2009年秋 南イタリア紀行(7) 9.23



ナポリ湾からローマへ




「明けてきて(上) 明けてしまった(下) ナポリ湾」 と、あ、こりゃこりゃ。








	9月23日(火)

	昨夜のガーデンで Breakfast。今朝は小柄な中年のおばさんが給仕してくれる。宿泊料に朝食代は含まれているので、今朝は大勢
	の宿泊客がいる。イタリアではどこでも、朝食は実に豊富なメニューである。ロンドンの朝飯とは大違い。
	沢山の果物、ヨーグルト、幾種類ものバターにマーマレード、コーヒー、紅茶、ジュース、ミルクに、ハムやチーズは5,6種類
	ある。勿論全部食べてもいいし、パンも5,6種類もある。1時間近く掛けてゆっくり朝食を取る。







柔らかい南国の日差しが注ぎ始める。やがて燦々と降り注いで来るのだろう。






	今日と明日はいよいよローマだ。そこで今回の旅も終わりである。今日はナポリにある「国立考古博物館」に寄っていこうか、そ
	れとも即ローマへ行って、ローマを存分に見てやろうかと悩んだが、案内に「国立考古博物館」は火曜が休みとあったので、ロ−
	マへ向かう事にした。ポンペイの遺物を見たかったが残念。ポンペイの街の博物館も見れず、今回の旅の目的は半分も果たせなか
	った。それもこれもwifeとの喧嘩のせいだ。



道路の際にフロアがあるので、これで5階建てである。この最上階(4F)の向こう側が我々の部屋だった。






	wifeはドライブ目的も兼ねて旅行しているので、高速よりも地道を走りたがる。時間的にゆとりもあるので、それはそれでいいの
	だが、地道は往々にして地図(ナビ)通りにはなっていない。至る所で工事をしているし、新しいサークルが出来ていたりして、
	時々ナビも間違う。それに wifeは、街のスーパーやMD(Discount shop)や市場へ行きたいのだ。訳の分からない小さな街で留
	めて買い物をする。男の目から(少なくとも私の目から)見たら、どうしてこうも食い物や日用品のshoppingが楽しいのか、どう
	しても理解できない。ハムやソーセージを選ぶのに、何故あんなに時間を掛けるのか全く理解に苦しむ。パッと取ってカゴに入れ
	ればいいじゃないかと思うのだが、幾つも手に取ってみて、標記を見たり品質表示を見たりと、一つのハムを買うのに5,6分か
	かるのである。アホらしいので、何回かは車で待っていた。日本でやっている事をイタリアでもやっている。
	そんなこんなで道中口論が絶えない。











好きなだけハムやチーズ、ソーセージなどが食べられる。




	昨日は特にひどかった。私はポンペイが今回の一番の目的だと言っているのに、地道を行き、あっちの街こっちの街に寄るのであ
	る。おまけに何度も道を間違え、同じ道を引き返したり、大幅な回り道をしたりするので、「何か俺をポンペイに行かせたくない
	訳でもあるのか!」と怒鳴ったのである。それもあって、昨日のポンペイ見学は全く楽しくなかった。勿論、遺跡そのものには感
	激しその歴史には感動したが、心は晴れ晴れではなかった。おまけにポンペイ遺跡は広いので、暗い気持ちで延々と歩き回るのに
	疲もれ、もう博物館に立ち寄る元気も無かったのが正直な所である。wifeの機嫌が直ったのは、昨夜のSunset Dinnerの後である。



ウ”ェスビィオス火山。これが爆発したら、このあたりも火山灰が降ったんだろうねぇ。溶岩も飛んできたに違いない。



上の写真の道路を真っ直ぐ(上方へ)行けば、ソレントからアマルフィ海岸方面へ。






	さて、今日はローマを目指す。高速に乗ってぶっ飛ばせば、ナポリを経て3,4時間なので午後と明日いっぱいローマを楽しめる。
	唯一の心配事はレンタカーの返却である。交換した車もナンバ−プレートはテープで留めているし、どこで付いたか横腹に大きく
	二本の線でキズが付いている。その前の事故の報告も、どこにもしていない。返却には相当時間をくうのではなかろうか。しかし、
	色々考えても仕方ないのでとり合えずローマを目指す。全ての道はローマへ続く。

