2009年秋 南イタリア紀行(5) 9.21



キェティからマテーラへ
	
	9月21日(月)

	昨夜からの雷が、まだ時折鳴っている午前7時頃目覚めて、ベランダへ出た。細かい雨が振り続く、ウンブリアの山並みが美しい。
	昨夜の結婚式場や付近をデジカメで写していると、ベランダの下を初老のオジサンが歩いていき、駐車場から車を出している。ベラン
	ダの下を通り抜けた所で車を止め、上にいる私に向かって話しかけてきた。「ボンジョールノ、私のワイフが母屋の二階にいるから、
	呼び鈴を押してコンタクトしてくれ。私は出掛けるので。」という意味の事を言う。そうか、この家の主人なんだ。
	「OK!OK!」と言うと「グラッチェ」と言ってどこかへ出かけてしまった。勤めているのだろうか。それにしてもまだ7時だと言うの
	に。wifeも起きてきて朝食の準備をする。



道を挟んで、部屋のハス向かいに石積みの小屋があるが、この小屋の屋根と我々の部屋のキッチンとがテラスで結んであった。






	上がそのテラス。下はそのテラスの金網に這わせてあるブドウ。たわわに実っていて、一つもいで食べたら旨かったが、これは観賞用
	だろうと思ったので、食べるのは一つだけにしておいた。





	
	朝食は、昨夜我々がDinnerを頂いている間に「これが朝食です。冷蔵庫に入れて置きます。」と置いていってくれたもの。7時20分
	頃「ドン」という小さな音とともに、家中の電源が回復した。クロワッサン、パンケーキ、チーズケーキ、桃、リンゴ、洋梨などが用
	意してあって、コーヒーも沸かせるようになっていて、電子レンジもある。朝食を済ませて荷物の整理をしていると、先程の主人が帰
	ってきた。畑の見回りにでも行っていたのかもしれない。次第に雨足が早くなる。支払いの為に隣の母屋へ行くと、昨夜案内してくれ
	た娘(27歳。この娘は少し英語が喋れる。)と、母親(昨夜は会わなかった。)が出てきて、主人も交えて歓談する。



ウンブリア地方、キェティの山並み。雨に煙ってとても美しい。





そうか、あのブドウの蔓はこのブドウの木から伸びてきたんだな。







ここが、昨夜の結婚式(披露宴)会場。開けっ放しのパ−ティ会場である。全然散らかった跡が無いのは、昨夜の内に片づけたのだろうか。





ここからも廻りの景色がよく見える。随分広い敷地である。この下にも部屋が幾つかあるようだし、大きな農場だったんだろう。











	
	「朝食は食べたか?」「よく眠れたか?」「部屋はどうだった?」と聞いてくる。「昨夜は結婚式があってバタバタしていたので、ろ
	くろくお世話出来なくて申し訳なかった。」と言う意味の事を言うので、「全然気にならなかった。むしろ結婚式に出会えて大変happy
	だった。朝食も部屋もVeryGood!」と答えると大層喜んで、「エスプレッソを飲んでいけ」と言う。
	娘はNYKに叔父さんがいて、昔そこにいた時マユと言う大阪の女の子と知り合ったと言う。「もう随分昔の話よ」と笑う。「君はとて
	も27歳には見えない。十代と言っても通用する」と言うと「そう、皆からそう言われる」と笑った。

	夫婦はローマで知り合ったらしく、ローマからここへ移り住んできたと言う。この地方の農家を見に来て、即ここを買ったという。
	どうやら部屋を改造して、Penshonや宴会場として提供していて、それが家業のようだったが、それにしては、勘定を聞いたときいくら
	でもいいような事を言うし、Netに載っていた料金を払うと、お札を1,2枚戻そうとするし、とてもビジネスとしてやっているとは思
	えないような対応だった。それとも、遙か東方の小島からやってきたアジア人に対する、精一杯の好意だったのかもしれない。人のい
	い夫婦とその娘という感じだったが、非常に暖かいものを感じた。人の親切とか好意とかいうものは、人間みんなが持っているものな
	のだろう。都会ではそれがだんだん削り取られていくのかもしれない。この夫婦もそれがイヤでローマを捨ててきたのかもしれないな。



