ウフィツィ美術館 2009.9.19





	
	ウフィツィ美術館	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年
	より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、
	量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、Uffizi は英単語officeの語源
	でもある。
	メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。展示物は2,500点にのぼり、古代ギ
	リシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロら,イタリアルネサンスの巨匠の絵画
	を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。
	美術館の建物は、ドーリア式の回廊の上に2階、3階部分が建設されたルネッサンス様式の建築物で、全体としては巨大なU字型をしている。

	初代トスカーナ大公コジモ1世の治世下、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に竣工したフィレンツェの行政機関の
	事務所がもとになっている。コジモ1世が当時あちこちに分かれていたフィレンツェの官庁をひとつの建物に収めさせたもので、建設時に
	は周辺の一区画をすべて取り壊して建築が行われた。「ウフィツィ」の名はイタリア語の Ufficio (英語の offices (オフィス) にあた
	る語)に由来する。

	アルノ川に面した川沿いの砂地に建築されており、基底部分は世界最初のコンクリート工法とも言われている。なお、コジモ1世とヴァザ
	ーリはともに1574年に没しており、建物の完成はコジモ1世の跡を継いだフランチェスコ1世と建築家ベルナルド・ブオンタレンティ
	(1536-1608)に引き継がれた。
	コジモ1世は住まいであったピッティ宮殿から、ベッキオ橋の2階部分を通り、毎日通う庁舎(現・ウフィツィ美術館)へ至る約1kmの通路
	(ヴァザーリの回廊)も造らせた。これもヴァザーリの設計で、1565年に半年足らずの工期で完成した。回廊の中には700点を超える絵画
	があり、中でも肖像画コレクションは有名であるが、ウフィツィ美術館本館とは別の扱いとなっており、見学にも別の予約が必要となる。
	フランチェスコ1世は、1579年から1581年にかけて庁舎3階の廊下天井にグロテスク模様の装飾を施し、この頃からこの庁舎でメディチ家
	の持つ古代彫刻などの美術品を収容、展示するようになった。同じ頃、3階には美術品を飾る八角形の部屋「トリブーナ」を増築させ、ベ
	ルナルド・ブオンタレンティがモザイクや真珠貝象嵌によるこの部屋の装飾を担当した。その後1591年から3階部分を公開したのが美術館
	の始まりで、これらは建築当初からコジモ1世の構想にあったといわれる。

	1737年、メディチ家出身の最後のトスカーナ大公であるジャン・ガストーネが後継者を残さず死去し、メディチ家は断絶した。メディチ
	の血を引く唯一の相続人であったアンナ・マリア・ルイーザは、「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開さ
	れること」を条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈した。
	ウフィツィ美術館は1769年、ハプスブルク=ロートリンゲン家のレオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の時代に一般に公
	開されるようになった。彼は古代学者ルイジ・ランディを顧問としてコレクションの分類整理に着手し、それまで収蔵されていたマジョ
	ルカ陶器、武具類、科学部門のコレクションを他の博物館へ移管したり、売却したりした。19世紀後半には、ロマネスク以降の彫刻がフ
	ィレンツェ市内の国立バルジェロ美術館へ、エトルリアなどの考古遺物がフィレンツェ考古学博物館へ、それぞれ移管され、ウフィツィ
	美術館は絵画館としての性格を強めていく。この間にも絵画のコレクションは強化されていった。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ
	の著名な「受胎告知」は、1865年に受贈したフェローニ・コレクションにあったものである。

	1993年5月27日、美術館近くで自動車爆弾による爆発があり、通行人ら5人が死亡、50人以上が重軽傷を負った。建物の一部も壊れ、一部
	の美術品や資料も被害を受けた。



