、弟・修治(太宰治)とは彼の破天荒な性格のために衝突をしばしば繰り返したという。そのため、弟の自殺後にその名声が
	高まって文豪に加えられていく世間の状況には困惑していたと言われている。長男康一に子供はないので直系は絶えた。







竜飛岬


 

♪ごらん、あれが竜飛岬、♭♯ 北のはずれとぉ〜♪♭♯






三日目 9月16日(日)津軽半島から白神山地へ







	今回の旅の宿は、wifeが netで調べて良さそうなところを予約したのだが、ここだけはイメージと違っていた。ここ1軒だけの
	温泉宿で、田んぼの真ん中にポツンとあった。それでも広いので団体客がドヤドヤいたが、食事も田舎の温泉宿風でありきたり
	だった。でも朝目覚めて、雨が降っていたからか窓ガラスに蛙がへばりついていた。久しぶりに見た雨蛙で楽しかった。右下は、
	フラッシュをたかれてまぶしくて顔をそむけたシーン。









雨が上がっていく岩木山。晴れていればホントは下のように見えるはず。





リンゴはそこら中になっていた。さすがは津軽。











	この宿は、かっては「大鰐温泉」として相当客を呼んでいたらしいが、今はもう冬場のスキー客を除くと殆ど湯治客もいないので、
	「温泉民宿」に衣替えして営業している。老夫婦でやっているような感じで、食事もまるで家でするようなメニューだったが、風呂
	や部屋はひなびた風格を備えていてなかなか味わいがあった。






四日目 9月17日(月)大鰐温泉から花巻温泉へ






いかにも民宿でござい、というような宿を出て、今日は雨の中、岩手県を目指す。









	左は会社へのお土産。この「三内丸山クッキー」を見て、歴史好きだという若手が「三内丸山てどこですか?」と言ったのにはあん
	ぐり。右は、岩手県紫波郡紫波町の「紫波観光農園」で買ってきたぶどう。キャンベルとナイヤガラともう一種類。娘達や九州の私
	の実家にも送った。実はこのぶどう農家は、以前からwifeがINTERNETでぶどうを買っている農家だ。岩手へ行くという計画の時から
	wifeが「絶対ここに寄りたい」と言って訪問した。訪問時も相当雨が降っていたが、宿についてTVのNEWSが、紫波町で川が氾濫し、
	橋が流れたと報じていた。我々は間一髪だったが、あのぶどう園は大丈夫だったろうか。

	今夜の宿は大沢温泉の「山水閣」。宮沢賢治も泊まった岩手の老舗で、本館には自炊湯治者たちのために素泊まり部屋もある。本館
	は古い民家風の平屋で、wifeはここに泊まりたかったようだが、満杯で仕方なく新館に通された。私はこっちのほうが良かったが、
	ひどくなる一方の雨脚に、裏の小川が溢れそうで心配だった。





我々は2階だったが、1階の客は心配で眠れなかったんじゃなかろうか。轟音を挙げて濁流が流れていた。



宮沢賢治にちなんでか、ビールは「銀河ビール」。





今回の旅ではここの料理が一番よかった。味も種類も十分満足した。






五日目 9月18日(火)花巻温泉を出て秋田空港へ




雨もすっかり小降りになって、昨夜の濁流もおさまっていた。水量は多かったがやれやれ一安心。









朝食後、旅の終わりの記念撮影。



wifeは出発前に本館を見てくると言って新館を出て本館を見学。以下はwifeが写した写真。私は部屋でTVを見ていた。



自炊や素泊まり客の部屋。



これが本館、かな。普通の民家である。







新館と本館は川で隔てられている。本館へは橋を渡らねばならない。












	旅館を出て空港へ向かうが、至る所に昨夜の猛雨の被害が。川の側の水田は大半水没していた。以下は帰宅してからの被害の模様。
	被害に遭われた方には心からお悔やみを。



	収穫間近 あきたこまちも水没 秋田・岩手の大雨 asahi.com	2007年09月18日13時39分

	盛岡市南仙北の北上川沿いでは、17日深夜から18日未明にかけ、速い流れが約4〜5メートルの土手をのみ込み、自転車道
	を挟んで住宅まで約2メートルの所まで迫った。

