2009.9.24 コロッセオ(円形格闘場)




	
	Colloseum コロッセウム/コロッセオ	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	コロッセオ (イタリア語:Colosseo) は、古代ローマ時代の建造物。ローマ帝政期に造られた円形闘技場で現在ではローマを代表する
	観光地になっている。
	コロッセオはラテン語でコロッセウム (Colosseum) と言い、観光ではイタリア語の「コロッセオ」、歴史ではラテン語の「コロッセ
	ウム」を使うが同じ物を指す。また、英語で競技場を指すcolosseumや、コロシアムの語源ともなっている。
	コロッセオはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設された。人工池は水を抜けばすでに掘り下げ
	られていたので基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の75年に始まり、ティトゥス治世の80年から
	使用されるようになった。使用開始に当たっては、100日間に渡りイベントが続けられ、数百人の剣闘士が闘い命を落としている。
	なお、完成したのはドミティアヌスの治世中である。
	コロッセオの横には噴水が作られ、それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」と云われ、闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと
	伝えられている。
	フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス闘技場」が本来の名前である。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)
	が傍らに立っていたためコロッセウムと呼ばれるようになったといわれている。1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市と
	なってしまったがコロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけている。



地下鉄「コロッセオ駅」から地上へでると、目の前がコロッセオである。いきなりデカい石造りの建造物が目に飛び込んでくる。





	
	パラティーノの丘。かって古代には様々な役所や貴族達の邸宅があった。昔からローマには建物がひしめいていたのだ。紀元前から現
	代まで、ローマは変わることなくイタリアの、またある時期には世界の首都であった。京都などたかだか千年に過ぎないし、中国に至
	っては点々と首都が移動している。ここに立つと、同じ歴史といっても「格が違う」という気持ちになる。街中が遺跡だらけのエリア
	なのである。







	
	コンスタンティヌスの凱旋門	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	コンスタンティヌスの凱旋門コンスタンティヌスの凱旋門(Arco di Costantino)は、イタリアのローマにある古代ローマ時代の凱旋
	門。コロッセオとパラティーノの丘の間に位置している。当時、西の副帝であったコンスタンティヌスが、正帝マクセンティウス帝に
	勝利し、西ローマの唯一の皇帝となった事を記念して建てられたものである。フランスのパリに建設されたエトワール凱旋門のモデル
	にもなっている。

	後にローマ帝国唯一の皇帝となるコンスタンティヌスは、当時西ローマの副帝の地位にあったが、サクサ・ルブラで正帝マクセンティ
	ウスの軍団を撃破し、312年10月28日に、ムルウィウス(現ミルヴィオ)においてマクセンティウスを河畔に追いつめ、溺死させるこ
	とに成功した。コンスタンティヌスはローマに入城すると、フォルム・ロマヌム(現フォロ・ロマーノ)のロストラに立って凱旋演説
	を行い、フォルム・ユリウム(現フォロ・ジュリアーノ)にて市民に賜金を施した。コンスタンティヌスの凱旋門は、このコンスタン
	ティヌス帝の在位10年目にあたる312年の勝利を記念して造られたものである。奉献式典は315年に行われた。
	ただし、この凱旋門には、コンスタンティヌスの時代から遡ること200年前の建築物の装飾が用いられているため、近年、この凱旋門は
	実は2世紀頃に建設されたものであり、コンスタンティヌスはこれを改変しただけであるとする説も提唱されている。
	1960年のローマオリンピックでは、マラソン競技のゴール地点に選ばれた。

	高さ21m、幅25.7m、奥行き約7.4m。3つの門を有し、中央の門が高さ約11m、幅約6.5m、左右の門が高さ約7m、幅3mであり、ローマにあ
	る凱旋門では最大である。構成は、フォルム・ロマヌムにあるセプティミウス・セウェルスの凱旋門のものを踏襲している。