朝早くなので見学客は多くはあるまいと思っていたら、あに図らんや長蛇の列。



上右のオバサン二人は姉妹で、どちらかの娘がイタリア人と結婚してフィレンツェに住むので結婚式に来たと言っていた。我々の前に並んでいた。



落書きも世界共通ですな。



三階の窓から写した回廊下の広場。正面にヴェッキオ宮殿の塔が見えている。ここが唯一写真撮影のできる場所。



	
	ウフィツィ美術館の主な収蔵品	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
	
	2階と3階が美術館になっており、2階はデッサンと版画作品を中心に展示、3階は主に油絵作品を展示している。2004年現在45の展示室を
	持ち、それ以外にも廊下部分にさまざまな彫刻の展示がされている。また、2007年までに展示スペースを約二倍にする改修作業が行われ
	た。 2008年、日本人版画家として始めて浜田知明の代表作「初年兵哀歌」などの銅版画19点が展示、収蔵された。
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	東方三博士の礼拝(1475年頃、サンドロ・ボッティチェッリ)
	プリマヴェーラ(1477年-1478年頃、サンドロ・ボッティチェッリ)
	サン・マルコ祭壇画(1483年、サンドロ・ボッティチェッリ)
	ヴィーナスの誕生(1485年頃、サンドロ・ボッティチェッリ)
 
	マニフィカトの聖母(1483-85年、サンドロ・ボッティチェッリ)
	ザクロの聖母(1487年、サンドロ・ボッティチェッリ)
	東方三賢王の礼拝(1504年、アルブレヒト・デューラー)
	東方三博士の礼拝(1423年、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ)
 
	ウルビーノ公夫妻の肖像<対画肖像作品>(1472-74年頃、ピエロ・デラ・フランチェスカ)
	アダムとイブ(1528年ルーカス・クラナッハ)
	ウルビーノのヴィーナス(1538年、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)
	受胎告知(1475-80年レオナルド・ダ・ヴィンチ)
 
	サンタ・トリニタの聖母(1285年頃)チマブーエ 
	オニサンティの聖母(1310年 - 1311年頃)ジョット・ディ・ボンドーネ 
	受胎告知(1450年頃)アレッソ・バルドヴィネッティ 
	聖母子と二天使(1457年頃)フィリッポ・リッピ 
	聖母子(1460年頃)アレッソ・バルドヴィネッティ 
	キリストの洗礼(1468年) アンドレア・ヴェロッキオ - 
				 レオナルド・ダ・ヴィンチが天使を書き、ヴェロッキオが断筆を決意した絵として有名 
	妻の肖像(1468年頃)ヤン・ファン・アイク 
	メダルを持つ若者の肖像(1475年)サンドロ・ボッティチェッリ 
	婦人の肖像(1475年頃)アントニオ・ポライウォーロ 
	東方三博士の礼拝(1481年 未完)レオナルド・ダ・ヴィンチ 
	受胎告知(1490年頃)サンドロ・ボッティチェッリ 
	ヒワの聖母(1505年 - 1506年)ラファエロ・サンティ 
	教皇レオ10世(1517年 - 1518年頃)ラファエロ・サンティ 
	ルターの肖像(1529年)ルーカス・クラナッハ 
	若きバッカス(1589年)カラヴァッジョ 
	イサクの犠牲(1590年)カラヴァッジョ 
	初年兵哀歌シリーズ(1951年−1954年)浜田知明 
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中は撮影禁止だったので、帰国後買い求めた美術年鑑から、見学した絵画をSCANした。いずれも教科書で見た絵ばかりだ。



	
	ルネッサンスと言えば、それまでの抑圧された環境から文化・文明が自由を取り戻した、言わば「再生」としての芸術学上の一大革命
	であると我々は教わった。たしかにボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』や『プリマヴェーラ』、ダビンチの数々の作品などは、
	大いに「再生」を感じさせる、自由で異教的、官能的なテーマの絵画であり、恋愛讃歌の時代を切りひらいたように思える。

