イタリア	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(以下、写真地図等全てウィキペディア提供)

	この項目では、1946年に成立した共和国について記述しています。19世紀に存在した共和国など他のイタリアについては「イタリア
	 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

	<イタリア共和国>	正式名称は、Repubblica Italiana (イタリア語: レプッブリカ・イタリャーナ)。公式の英語表記は、
	Italian Republic(イタリャン・リパブリク)。通称は、Italia、Italy(イタリ)。日本語の表記は、イタリア共和国。通称はイタ
	リアであるが、イタリヤと表記されることもある。年配者は、イタリーという場合もある。また、漢字による当て字で、伊太利亜、
	伊太利などと表記することもあり、伊と略されることが比較的多い。

	イタリア半島およびその付け根に当たる部分と、地中海に浮かぶ2つの大きな島(サルデーニャ島、シチリア島)からなる。北にあ
	るアルプス山脈において、フランス、スイス、オーストリア、スロベニアとも国境を接する。またサンマリノ、バチカンの領土を取
	り囲んでいる。首都はローマ。
	イタリアという名の由来に定説はない。確かなことは、イタリアという単語は元々、半島の南端部の狭い地域の名だったというこ
	とである。由来についての有力な説は、古ラテン語の vitulus (ウィトゥルス、雄の子牛)から転じたものである。

	公用語	イタリア語 : 南ティロルではドイツ語とラディン語、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリアではスロヴェニア語、ヴァッレ・
			   ダオスタではフランス語)
	首都 	ローマ 
	面積 	総計 301,230km2(69位) 
	水面積率 2.4% 
	人口 	総計(2008年) 59,870,000人(23位) 
	人口密度 193人/km2 
	GDP(自国通貨表示) 	合計(2008年) 1兆5,722億[1]ユーロ (?) 2,3 
	GDP(MER) 		合計(2008年) 2兆3,138億[1]ドル(7位) 
	GDP(PPP) 		合計(2008年) 1兆8,145億[1]ドル(10位) 1人当り 30,580ドル 
	イタリア統一 1861年3月17日 
	通貨 ユーロ (?) 2,3(EUR) : 1999年以前の通貨は、イタリア・リラ


イタリア上空からの衛星画像(白丸は2009年9月、小生が訪れた主な場所)

	イタリアは地中海に突き出した長靴型イタリア半島、および周辺の島(サルデーニャ島、シチリア島、コルシカ島はフランス領)から
	構成されている。東はアドリア海、西でティレニア海とリグリア海、南でイオニア海と地中海に面している。国境を接する国としては、
	大陸部では西側をフランス、北側をスイスとオーストリア、東側をスロヴェニア。アドリア海を挟んで、クロアチア、アルバニア、ギ
	リシアなどとも地理、歴史的に結びつきが強い。
	キリスト教・カトリック教会の治めるバチカン市国があるが、これはイタリアの首都ローマが周囲を囲んでいる。他にもアドリア海近
	くのサンマリノ共和国を包み込むように接する。さらに、スイス領内には飛び地として面積1.7km2ほどのカンピョーネ・ディターリア
	を持つ。
	領土内北部ではアルプス山脈が東西に弧を描き、国境を成している。国境にはマッターホルンや、モンテローザ、モンブランのような
	高峰があり、イタリアの最高点はフランスとの国境線上のモンブラン頂上付近にある。アルプスは北西部で分岐し、イタリア半島を縦
	断するアペニン山脈を形成する。アペニン山脈はイタリア半島の気候をアドリア海側とティレニア海側とで非常に異なったものにする
	役割を果たしている。特にアドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつ
	ける。
	また火山国でもあり、とくに南部ではしばしば地震が起こる。エトナ山、ヴェスーヴィオ山等が有名で、エトナ山はヨーロッパ最大の
	活火山であり、ほとんど常に噴火している。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とは見なされておらず数千人
	が斜面と麓に居住している。イタリアには多くの川があるが、ポー川、アディジェ川、テヴェレ川が上位三位の長さを持つ。テヴェレ
	川はアルノ川源流近くに源を発し、ローマ市内を抜けて流れることで有名である。


ローマ帝政期に造られた円形闘技場、コロッセオ。(写真は無修正。イタリアの夜は、全くこのままの空の色をしている。)

	ジュゼッペ・ガリバルディギリシア時代より都市国家が成立。なお、伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家
	による都市連合の王政を築いていた。
	伝承に、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制開始。サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前
	290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。
	フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を
	握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、395年に東西ローマ帝国が分裂し、イタリアが所属する西ローマ帝
	国は476年に滅びる。西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルはイタリア王となり、これが国号としてのイタリアの走りとなった。

	その後は、東ゴート王国が一時支配したが、ローマ帝国の後継を主張する神聖ローマ皇帝、ローマ教皇、東ローマ皇帝によって分割さ
	れた。イタリアの統一を試みる者もいたが、教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレ
	オン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年、彼が失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状
	態に戻った。
	1861年2月、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一に成功し、イタリア王国を建国する。1922年に、ローマ進軍によ
	りベニート・ムッソリーニが首相となる。その後ムッソリーニの指導の下日本やドイツとともに枢軸国の一員として第二次世界大戦に
	参戦するものの、1943年には敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦する。しかし同時に、逃亡したムッソリーニを
	首班としたドイツの傀儡政権であるサロ政権が北イタリアを支配する状況になる。
	大戦終結後に行なわれた共和制移行を問う国民投票の結果を受け、1946年にウンベルト2世が退位し、サヴォイア家による王政が廃止
	され、イタリア共和国となった。1948年、初代大統領にエンリコ・デ・ニコラが就任。その後の冷戦では、社会主義勢力の影響を受け
	ながらも西側諸国の1国として東側諸国と対峙した。主要国首脳会議の参加国であり、政治や経済だけでなく、文化的な側面において
	も世界的に重要な位置を占める。





さぁそれでは、我々の「南イタリア・世界遺産の旅」、ごゆっくりとご覧下さい。