	基礎と下部構造は石灰華、最上部は煉瓦(外装は大理石)、円柱は黄色大理石、それ以外は白大理石から構成される。装飾は古い建築
	物からの転用材で、南北面の円形浮き彫りはハドリアヌス帝の時代の建築物から、最上層(アティック)の8枚のパネルは176年に建設
	されたマルクス・アウレリウス・アントニヌスの凱旋門からはぎ取られたものである。やはり最上層にある8体の彫像と南北面のパネル、
	中央の門の両側にあるパネルは、トラヤヌス帝が建設したトラヤヌスのフォルムからの転用材である。8本の黄色大理石の円柱も、由来
	不明だが、どこかの建物からもたらされたものと考えられている。これら以外の彫刻は、コンスタンティヌスの時代のものである。







日本の時代村のように、扮装した役者崩れのような連中が、絡みを求めて観光客にすり寄ってくる。





扮装を借りてさんざん遊んだ後、「お志を」と手を出してくる。なるほどタダで奉仕しているわけでは無かったんだ。ま、旅の座興だね。





	
	長径188m短径156mの楕円形で高さは48mで45,000人を収容出来た。また、天井部分は開放されているが、日除け用に布を張る設備があっ
	た。皇帝席には一日中直射日光が当たらないように設計されており、また一般の観客席についても一日に20分以上日光が当たらないよ
	うに工夫がなされていた。















コロッセウムの外、東の部分に地面から突き出した数本の石柱は、コロッセウムに屋根を張る際の支えでもともとは外周全部にあった。









	
	コロッセウム(他、コロシウム、コロッセオ)の通称で知られる「フラウィウス闘技場」は、後一世紀、ネロ帝の宮殿ドムス・アウレ
	ア跡地に建てられた、剣闘士競技や闘獣競技用の闘技場である。コロッセウムの名は後八世紀の記録に最初に現れ、近くにあった元ネ
	ロ帝の巨像(colossus)にちなむものであった。





	
	ウェスパシアヌス帝が70年に建築を始め、三階までを完成させて、79年に落成式を祝った。しかし、これは皇帝の死期が迫っていたた
	め、式典だけ先におこなったものらしく、競技に関する記録はない。競技を伴う真の落成式は、翌年80年にウェスパシアヌスの息子テ
	ィトゥス帝が、最上階の部分を完成させてから祝ったものである。その際には、5000頭もの猛獣が殺され、剣闘士競技、模擬海戦もお
	こなわれたという。ドミティアヌス帝もまたいくらか手を加えたらしい。





	
	外壁部の高さは約50メートル、楕円形の直径は広い部分で188メートル、狭い部分で156メートルある。ローマ世界で最も大きな円形闘
	技場である。外壁はトラヴェルティーノで造られており(しかし、現存しているのは外周の約五分の二のみ)、四つの階が積み重ねら
	れている。そして、それぞれが異なったスタイルの半円柱で装飾されており、一階はトゥスキア式、二階はイオニア式、三・四階はコ
	リント式となっている。一階外周部には80のアーケードが設けられており、そこから階段を上って各階の観客席に向かうことができる。







		
	舞台の地下にはショーに必要な仕掛けや、猛獣、武器などが置かれていた。そして、通路で、隣にあるマグヌスの剣闘士養成場Ludus 
	Magnusにつながっている。舞台は木板で造られていたらしい。観客席部分は五階に分けられており、下からの四階がレンガのベンチか
	らなるのに対し、最上階部分は木のベンチでできていた。席は、舞台に最も近い部分が元老院議員階級、それに続く14段が騎士階級、
	というように舞台から近い順に社会階層ごとの席が決まっていたが、最上段の木製ベンチ席は社会階層ではなく、女性という性別カテ
	ゴリーの指定席だった。奴隷や貧民もこの最上段席に詰め込まれたという説もある。コロッセウムの観客収容能力に関しては議論の決
	着がついていないが、50,000人から80,000人程度とされる。





	
	現在では地下にあった施設がむき出しになっている。初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演するこ
	とさえ可能だった。が、後には「迫」のような複雑な舞台装置を設置したためにそのような水を使った大規模演出は不可能となった。
	また、人力エレベーターの存在もありこれは剣闘の選手の入場のために用意されていた。現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っ
	ている。





	
	中世を通じてコロッセオに使用されている建材は他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたわけである。その大
	理石はサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここ
	で殉教したと伝えられていた為、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な根拠はない。
	ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。