	ところが、今日も又、地道を行くと言う。逆らってもまた喧嘩になるので、もう黙っておく。それに今日は車をかえす日なので、
	wifeにとってもイタリア最後のドライブになるのだ。武士の情け、辛抱することにした。
	ナポリ対岸の、我々が泊まったホテルのある半島をぐるっと廻って、アマルフィやソレントを通って行くと言う。もうええわ。



アマルフィ海岸へ











	しかしこの光景には驚いた。確かに、南国の太陽は燦々と降り注ぎ、地中海の風が車窓から心地よいのだが、しかし、この、山の
	斜面を切り崩して上へ上へとどこまでも建物を継ぎ足していったような所が、どうして「世界屈指の保養地」なのだ。
	別荘にホテル、B&B、民家などが、山の斜面をへばりつくようにして埋め尽くしている。おまけに道路は、曲がりくねった山肌
	に沿って、崖を切り崩して作ってあるので狭く、そこにホテル客や観光客が延々と隙間無く駐車しているものだから、離合も出来
	ない。






	対向車線ギリギリの狭さになっていて、バス同士が離合するときなどは、曲がりきるまで延々と渋滞する。「よくまぁ、こんなと
	ころを・・」と思うような場所で、観光客を乗せた大型バス同士が離合するのだ。全く呆れる。駐車もぎっしり隙間無く停めてあ
	って、30cmほどの隙間があると、例外なくバイクが横向きに突っ込んである。これが何と数十kmに渡って海岸線を巡ってい
	るのである。










	しかしホントに陽の光は素晴らしい。イタリア南部の陽の光が燦々と降り注ぐ青いマドレア海とそこに浮かぶヨットやクルーザー。
	まるで「太陽がいっぱい」のような、映画を見ているような光景だった。









	
	アマルフィ(Amalfi)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	国  イタリア 
	州  カンパニア州 
	県  サレルノ 
	標高 海抜 6 m 
	面積 6 km2 
	人口 5,480 2004年12月31日  
	人口密度 904 人/km2 
	分離集落 Lone, Pastena, Vettica, Pogerola, Tovere 
	隣接コムーネ アジェーロラ (NA)、 アトラーニ、 コンカ・デイ・マリーニ、 フローレ、 スカーラ 
	守護聖人 使徒聖アンドレーア (Sant'Andrea Apostolo) 
	祝祭日 11月30日 
 
	アマルフィ (Amalfi) は、イタリア共和国カンパニア州のコムーネ(都市)である。人口5,480人。ソレント半島の南東、サレルノ湾
	に面するアマルフィ海岸の中心地であり、観光の拠点である。 周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、小湾の奥に位置する小規模な浜に作
	られた港から、断崖上に向かって形成されている街である。アマルフィ海岸は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