	しかしながら、初期ルネッサンス時期の絵画作品の90%は宗教絵画である。その殆どがキリストやマリアを主題にしたキリスト教美
	術と言ってもいいだろう。受胎告知、キリストの受難、聖母讃歌、東方三博士の巡礼など、お馴染みのテーマで描かれた絵が、これで
	もかこれでもかと並んでいる。
	一枚一枚の絵は確かにすばらしいし、じっと見ていると、何処か深遠な所へ運ばれてゆく魂の動きのようなものも感じるのだが、しか
	しこうも立て続けに見せられると、いささか辟易するのもまた事実である。どうしてここまで同じテーマの絵ばかりを描くのか。
	勿論、当時の画家のパトロンは教会や信仰心篤き大富豪達なので、その注文に応じたという側面もあるのだろう。だが、神と人間との
	関わりおいて、我々東洋人にはとうてい推し量れない「原罪」のようなものが、ルネッサンスと言えども、西欧人達の心の奥底には横
	たわっているのだろうという気がする。



	

	ヴィーナスの誕生	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	 ヴィーナスの誕生 イタリア語: La Nascita di Venere 
 	 作者 サンドロ・ボッティチェリ 
	 制作年 1483年頃 
	 素材 キャンバスにテンペラ 
	 寸法 172.5 cm × 278.5 cm (67.9 in × 109.6 in) 
	 所蔵 ウフィッツィ美術館(フィレンツェ) 

	『ヴィーナスの誕生』 (伊: La Nascita di Venere,英: The Birth of Venus) として知られるこの絵画は、ルネッサンス期のイタリ
	アの画家サンドロ・ボッティチェリの作品で、キャンバス地に描かれたテンペラ画である。縦 172.5cm、幅 278.5cm の大作で、現在、
	フィレンツェのウフィッツィ美術館が所蔵し、展示している。この絵は、ギリシア神話で語られている通り、女神ヴィーナスが、成熟
	した大人の女性として、海より誕生し出現した様を描いている。

	この大作は、1483年頃かそれ以前に、『春の寓意』同様、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(en:Lorenzo di Pierfrancesco de
	' Medici)の別荘カステッロ邸(Villa di Castello)を飾るために描かれたと考えられている。幾人かの研究家は、ディ・ピエルフラン
	チェスコの依頼で描かれ、ジョルジョ・ヴァザーリが言及している絵画は、ウフィッツィ美術館にある絵ではなく、失われてしまった
	別の絵画であったろうと推測している。また幾人かの専門家は、この絵は、ジュリアーノ・デ・メディチ(1478年にパッツィ家の陰謀
	で暗殺された)の愛人シモネッタ・ヴェスプッチに対する愛を祝福する目的で描かれたと信じている。美女ヴェスプッチは、地元の伝
	統ではヴィーナスの誕生地だとされる海辺の町ポルトヴェーネレに住んでいた。
	何がボッティチェリにインスピレーションを与えたかはともかく、この絵は、詩人ポリツィアーノの『詩篇』において、また同じく詩
	人のオウィディウスによる『変身物語 』や『祝祭暦 (Fasti) 』に見られる描写と明らかな類似性を持っている。
	
	古典的な女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻のうえに立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せ
	られている。季節の女神であるホーラたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出している。ヴィーナスのポーズは、当時発見
	された「恥じらいのヴィーナス(:en:Venus Pudica)」タイプの古代彫刻から得たものである。
	この絵画効果は、ローマ・カトリック教会の宗教的主題に従って、大部分の絵画が描かれていた当時の時代と場所を考え合わすと、紛
	れもなく異教的である。ボッティチェリの多数の「異教的」作品が焼き尽くされた、サヴォナローラの異教撲滅の「虚栄の焼却」の炎
	を、このカンバス画が逃れえたということは驚きである。ボッティチェリはロレンツォ・デ・メディチと大変親しい間柄にあり、友情
	とメディチの権力のおかげで、『ヴィーナスの誕生』はサヴォナローラの焚火や教会勢力の非難から守られたのである。
	ヴィーナスの体や細かい補助効果は、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの作品に見られる厳格な古典的リアリズムとは一線を画
	している。それが最も顕著なのは、ヴィーナスの首は現実にはあり得ないほど長く、左肩の傾きは解剖学的にあり得ない角度をしてい
	る点である。そういった描写はただ絵画において美を強調するためだけであり、後の様式であるマニエリスムに通じるものがある。
	キプロス共和国南部に本作品のモデルとされている場所が実在する。本作品に見られる海岸線の描写については、実際の海岸線との類
	似性が見受けられる。