	
	コロセウムはローマ皇帝ウェスパシアヌスによって着工され、後80年に息子で後継者の皇帝ティトゥスによって完成された。上部構造
	はもともと木造であったが、223年以後石造に改築。このローマの作例がやがてローマ帝国内の主要都市にひろまっていく。4世紀の史
	料によると、ローマのコロセウムには8万7000人分の客席があったとされるが、現代の考古学者はおよそ5万人の収容能力しかなかった
	と推定している。ポッツォリ、カプア、ベローナ、タラゴーナにあるコロセウムはみなほとんど同じ大きさである。









	
	コロセウム(70〜80)は古代ローマ時代の円形闘技場で、ウェスパシアヌス帝によってたてられた。多層に重なったアーチ構造がとくに
	有名である。かつてネロ帝の巨像(コロスス)が近くにあったためにコロセウムとよばれているが、正式名称は「フラウィウス朝の円形
	闘技場」である。闘技場では、ライオンとキリスト教徒の格闘のほか、さまざまな見世物がくり広げられた。









	
	入り口の上部には番号がふってあり、観客のチケットにはこの番号が記されていた。しかし、楕円の軸線に当たる四つの入り口には番
	号がふられておらず、特に北側の入り口(現存するのはこれだけ)は、装飾の豪華さから、皇帝のためのものであったと考えられてい
	る。





	
	外壁部で古代のものが残っているのは、北側の五分の二であることは既に述べたが、残りの部分は1820年に、教皇ピウス七世の命令で、
	建築家のヴァラディエが修復したものである。外壁に飾られた碑文は、これを記念している。壁面の各所に穴が開いているのが見られ
	るが、これは中世に鉄のボルトを取り出そうとした時のものである。






階上へ登る





	
	現在では地下にあった施設がむき出しになっている。初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演するこ
	とさえ可能だった。が、後には「迫」のような複雑な舞台装置を設置したためにそのような水を使った大規模演出は不可能となった。
	また、人力エレベーターの存在もありこれは剣闘の選手の入場のために用意されていた。現在ではその巻き上げを行った柱の跡が残っ
	ている。









	
	アリーナは、現在は地下部分が丸見えとなっているが、古代ローマ全盛期には木材で床が張られていて、剣闘士などの催し物が連日行
	われていた。戦車戦は理解できるが、水を張って船を浮かべたという記録もあるという。

















	
	ローマ歴史地区のコロセウムは、ローマ帝国時代に建設された多くの競技場でも最大規模のもの。当時のローマ市街の復元想像図に
	よれば、当時のコロセウムは今よりも高いところまで客席が備わり、しかも近接して多くの重要な大型建築が密集していた。
	アカデミー賞受賞映画「グラディエーター」は、5賢帝の頃のローマをCGで再現しているが、コロッセオやフォロ・ロマーノはか
	なり見応えがある。



	
	コロセウムにはギリシャの劇場建築から発展したものであるから、原型はローマ帝国成立以前からあった。しかし大きく異なるのは、
	ギリシャのものが半円形であるのに対し、ローマのものは円形(楕円形)になってる点である。円形闘技場、といったスタイルの施
	設については、古代ローマ文明だけで見られる。古代ギリシアにも無かったし、メソアメリカの古代文明にある球技場も、宗教的意
	味合いが強い上に形式が全然違う。



	
	当時のローマの都市には必ずこの劇場が存在していたという話は有名だが、現存するのは数ケ所である。コロッセウムの内部には、
	現在観客席はほとんど残っておらず、舞台に当たる部分も床が完全になくなってしまっている。コロッセウムは六世紀、テオデリッ
	ク王の時代には、少なくとも部分的にはまだ使用されていたことが知られる。しかし、その直後ぐらいから建材が取崩されるように
	なる。残った部分は住居などに使われていた。



	
	かつて多くの殺人(公開処刑を含む)が行われた場所であることから、現在では死刑廃止のイベントのために使用されている。例え
	ば、11月30日の「死刑に反対する都市( Cities for Life)」の日、あるいは、新たに死刑を廃止した国が出たときには、その記念
	としてコロッセオがライトアップされる。2007年 1月には、イラクのサッダーム・フセイン元大統領の処刑に抗議するために点灯さ
	れた。