	 
	大雨で河川がはんらんし、道路や水田などが水につかった=18日午前10時35分、秋田県北部で、本社機から

	水辺では消防隊員らが警戒に当たり、18日午前0時ごろ約10人で水際に土嚢(どのう)を積み上げた。 
	避難勧告を受けて様子を見に来た近所の住民は「消波ブロックがおいてあるから決壊の心配はない」「いや、そろそろ危ない」
	などと言いながら、住宅に近づく水位を不安そうに見守った。 
	50代の主婦が住む家は、道路を挟んで川まで約10メートル。濁流が道のそばまで迫った17日午後11時ごろ、避難勧告を
	受けて同市内の知人の家で一晩を過ごした。「家の窓から川を見ていると、徐々に水位が上がってきて怖かった」と話した。
	眠れない夜を過ごし、18日午前5時ごろに帰宅すると、水で隠れていた護岸部分が見え「水位が下がったんだ」と安心したと
	いう。 
	岩手県西和賀町では17日、和賀川の増水で桐沢橋の橋脚が折れ、通行止めになった。橋は幅4メートル、長さ30メートルの
	鉄骨造り。流木がぶつかって橋脚が折れ、V字形に折れ曲がった。 
	秋田県大館市立花地区周辺は、米代川がはんらんし、付近の田んぼがすっかり水につかった。有数の米どころで、収穫間近のあ
	きたこまちが水没、丸太やタイヤなど大量のごみが散乱した。近くの50代農家男性は「収穫はあきらめるしかない」とがっく
	りした。 
	大館市の隣、北秋田市を流れる米代川支流の小阿仁川などもはんらんした。同市李岱の女性(60)は17日夜に避難し、18
	日朝に自宅に戻った。床上浸水で畳や家具は泥だらけ。「ぼうぜんとしています。片づけないといけない」と力無く話した。 



	秋田新幹線や在来線に運休相次ぐ 東北地方の大雨 asahi.com	2007年09月18日13時20分

	東北地方の大雨の影響で、新幹線や在来線に大きな影響が出ている。JR東日本によると、秋田新幹線の盛岡―秋田間が終日運
	休するほか、東北新幹線の「はやて7号、12号」が運休する。長距離列車では、寝台特急「あけぼの」、「カシオペア号」、
	「日本海1号―4号」、「トワイライトエクスプレス(札幌発)」などが全区間で、特急「いなほ1号」が酒田―秋田間で、特
	急「いなほ8号」が青森―酒田間で運休している。 

	 このほかに運転を見合わせているのは以下の通り。 

	五能線(能代―深浦間)▽八戸線(鮫―久慈間)▽奥羽線(秋田―大曲間)▽田沢湖線(雫石―田沢湖間)▽羽越線(羽後本荘
	―秋田間)▽奥羽線(秋田―碇ケ関間)▽岩泉線(全区間)▽釜石線(同)▽花輪線(同)▽山田線(同)▽北上線(同) 



	東北大雨で2人不明、秋田新幹線運休 sankei.web	(2007/09/18 10:29)

	活発化した前線の停滞に伴って大雨が降った東北地方では18日、秋田新幹線の終日運休が決まり、岩手や秋田を中心に約3万
	3000人に避難指示・避難勧告が出るなど影響が続いている。これまでに秋田、岩手で立ち往生した車や走行中のバイクが川
	に流されたとの通報があり、両県警は2人の捜索を急いでいる。
	同日午前3時40分ごろ、岩手県紫波町で、走行中のバイクが、大雨で増水した北上川から流れ込んだ濁流にのみ込まれて転倒、
	運転していた1人がバイクごと流され行方不明になった。
	秋田県北秋田市の阿仁川で17日、ワンボックスカーの女性が流されたとの通報を受け、県警が引き続き捜索を続けている。
	また、秋田県総合防災課によると、北秋田市の避難所で無職男性(87)が亡くなった。
	秋田県は、計約3400百世帯の計6600人に避難指示を出し、計約6200世帯の計1万7400人に避難勧告。岩手県内
	でも約3500世帯、約9000人に避難勧告が出ている。