開いている窓は、我々の泊まった部屋の浴室。その向こうが母屋である。ベランダから写す。



「INTERNETにホームページがあるのなら、うちを宣伝しといてくれ」というご主人が、雨の中、車に荷物を積み込むのまで手伝ってくれた。



結婚式の会場となったベランダの下に、こういう部屋が3つくらいあった。



	
	宿を後にして、世界遺産に登録されている「アルベロベッロ」の町を目指す。雨は激しく降ってくる。こりゃ今日は1日雨かもしれな
	い。途中サービスエリアで、食べきれなかった朝食の残りを食べ、高速を更に南下する。降ったり止んだりの気候の中、高速を降りて
	アルベロベッロへの地道を行く。





	
	狭い農道の様な道を走っていると、右前方に車が二台いて、一台のバンが完全に横倒しになっていた。最初何かの宣伝か、撮影でも
	しているのかとおもったが、どうやら事故のようだった。完璧に横倒しで、2、3人がその傍に立ちつくしている。傍をゆっくり走り
	ながら、「えらい事故やな」「あんなん初めて見た」とか話しながら走っていると、正面から救急車が来た。「あ、これや」。しばら
	くすると、今度はパトカーとすれ違う。「あの事故、今起きたんやで」「誰も死んでなきゃいいのにね。」と話していると、廻りにち
	らほら石積みの搭(トウールツリー)が見えてきた。











	
	畑の中に、小屋風の建物が作ってある。どれもがヘンデルとグレーテルに出てくるような、とんがり屋根の建物である。「へぇー、こ
	れかぁ」と、昔百科事典でみた「世界の家々」というコーナーの家を思い出した。今でもこんな家があるとは思わなかった。多くは、
	小屋や、観光用に残してあるもののようだったが、中には今も人が住んでいるものもあるようだ。二三枚写真を撮ったが雨が物凄く、
	まるで我々が来るのを待ち構えていたかのように豪雨となった。道路を川の様に水が流れだし、こりゃとても写真なんか撮ってる場合
	じゃないぞと諦めて、今夜の宿であるマテーラの街を目指すことにした。











アルベロベッロを後にする。





マテーラ








	
	世界的に有名な、サッシという岩窟にできた教会や住居跡で構成される街である。ここは日本人の頭ではとても理解出来ないような街
	だ。今日はアルベロベッロを諦めたので四時半頃マテーラに着いたが、サッシへ入ってくるには、恐ろしいほどの道を通り抜けてこな
	ければならないのだった。とても通常の日本人のセンスでは離合出来そうもないような坂道や急カーブを、車はビュンビュン飛ばして
	行く。マテーラの市街地からサッシと呼ばれる岩窟住居区の道へ出ていくのに、「まさかここを通るんじゃなかろうな。」と言うよう
	な所を通るのである。恐ろしや、イタリア。wifeはさすがにプロだ。坂道のカーブでバックしながらうまく離合した時は驚いた。私で
	はこうはいかない。
	途中日本人の女の子が、街中の看板を眺めていたが、どこへ行きたいのか自分でも良くわかっていないような変な子だった。隘路を幾
	つか抜けて、やっと少しスペースのある教会前の広場に出た。ここに車を止めてしばらく周りを見学する。教会の脇から下の峡谷を見
	て驚いた。峡谷の反対側、つまり谷川の向こうは急斜面の崖で、下の方に道もあるし、下から上へ、洞窟らしいものが幾つかある。
	後で聞いたが、これらの洞窟は石器人達の住居跡だった。「あーっ、これがサッシかぁ」



	
	振り替えれば、山全体が岩山を刳り貫いた岩窟住居である。教会や住居や小屋が、岩を彫って作ってある。旧石器時代から人々が住み
	着き、貧しい農民や犯罪者や、異端として街を追われた聖職者達が隠れ住んだ街。一時は、病気の発生源として住民が退去させられ、
	街全体が空っぽになった時代もあるらしい。



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	マテーラ(Matera) 	フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
 
	マテーラ (Matera) は、人口6万人弱のイタリア共和国バジリカータ州マテーラ県のコムーネの一つで、マテーラ県の県都である。
	マテーラは、「サッシ」と呼ばれる凝灰岩に穴を開けて作られた家(洞窟住居)がある旧市街地区が有名で、丘になっているチヴィタ
	地区とサッソ・カヴェオーゾとサッソ・バリサーノという地区に分れている。1993年に、マテーラの洞窟住居はユネスコ世界遺産とな
	った。
	有史以前、ヒトは自ら「家」を作り出すまでは、自然が作り出した洞窟や岩陰の中で暮らしていた。洞窟そのものが「家」であった。
	そのうちヒトは洞窟を出て、「家」を自分達で作り出すようになった。そうなるとかつて「家」として利用されていた洞窟は、利用さ
	れなくなり、放棄され、荒廃し、忘れ去られていく運命をたどる。そういう遺跡は世界中に存在し、日本でも幾つか例を挙げることが
	出来る。
	マテーラにある洞窟も、かつてそんな洞窟住居だった。ただ、マテーラが他の洞窟住居と大きく違う点は、「現在も利用されている」
	という点にあり、切り立った崖を削るようにしてつくられた岩窟住居は、2000年の時を経て、マテーラの歴史とその変遷を感じさせて
	くれる。岩窟住宅で埋め尽くされた町並みが、南イタリアの強い日差しを受けることによって作り出す光と影の明確なコントラストは、
	まさにこの町が内包する光と影を、強烈に生々しく映し出しているようである。