	その起源は古代ローマ時代にまで遡る。海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。839年、
	ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となり、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていった。872年に
	はサン・サルヴァトーレ島を守っていたイスラーム軍を海戦で撃破、この功績でビザンツ帝国からカプリ島を譲渡された。ただし、
	イスラーム勢力と対立しただけでなく、商業上の利益から同盟を結ぶこともみられた。アマルフィは、その後も公国の首都、貿易の拠
	点として発展し、一時はピサやヴェネツィアやジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。例えば、現ウクライナ
	の都市セヴァストポリに、アマルフィの港の跡が残されている。
	アマルフィの人々は、航海に関する法典である「アマルフィ海法」を作成した。これが様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀
	まで影響を持った。また、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興して
	いた。
	アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。1131年にはノルマン人による征服、1135年、1137年はピサによる略
	奪、そして1343年での嵐によって都市の大部分が破壊された。
	狭い土地を有効活用するため、アーチの上に家を建て、上へ上へと建て増したため、断崖にへばりつくように建物が密集している。
	外敵の侵入を妨げる為もあって階段で出来た路地が複雑に入り組んでいる。
	アマルフィの代表的な建造物として、アラブ=シチリア様式の大聖堂がある。11世紀に建造が始まり、雄大な正面(ファサード)、
	1066年にコンスタンティノープルで作られた青銅製の扉、そして13世紀の美しい「天国の回廊(Chiostro del Paradiso)」など、特徴
	的な多くの追加工事が継続して行われた。
	特産品はリモンチェッロと手漉き紙。リモンチェッロの原料にはこの地方特産のレモンが用いられる。今でもアマルフィの急斜面には
	ところどころレモン畑がある。手漉き紙はイタリア半島で最初に製紙法が伝わった場所であり、紙漉きに必要な清流が存在したことか
	ら発達した。




	
	アマルフィ海岸	  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	(英名) Costiera Amalfitana 
	(仏名) Cote amalfitaine 

	アマルフィ海岸(Costiera Amalfitana)はイタリアはカンパニア州サレルノ県、ソレント半島南岸の海岸。ティレニア海・サレルノ湾
	に面する。ヴィエトリ・スル・マーレからアマルフィを抜け、ポジターノへ到るまでの一帯を言う。世界一美しい海岸と言われ、1997
	年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
	土地の名前の由来はヘラクレスが愛したニュンペーの名に由来する。ヘラクレスはそのニュンペーと仲睦まじく暮らしていたが、ある
	日突然、彼女が死んでしまう。それを嘆いたヘラクレスはこの世でもっとも美しい土地に彼女を葬り、街を切り開いて彼女の名を付け
	た、とされる。
	30 キロメートルに及び海岸線には斜面に張り付くように小さな町が点在している。その中で最も大きな町がアマルフィ。降り注ぐ太
	陽と白い町並みがまぶしい高級リゾート地である。町の中心には千年の歴史をほこる大聖堂、アマルフィ大聖堂がある。それを取り囲
	むように地中海都市特有の坂道と狭い路地が複雑に入り組んで、まるで迷宮のようである。人々は中世から変わらぬ生活を続け、レモ
	ンを畑で育て、坂の下まで人の手と足で大切に運ばれる。





	
	崖にへばりついたような町である。道路は狭く離合するのも大変な道路で、嫁半はよく運転してるなと感心する。アマルフィー海岸は、
	ナポリの人々が良く泳ぎに行く場所のようで、船でナポリ湾を横切ってやってくる。海岸とは名ばかり、崖岸と言った方がよい。伊豆
	半島西側の景観に近く、切り立った断崖の下にぽつぽつと小さな砂浜が点在している。湾状の海岸にそそり立つ崖に垂直に家々が並び、
	ポジターノやアマルフィーのような有名保養地では、そこに大小のホテルが密集している。





	
	アマルフィ海岸はサレルノ県に位置し、その全長は40kmに至る。その中には、アマルフィAmalfi、ポジターノPositano、マイオーリ
	Maiori、ミノーリMinori、ラヴェッロRavello、プライアーノPraiano、フローレFurore、ヴィエトリ・スル・マーレVietri sul Mare
	他、魅力一杯の小さな町が散りばめられている。古のアマルフィ共和国が誇った豊かにして輝かしい歴史、中世期の特異な建物、豊富
	な史跡、等々の保護に努める地元の取り組みに賛同し、ユネスコはアマルフィ海岸を世界遺産に指定した。
	近づき難い険しいラッターリ山地とティレニア海に囲まれるという地域的特徴のために、住民は峡谷の入り口の、家全体、階段、屋根
	をきっちりと積み重ねた建物に住むこと、それらの家並みを細い通路で縫うように仕切ることを余儀なくされた。





