2009年秋 南イタリア紀行(4) 9.20





フィレンツィエからキェティへ




	
	9月20日(日)

	五時頃目が覚める。荷物を整理して朝食をとり、フロントへ行く。AVISから車を運んでくる人はそこから帰るし、取りに来る人はその
	まま車庫へ持っていくので、我々の為にタクシーを呼んでくれていた。



	
	程なく、ガレージから髭を蓄えた初老のおじさんが、我々のFIATを運んで来た。二日間の保管料48ユーロを取られた。宿泊代に入って
	いないのかと尋ねたが、別料金だとの事。持参したネットの資料を見ると確かにそう書いてあった。AVISからの引き取りは後一時間位
	かかると言うので部屋で待機する。








	窓から下の道路を見ていたら、掃除車や観光バスなどが出勤していく。そのうちパトカーが来てホテルの前で止まった。なにをするの
	かなと思って見ていたら、どうも何かを待っているようだった。自転車の兄ちゃんをつかまえては、何か注意したりしていた。



やがて道路工事車がやってきて、パトカーは反対側へ移動した。路のへこみを直す作業のようだった。ものの10分ほどで作業は終わり。



こんな馬車も現役で活躍しているのかと思ったら、どうやら観光客相手の馬車のようだった。

	
	やがて迎えがきて車を持っていった。同時に我々もタクシーでAVISへ。事故の事も何も聞かれず、すんなりOpelを受け取り、ナビを取
	付けようとして、前の車のフロントガラスにナビの台座を取り付けたままだったのに気が付いた。聞けば車はもうレーンへ持って行っ
	てしまったと言う。仕方がないので、無くした事にしてそのまま出発。午前10時。

	TomTom(イタリアの代表的なナビ)に Perugiaを登録し、地道を行くように指示した。ところがどうした事かナビは高速道路へ誘導しよ
	うとする。仕方がないので、指示通り高速へ向かう。高速の入り口に並ぶ。と、ここで又々アクシデント。並んでいると前のバンがバ
	ックして来るのだ。あわててクラクションを鳴らそうとするが鳴らない。後でわかったが、我々の車はハンドルの両端にクラクション
	が付いていたのだ。分かった時には既に遅し。前のバンはお構い無しにバックしてきて我々の車にごつん。「あちゃー、又や。」「な
	んで下がってくるーん。」と言っても後の祭り。
	車から降りてみると、ナンバープレートがぐにゃりと折れ曲がり外れかかっている。「ありゃ、こりゃえらいこっちゃ。」前の車から
	降りてきたオッサンは、白い顎髭を蓄えていて何やらイタリア語で喋りながらニタニタ笑って近付いてくる。ナンバープレートを見て、
	また何やら呟き、曲がったプレートを伸ばし、外れかかった四隅のネジをはめ、自分の車に戻って大きな透明テープを持ってきた。
	それでナンバープレートを縦横にベタベタと張りつけ固定してしまった。その間だいぶやりとりがあったのだが、とりあえず今のとこ
	ろそれしか方法がないので、するがままにさせておく。
	覚悟を決めて、私もナンバープレートを見栄え良く整えて、もっと厳重に落ちないよう何重にもテープを巻いた。オッサンとの共同作
	業になってしまった。wifeはオッサンの名前や連絡先を聞いている。どうせホンマかどうかわかりゃしないのに。全くイタリア男のえ
	えかげんな事。

	後ろも遣えているので、不承不精、オッサン達と別れて高速に乗る。対向車から見たら笑われるのではないかと思うが、イタリアの道
	路は大抵が二車線の一方通行で、対向車には殆ど会わない。日本の道が殆ど対面式なのとは大違い。ナビはやがて高速を降りて地道や
	山道を案内する。それもわざと遠回りしているのではないかと思える程、九十九折れの道や湖を巻いて通る山道を走る。あまりに時間
	が掛かりすぎて、行く事にしていた「国立ウンブリア考古博物館」をパスする事にした。ここにはウンブリア地方の旧石器時代からの
	遺物が展示されている。トスカーナ地方の州都がフィレンツェで、ウンブリア地方の州都がペルージャなのである。ここには是非とも
	行きたかったのだが、wifeが今夜の宿は探すのに時間がかかりそうだと言うので、泣く泣く断念した。perugia(ペルージア)からcheti
	(キェティ)をナビに入れて宿を目指す。宿まで、フィレンツェから 450kmである。