	
	今は綺麗に整備され、世界遺産として公開されており、ホテルやペンション、レストランなどがある。我々の今夜の宿もこのサッシに
	ある。実は今回のホテルの予約はすべてwifeがしたので、今夜の宿がサッシだとは私はここに来るまで知らなかったのである。峡谷を
	眺めていると、ガイドブックを販売しているおじさんが寄ってきて、日本語のガイドブックを、6ユーロの所5ユーロでいいと言う。
	見ただけでよく日本人だと分かったものだが、小銭がなかったのでその素振りをすると簡単に諦めて行ってしまった。去る前に我々の
	宿を聞くと、この渓谷に沿ってずーっと行けばいいとの事。宿がホントにあったので、安心して車を進めるが、これはもう畔道(あぜ
	みち)である。石畳の狭い畔道を、ビュンビュン飛ばして車が走る。アメリカでもイギリスでもこんな運転者たちにはお目にかかった
	事がない。一体この国民性はなんなんだ。



	
	ようやく地図にある名前の通りを見つけて宿を探す。それらしきところに車を停めて、ぼんやり立っている兄ちゃんにアドレスを示し
	て場所を聞くと目の前であった。しかし窓にはカーテンがかかっているし、隣の扉にも鍵が掛かっている様子。一体どうしたものかと
	思っていると、一昔前の車掌のように胸にカバンを下げたオジサンが「下だ、下だ」と指差す。入り口は、一階から下の、半地下のよ
	うになった中庭にあった。















	
	ろう人形のような顔をした、細面のお姉ちゃんがイタリア語でまくし立てる。何もわからずおたおたしていると、先程のオジサンが英
	語で通訳してくれる。「10ポート何とかかんとか、・・・・・・」良く解らん英語で苦労してチェックインをする。挙句に上に上がっ
	て「ここ、ここ、ここに車を停めて。」とえらく親切である。聞けば、このサッシのガイドなのだと言う。分けが解らずまごまごして
	いるツーリストを案内するのが仕事なのだ。





	
	チェックインもすみ、車もロックし、荷物を持って部屋へ入る。ここも凄い部屋だ。一階はダイニングと浴室。ダイニングから上がっ
	ていく中二階に、三人は寝れそうなキングサイズのベッドが置いてある。キッチン、洗濯機からinternet  のポートまで完備している
	が、壁も天井も全てレンガ積みである。ここも昔の住居を改造した民宿なのだ。こんな所には初めて泊まった。めちゃ面白い。














	
	午後7時に、ガイドのオジサンに教えて貰ったレストランへ行くが、従業員も客もいない。この時間でまだ準備中なのだ。仕方ないの
	で、部屋へ戻り、記録や写真の整理をする。道路を挟んだレストランのはすむかいが我々の部屋である。私はさっきオジサンから買っ
	た5ユーロの本を読む。実におもしろい。サッシの歴史だ。



	
	八時半になったので、再びレストランへ行く。日本人らしきカップルガいて、その隣に案内される。 wifeが電子手帳でメニューを調
	べようとすると、カップルの男性が「こっちの方がいいですよ」と、「イタリア料理用語辞典」という本を貸してくれた。横浜から来
	た夫婦で、イタリアにはもう十数回来たと言っていた。13州のうち、廻っていないのはあと2州だけらしい。相当なイタリア・マニア
	である。奥さんがイタリア語を話すと言っていた。
	昨夜に続いて今夜もワインを一本空けた。全く、イタリアで呑むとぐいぐい入っていく。岩窟のなかで、イタリア第4夜が更けてゆく。









今夜はちょっとオーダーしすぎた。ステーキが後半に来て、「肉大好き」人間の私でも少し残してしまった。





でもデザートはきっちり食べた。旨かった。



このイタリアの、夜空の色には全く驚かされる。何か絵の具でも流したように鮮やかなブルーである。