	
	アマルフィ公国	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
	1000年頃のイタリア半島。黄色で示されている小さい国がアマルフィである。アマルフィ公国またはアマルフィ共和国は、南イタリア
	のアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家。ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアなど、北部の都市国家が台頭
	するまでは、イタリアの商業の中心地として地中海貿易を支配していた。地中海貿易の先駆的存在であり、初めて海商法を整備した国
	でもあったことから、アマルフィの海商法は国家としてのアマルフィが衰退した後も1570年頃まで使われ続けた。
	アマルフィの町は339年に設置された交易所を起源としている。元々は、ビザンツ帝国系のナポリ公国に支配されていた地域であった。
	838年にランゴバルド人に占領されるが、翌年にランゴバルド人を追放すると、知事を選出して自治共和国としての形を整え始める。
	958年には元首を選出して公国となり、間もなく最盛期を迎える。
	しかし11世紀に入ると、政権は次第に不安定になっていき、サレルノ公国からの介入を許すようになる。その後、1073年、ノルマン人
	のロベルト・イル・グイスカルドによって征服されると、アマルフィ公の地位も彼の息子に奪われ、独立を失う。1096年に反乱が起き
	るが、1101年に鎮圧される。1130年に再度反乱が起きるが、逆に1131年、ルッジェーロ2世によってシチリア王国に併合されることに
	なる。1135年および1137年にはピサの攻撃を受け、以後は都市としてのアマルフィも急速に衰退していくことになる。


アマルフィーの広場にそびえ立つドーモ(大聖堂)。写真提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



















ミノーリ Minori






途中でトイレ休憩に寄った「ミノーリ Minori」の街。ここも相当に歴史深い街のようだったが、いかんせんイタリア語が読めない。











「太陽がいっぱい」のメロディーが聞こえてきそうだ。













さぁ、ローマじゃー!








ハイウェイから見える山肌は、みんなこういう禿山が多かった。











ローマ市内









	地道が分からず、またローマへの分岐点も分からずだいぶ右往左往したが、何とか「A1」高速に乗れて、夕方4時過ぎにローマ
	の街に入った。油を満タンにするためガソリンスタンドを探す。コロッセウムを過ぎたところの路上スタンド(事務所はなく、ス
	タンドだけが道の脇に2,3台立っていて、その側にオジサンが座ってサービスしている。)で軽油満タンにする。事故った車
	(FIAT)もこの車(OPELL)もディーゼルで、ヨーロッパではディーゼル車が多い。




	AVISの事務所があるという「 Termi」の駅を探す。スタンドのオジサンに教えて貰った通り、「ストライタ、ストライタ」と真
	っ直ぐに進む。「もしかしたらこれが駅かな?」と思われるデカイ建物の側に来た。幾つか看板があるので真剣に表示をみると、
	「・・de・・・ Termi・・」とある。「ここだ、ここだ、ここがテルミ駅だ!」とほっとするが、地図にあるAVISの看板がどこに
	も無い。2,3度クラクションを鳴らされたりしながら、駅の周りを廻る。どこにもない。くたびれ果てて、駅の路肩に駐車して、
	私が駅の構内へ入ってみた。「 Her・・」という看板がチラッと見えたので行ってみると、まさしくそこがレンタカー会社のカウ
	ンターで、奥の方に「AVIS」とあった。