山道の途中にあったこのホテルで昼食にする。







ぶつけられて、ビニールテープをベタベタ貼ったOPELL。これで1週間ローマまでを走った。よく落ちなかったなぁ。
最初に事故った車の写真も撮っておけばよかった。あの時は、気が動転してとてもそんな余裕は無かったんだろうな。



何か日本では見たこともないような食材もあって、なかなか旨かった。幅広のパスタはまぁまぁ。



車のバンパーを点検して、店で買ったナッツのようなものをバラ巻くと、小鳥達が寄って来た。



上の円内が我々の今夜の宿。真っ暗だし、探し当てるのに苦労した。



上は、途中で道を聞いたオッサンが書いてくれたもの。「こんなんで、何がわかるんじゃぁ」と言いたかったが、折角書いてくれるので「Thank you!」



	
	キェティには夜8時前に着いた。そこからがまた一苦労。暗い中を、あっちで聞きこっちで聞きしながらやっと捜し当てた宿は、いか
	にもイタリア南部の田舎風で、wifeは大感激している。大きな寝室の他にダイニングキッチンと大浴場がついており、浴槽もまるで王
	様が入るような大きなものだった。到着した時は、朝からの結婚式が丁度終わりかけていた時で、宿の中は大騒ぎだった。とても我々
	の相手をしてくれるような雰囲気ではなかったのだが、わざわざ日本から来ているのでむげにもできず、暫く待たされて部屋へ案内さ
	れたのだった。





	
	と言うのも、wifeが最終確認のメイルを入れても、出発までに返事がなかったので、果たして部屋が予約されているのかどうか解らな
	かったのである。もしかしたら、断られていたかもしれないのだ。先方としても、遠い日本から、こんな田舎までホントに来るとは思
	っていなかったのかもしれない。暫く待たされたのは部屋を片付けていたのだろうと思う。



	
	素晴らしい部屋だったが結婚式会場と隣り合わせだったのには驚いた。外から階段で部屋へ上がるとき、新郎新婦とすれ違ったので、
	「congraturation!」と言うと、新郎が「Thankyou、Thankyou」と何度も繰り返していた。何か食べるものは無いかと聞くと、結婚式
	で使ってしまったのでサンドイッチくらいしか無いとの事。それでもいいからと頼むと、しばらくして「Dinner」の用意ができたと呼
	びにきた。結婚式の余り物で急遽こしらえてくれたらしい。「グラッチェ、グラッチェ」。



ここで呑んだワインも旨かった。ビンがデカかったので、こりゃ二人で呑めるかなと心配したが、1本空いてもまだ呑みたい程だった。



	
	天井に付いている円い金具は、昔ここに豚やヤギの肉をぶら下げて、下から燻して燻製にしていたヤツらしい。とすれば、ここは農家
	時代は燻製室だったのだ。そういえば、廻りはセメントと石で固められていて、小屋風だ。





	
	山盛りのハムや野菜、チーズやソーセージのアペタイザーに、ナスとキューカンバをベーコンで巻いたやつ等が出てきて腹一杯になっ
	てしまった。ワインも旨く、ガブガブ呑んで、とうとう一本空けてしまった。
	ほろ酔い気分で、思いがけないDinnerに感謝して部屋に戻った頃、ポツリポツリと雨が降り出した。リッチな風呂にはいってそのまま
	バタンQ。





ダイニングキッチン。というよりキッチンかね。コ−ヒーも湧かせるようになっていた。


日本のように、ウオッシャーでお尻洗浄とビデが一緒になっているのではなく、陶器が二つ、それぞれ便器とビデと並んでいるのである。













バタンQとなる前、結婚式の一行がやっと帰りだした。聞けばイラク人たちらしい。イタリアにもイラク人が住んでいるのか。



みんな車で帰るが、きっちり酔っぱらい運転なんだろうねぇ。最後までワイワイ、がやがや元気である。

	
	午前一時頃、雷の凄まじい光と音で目が覚めた。雷は殆ど一晩中鳴り響き、一時間おきくらいに目が覚めた。部屋の電気は大元が切っ
	てあるようで、冷蔵庫も切れているのには驚いた。携帯の光を頼りにトイレへ行く。カミナリを写してやろうとベランダへ出るが、僅
	かな村の灯りくらいではデジカメは働いてくれない。諦めてまた寝る。