	豪雨の北東北で2人不明、1342世帯2730人避難指示	(2007年9月18日13時45分  読売新聞)
  
	東北地方を襲った豪雨で家屋内や道路にたまった泥などを片づける住民たち(秋田県北秋田市で) 豪雨に見舞われた東北地方
	北部は、18日午前も断続的に雨が降り続き、岩手県紫波町(しわちょう)では18日未明、北上川の増水で冠水した町道で新
	聞配達中のバイクの男性(64)が転倒して流され、行方不明となった。今回の豪雨による行方不明者は計2人になった。
	読売新聞のまとめでは、18日午後1時現在、床上浸水は秋田県大館市など秋田、岩手県で計65棟、床下浸水は両県で計29
	5棟。避難指示は秋田県能代市など秋田、岩手県で計1342世帯約2730人。避難勧告は秋田県北秋田市など秋田、岩手、
	青森県で計4751世帯1万2554人。
	交通網への影響も相次ぎ、秋田新幹線やJR花輪線、釜石線などは18日、全線で終日運休。JR奥羽線なども一部区間で終日
	運休となった。また、冠水などのため、秋田県内の国道12か所と県道27か所で全面通行止めとなった。
	降り始めの15日午後7時からの降水量は、18日午後1時現在、仙北市鎧畑(よろいばた)289ミリ、北秋田市阿仁合(あ
	にあい)277ミリなど。秋田県内10か所では、18日午前3時までの24時間の降水量が観測史上最高を記録した。






錦秋湖SAで休憩したときに見た「熊注意」の看板。高速道路にまで熊が出るとは。まぁ、神戸の芦屋などもイノシシが出るしな。







空港のロビーでも、TVが昨夜の被害を大々的に報道していてみんな見入っていた。









帰りもIBEXの50人乗りジェツト機だった。この航路はいつもこの機種かな。








	これで4泊5日の「北東北の旅」も終わった。旅はまだ終わったわけではないが、古代を訪ねる遺跡巡り・博物館めぐりは、一応
	終了である。岩手博物館の見学後、最後の宿へ向かう雨の中、花巻市で小さな群集墳に出会うのだが、それは偶然その脇を通った
	から出くわしたのであり、この地方に多い群集古墳を見れて実にラッキーだったとも言える。
	東北へ稲作が渡ってきたのが、まさしく弥生時代だったという事を証明した青森県の「垂柳遺跡」にも感激したが、北東北は何と
	言っても縄文時代である。豊かな自然と気候に恵まれて、北東北の縄文人達がいかに彼等の生活を謳歌していたか。その片鱗が見
	れて幸せだった。三内丸山遺跡は西の吉野ヶ里と並んで、遺跡と言うよりもテーマパークのような様相を呈してきているが、それ
	でもムラ興しに十分役立っていることを思えば、大目に見てもバチはあたるまい。
	十和田湖もすばらしかったし、竜飛岬、白神山地も雄大だった。好きとはいえ、4泊5日の旅行中運転を担当したwifeにも感謝し
	なければなるまい。





北アルプスや中央アルプスを眼下に見て、





濃尾平野や三河湾を越えてゆく。小さい飛行機は高度が低いので景色がいい。







やがて伊吹山を越えて伊丹空港へ。1時間の空の旅。








三内丸山で買ってきた土器のレプリカに、十和田湖や御所野遺跡で拾ったトチやクルミを入れて、しばし縄文時代の余韻に浸る。
やれやれ今回も生き延びた。良かったなぁ、東北。また行きたいもんだ。後何年くらいこうやってアチコチ出かけられるだろうか。



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