	あった、あった。早速書類を持ってカウンタ−へ行くが、先客が2組いて、一組の若い男女が今から車を借りようとしているよう
	だった。担当のオッサンと長いこと話している。窓口にはオッサン一人なので、手間取っているし、男の子の方は携帯で何処かへ
	電話したりして、終わりそうもない。たまりかねて、待っているもう一組のカップルの若い男が、なにやらイタリア語でオッサン
	に話し掛ける。多分、「まだ時間がかかるのか!」というような意味の事を言ったのだろう。返事を聞いて、諦めて二人どこかへ
	行ってしまった。
	私もタイミングを見て横から、「I'll back a car!」と声を掛けると、車はどこにあるかと聞く。その先だというと、この事務所
	の前まで持ってこいと言う。事務所と言ってもここは建物の中なので、wifeに言って、事務所側まで車を移動させる。幸いAVISの
	前がポッカリ空いていた。そこに車を停め、オッサンに「持ってきたぞー」と KEYを渡すと、どこからかすぐ黒人の兄ちゃんが現
	れた。




	オッサンと黒人の兄ちゃんはなにやら話して、兄ちゃんが車を点検する。勿論、ここへ来てすぐナンバープレートにベタベタ貼っ
	ていたビニール・テープは全部きれいに剥がしてある。四隅がなんとかピンで留まっているので、ガレージへ運ぶ間くらいは何と
	か大丈夫だろう。兄ちゃんは車をチャッチャッと見てオフィスへ報告し、Tomtomナビを車内に付けたまま、サッサと車をどこかへ
	運んでいってしまった。オフィスへ戻るとオッサンが、「No Problem、OK、Ok」という。「No Problem? a car contract
	finish?」と聞くと、「OK、Ok、Finish、Chao!」と答える。あっけない幕切れ。なんだか拍子抜けした。




	前のドアが開かないほどの接触事故を起こし、しかも相手は逃げ、それをどこにも届け出ず、交替してくれた車も早々とBACKによ
	ってNumber Plateが取れ掛かるほど追突され、サッシでは横腹に二本も鋭いキズを入れられていると言うのに、「CHAO!」で済ん
	でしまった。勿論我々は全面保険には入っているので、対物、対人、どんな事故を起こしても我々が費用負担することは無いのだ
	が、交代車も含めて、今回のレンタカーがたどった数奇な運命を把握している人間は、レンタカー会社には一人もいないのである。

	これでいいのであろうか? 日本人とはあまりに違う対応に大いに考えさせられた。元々の人間としての素養はみな同じハズであ
	る。それが、何千年、或いは何万年か違う地域に住み、異なる歴史の変遷を経て、こんなにも異なる性質を持った民族として分離
	してしまったのだ。今回の旅は、イタリアという国を見て歩く興味もさることながら、人間と民族について、その生い立ちや文化
	■■について大いに勉強になった。






	さて我々であるが、車を返してしまったので、とりあえず荷物を置きにホテルへ向かう。ローマには地下鉄が2線しかない。A線
	とB線である。その交差している駅が我々が車を返した「Termini」テルミ駅である。ここからA線に乗ってスペイン広場で降りる。
	今日と明日の宿は、このスペイン広場の側にあるのだ。ホテル・コンドッテイ。高級ブランド街のど真ん中にあり、「spagnia」
	スパーニャ駅からも歩いてすぐなので人気があるようだが当然宿泊料金は高い。ローマのまん中だから、言わば赤坂・六本木に泊
	まるようなもので、値段は高い。決して一流では無いが、通常で一泊300ユーロ(4万2千円くらい)する。それを2泊するの
	だから8万円くらいかかるのだが、wifeは、私の予定がどうなるかも分からないのに、45日前のディスカウント制度を利用して、
	一泊150ユーロ(2万1千円)で2日予約していたのである。

	さてそのホテルへ、我々はTermini駅からTaxiに乗ったが、実は後でわかったのであるが、この駅の公式なTAXI乗り場は別にあって、
	いつも長蛇の列が出来ている。ターミナル駅(それでTermini)なので、ものすごい人が行き来するのだ。我々もこの後、コロッセ
	オやその他へ行くのに何度かこの駅を利用したが、いつもTAXI乗り場は長蛇の列だった。それを「TAXI?」と呼び止められ、長い
	TAXIの列があったので、てっきり普通のTAXIだと思って乗ったのだが、実はこれが有名な「ローマの白タク」だった。車装は普通
	のTAXIなのだが、正常なTAXI乗り場に駐車する運転手ではなくて、高いインセンティブを取って運転する連中なのだ。

	正式なTAXI乗り場にはTAXIは止まっておらず、このインセンティブ・TAXI乗り場にずらりと並んでいるので、我々は最初それが分
	からず、乗ってしまったのである。普通10ユーロくらいの所を3倍くらい払わされてしまった。降りるとき、「エラく高いな。」
	と思ったが、そういうわけだったのだ。しかしこれに乗らなかったらおそらく、まだ我々はTermini駅にいることだろう。

	運転は荒く、ビュンビュン飛ばす。車中でwifeが「me too,Taxi driver.」と言うと喜んでエラく話も弾んだが、Driverの兄ちゃ
	ん自体は「雲助 Driver」というような感じではなく、陽気なイタリアのあんちゃんだった。




	TAXIの兄ちゃんが、「そこだ、そこだ」と指さす宿は、壁に鋼鉄の頑丈な扉が一つあるだけだった。「え、これ」「これのどこが
	ホテルじゃい」というような所で、勿論扉に鍵は掛かっているが、右隣はレストランで、左隣は何かのShopである。3mほどの壁
	の中にポツンと壁があるだけなのだ。「アチャー、あの兄ちゃん違うところに降ろしたな」と怒ってみたが、住所はどうもここで
	間違いないようなのだ。何じゃこれはと途方に暮れたが、ふと見ると扉の横に、観葉樹に隠れて小さな呼び鈴がある。それを押す
	と、「May I help You?」とどこからか声がする。予約した客だというと「しばらくそこに居てくれ」と言われて、1分ほどで東
	南アジア系の兄ちゃんが来て我々の荷物を持って歩きだす。角を曲がった2,3軒先にホテルの入口があった。と言っても、建物
	自体は全てが繋がった一つのビルなので、1軒2軒という訳ではないが、ホテルにはちゃんとしたガラスの扉をもったエントラン
	スがあって、カウンターに数人のスタッフもいる。やれやれ。

	さっきの所は、我々が泊まる部屋の扉の前だったのである。路上に入口が面しているのかと思ったが、これまた我々のセンスとは
	かけ離れていて、この扉一つの先の世界が、20室を備えたホテルなのだ。兄ちゃんが案内したのは、フロント業務だけをやって
	いる、言わば事務所なのだった。ホテルとは別な場所にあるのだ。ホテルの入口にあたるさっきの扉の鍵は、宿泊客全員が持って
	いて、勿論閉めれば自動的にロックされる。扉から10mほどの通路を行くとエレバーターがある。それぞれの部屋へはエレバー
	ターで昇る。上った所にそのフロア全体の応接室とサロンがあり、そこから自分の部屋へ続いている。




	さぁいよいよローマの、イタリア最後の宿だ。今日明日と2泊する部屋は、寝室と浴室の2つだが、勿論それぞれの部屋は広い。
	日本のビジネスホテルの10倍くらいの広さがある。部屋の天井は棟木まる出しだったが、これは安普請のせいかそれとも趣向な
	のかわからなかった。荷物を解き、シャワ−を浴びて、とりあえず今日は付近をブラブラする事にした。













スペイン広場




	
	スペイン広場 (ローマ)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	バルカッチャの噴水スペイン広場/スパーニャ広場(スペインひろば/スパーニャひろば、イタリア語:Piazza di Spagna〔ピアッ
	ツァ・ディ・スパーニャ〕)は、イタリア・ローマ市の都心部にある広場。「スパーニャ」とは「スペイン(エスパーニャ)」のイ
	タリア語呼称で、間近にあるスペイン大使館にちなんで命名された。広場の中央には、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作「バルカ
	ッチャの噴水」がある。東には後述の大階段がある。西側はコルソ通りに向けてコンドッティ通りがある。
	スペイン広場には、トリニタ・デイ・モンティ教会へと続くトリニタ・デイ・モンティ階段、通称「スペイン階段」が接する。設計
	はフランチェスコ・ディ・サンクティスによるもので、1725年に完成した。波を打つような形態はバロック的な効果をあげている。
	映画「ローマの休日」で、オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所である。当初、フラ
	ンスの外交官の寄付によって造られたものの、スペイン広場にあるためこの名で呼ばれている。
	現在はスペイン広場付近の地下鉄入り口付近に階段を上らずに上にいけるエレベーターが設置されている。また、保護のため広場で
	の飲食は禁じられており、ローマの休日のシーンのようにジェラートを食べる事はできない。





スペイン広場へ行く。馬車が居るので臭い。人々が石の階段に座り込んでいる。何をしているのか。おそらく何もしていないんだろうな。



甘栗を買ったり、しばらくウロウロして「トレビの泉」へ行く。





トレヴィの泉




	
	トレヴィの泉	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	トレヴィの泉(-いずみ、英:Trevi Fountain、伊:Fontana di Trevi)は、ローマにある最も巨大なバロック時代の泉で、ローマでも
	有数の観光名所として賑わっている。「トレビの泉」とも。
	ポーリ宮殿の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレス(デメテル)、
	右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されている。これらはサルヴィの原案でブラッチが制作した。
	元々は古代ローマ時代に皇帝アウグストゥスが作らせたもので、ヴェルジネ水道(ウィルゴ水道、乙女の水道の意)の終端施設として
	の泉が場所を替えた後、今の位置になった。その後、泉はローマの建築家ニッコロ・サルヴィの設計で改造、彼の没後の1762年に完成
	した。
	後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うという言い伝えがあり、投げるコインの枚数によって願いが異なる。コイン1枚だと再
	びローマに来ることができ、2枚では大切な人と永遠に一緒にいることができ、3枚になると恋人や夫・妻と別れることができる。3枚の
	願いはキリスト教が離婚を禁止していたという歴史の名残りである。このコインは半分がカトリック系チャリティ団体に寄付される。

	2007年10月19日、観光客が何十人もが泉を眺めるなか、何者かが赤い塗料を泉に投げ込み、噴水が真っ赤に染まるという事件が発生。
	「灰色のブルジョア社会を朱に染めてやる」というビラが残され、その人物は逃走した。必死の浄化作業で大理石の被害は防がれた。



左からデメテル、ネプトゥヌス、ヒュギエイア







人だかりである。薄暮れてゆく建物はなかなかいいが、この人手には閉口する。やたらそこここでKISSをしまくっている。ジェラートを食べる



トレヴィの泉とポーリ宮殿



夜のトレヴィの泉










	幾つか買い物をしてホテルへ戻り、一風呂浴びて夕食へ。イタリアでは、午後6,7時ではまだ閉店している店が多く、夜9時頃
	からの夕食というのが普通である。路上にテーブルと椅子を置いただけのセットがずらりと並び、みんなそこで夕食を取っている。
	この形態は中国などと似ている。




	ホテルの横の小さなビストロに入って簡単な Dinnerを注文するが、例によってワインが旨く、次々追加注文して本格的な Dinner
	になってしまう。帰ったかと思うとまた来る爺さんなんかが居て、ローマの夜もなかなか面白い。可愛いイタリア娘がいて、外と
	中のオーダーを器用にこなしている。オッサン一人が路上のテーブルに座ってパスタを食べ、山のようなアイスクリームをパクつ
	いている。お姉ちゃんは、我々の料理の質問に英語で説明してくれる。「Japanese?」と、日本人なんか見慣れていると言わんば
	かりである。なにを聞いても「Oishiiyo」と言う。お姉ちゃんが可愛いので、ワインを3本も呑んでしまった。