	子供の頃、この絵を家の百科事典で見て、裸の女性の持つエロティシズムに興奮した覚えがある。鮮やかな色彩の醸し出す雰囲気に、
	それこそ自由で明るい絵画という印象を持っていた。しかし今回本物を見て、ヴィーナスの顔が必ずしも喜びに満ちておらず、誕生の
	喜びよりもむしろ、この世に生まれ出たやるせなさとか切なさを漂わせているように感じた。「嫌だ、嫌だ」と鳴きじゃくったあげく、
	とうとうこの世に誕生させられたような顔をしているし、目の焦点もどこか空を見ていて合っていない。ウィキペディアの解説にある
	ように、このヴィーナスのモデルが、ほんとに愛人「シモネッタ・ヴェスプッチ」だったとすれば理解できる。この、ヴィーナスの憂
	いに満ちた表情は、「シモネッタ・ヴェスプッチ」のものだったのかもしれないのだ。
	それにしても、愛人の名前が「下ネタ」とは、できすぎている。








	プリマヴェーラまたは「春」。女神達がみんな薄衣をまとっている。殆どセミヌードである。
	一番右端の空中に浮かんでいる青白い男が、西風の神「ゼフィロス」で、ゼフィロスが春風を吹き付けているのが大地の女神ニンフ。
	ニンフは西風ゼフィロスにつかまれるのを振り払って、逃げようとしている。ニンフの左は花の女神フローラ。フローラはニンフが変
	身した姿で、全身花におおわれている。フローラの横、一段と高いところに立って超然としているように見えるのが、愛と美の女神ヴ
	ィーナス、アフロディーテである。その左には三人の女神が踊っているように手を組んでいる。これは、三美神といってそれまでもし
	ばしば描かれていたテーマ。画面左端の男性は戦いの神マーキュリーだが、彼がなぜここに描かれているのか、何をしているのか、諸
	説紛紛ではっきりした解釈がないという。フィレンツェ・ルネサンスの最盛期の作品である。
	プリマヴェーラは、近年の修復の結果、オリジナルの華麗な色彩がよみがえり、従来、煤(すす)に覆われてはっきり見えなかった多
	くの草花が、ヴィーナスの立つ地面に描き込まれているのが見えるようになった。研究者によると、これらの草花のほとんどは、今で
	もトスカーナ地方に自生しているという。








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1階出口部分には美術館の書店があり、もちろんどこよりもウフィッツィ美術館に関しては品揃えが豊富だが、日本語版は殆どない。



	
	ここは、イタリア美術史に燦然と輝く名画が勢揃いする美術館で、超有名なところ。展示は古代彫刻と13〜18世紀の絵画作品から成り、
	レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ボッティチェッリなどの作品がずらりと並んでいる。建物自体の歴史も古く、着工は1560年。
	メジィチ家のコジモ1世より依頼を受けた建築家のヴァザーリが担当した。その後、コジモ1世の息子フランチェスコ1世の代から、
	メジィチ家が集めた美術作品をここに収蔵することになった。当主が代わるたびにコレクションは増え続け、メジィチ家以外の収集し
	た美術品も加わり、1765年から一般公開された。日本では江戸時代中期後半にあたり、後桜町天皇、徳川家治将軍の時代である。直前
	にイギリスで産業革命が起こり、数年後に田沼意次が老中に就任する。

	なお、この美術館のあるフィレンツェの歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている。