2009年秋 南イタリア紀行(2) 9.18






ローマからフィレンツィエへ

	
	2009.9.18(金曜)

	例によって長い長い行列のimmigrationを過ぎ、荷物を受け取って空港を出る。英国でもそうだったが、荷物のチェツクというのをま
	ったくしない。これはどうなっているのだろうか。人のものを持っていってもまったくわからないと思うのだが。
	荷物を受け取り、空港内にあるレンタカー「AVIS」の事務所へ行く。10時から車を予約しているのだが、早くついたので8時からの予
	約に変更したいと言うと2つ返事でOK。マニュアル6段式の FIAT。2ケ所の傷をチェツクしてある車体図を渡されたが、車を見る
	と他にも傷があるので係員を呼んだ。鷹揚に「OK!OK!」と車体図にチェツクを入れてゆく係員を見て、ちょっと嫌な予感が胸
	をよぎったが、その予感はまさしく当たっていたのである。



	
	空港の駐車場を出るのにも一苦労した。Wifeが、駐車場の出口へのカーブを曲がりきれず、バックで切り替えして曲がろうとするのだ
	が、ギアが「R」に入らないのである。6速の隣が「R」となっているのだが、ギアを動かしても後退しない。そのうち、後ろに車の
	行列ができてクラクションを鳴らされる。「こりゃ今日中にここを抜け出れるんかな。」と思っていると、後ろの車から髯面のお兄ち
	ゃんが降りてきて、ガラス越しにニューツと手を伸ばしギアを掴むと、「こうやって動かすんや」とばかりに教えてくれた。ギアの中
	ほどについている丸い突起をつかんでギア全体をいったん引っ張り上げた後「R」へ移動するのであった。これで何とかコ−ナーを曲
	がりきり、駐車場の建物を出て1階の路上に出ることができた。路上にいったん車を止め、ここで本日のルートの確認。

	ローマ市内から北上し、「A12」高速を通って、まず海岸に面した町「Orbettelo」(オーベッテロ)を目指す。市内を抜け、高速
	に乗り、一路北へ北へ2時間ほど進んだ。ここで、先ほどの予感が的中。今回の旅行中最大のアクシデントに遭遇したのだ。
	「s.marinella」という町(だと思う)の路上で、Wifeが事故ったのである。


	
	イタリアは路上駐車が多い。この町でも道の両側にはズラリと駐車していた。両側が埋まっているので、正味2車線しかない。対向車
	を避けようとしてwifeが少し車を右へ寄せたがすぐ元へ戻すものと思っていた。しかしそのまま進むので「おい、このまま行ったらぶ
	つかるぞ」と言うまもなく、駐車していた中型の黒っぽいバンに接触。「ガガーツ」と派手にわき腹をこすってしまった。「アァーツ」
	と言っている間に、離合した対向車はすれ違ってはるかかなたへ行ってしまい、前のミラーはガラスが粉々に割れ(ているように見え
	たが、実際はガバッとミラー一式が下へ垂れ下がっていたのだ。)、動転したwifeが、3,4台先の空きスペースに必死で車を止めた。
	助手席に乗っている私の座席のドアが開かない。仕方が無いので、wifeが出た後私も運転席から外へ出る。右側(私が乗っていた側)
	の前輪覆いから前部ドアが、後部のドアにまで及んで大きくへこんでいる。幅30cmくらいの傷が2mほど続いているのだ。
	「あぁーっ、こりゃヒデぇー。」「ごめんなさーい。」と騒いだが、ふと「そうだ、ぶつかった車は?」と数台後ろの車のほうへ行っ
	てみた。すると、プジヨーの後ろに駐車していたはずの車が無いのである。車1台分ぼっかりと空いている。

	「あれ、ここにあった車は?」「あれ? ぶつかったの、このプジョーだった?」「いやちゃうで、その後ろに黒っぽいバンみたいな
	のがあったやろ。あれにぶつかったんや、なぜ無いん?」「何で無いんやろ?警察呼びにいったんやろか?」「わからんな。何でおら
	んねん。」
	ぶつけられ、わめき散らして我々に食ってかかるイタリア人のおっさんをイメージしていたので拍子抜けだったが、なぜ居なくなって
	いるのかどうしてもわからない。被害者だから、逃げ出す理由はないはずだ。しかし詮索しても仕方が無いし、この様子では車はもう
	走れないだろうから、とりあえず警察に届けなければならない。しかし私の携帯は「圏外」となっていて国際では使えないようだし、
	wifeの携帯はバッテリーがなくなりかけている。我々はあせった。まず教えてもらったレンタカー屋のトラブル処理係へ電話する。
	「事故った。レンタカーの契約NOはXXXXXXXだ。今、Civitabecchaの近くに居る。」ということを、wifeが拙い英語で伝える。何か要
	領を得無いと言うので、途中で電話を交代して私が説明する。何度か人が変わって、英語をしゃべれる事故処理係だという兄ちゃんと
	会話する。この男はしっかりしていて、「こちらから代車と人をよこすから、今どこに居るのか正確に伝えてくれ」という。たぶんこ
	こだろうと思われる町の名を伝えると、兄ちゃんは「わかった。しばし待て。」と言ったままベートーベンの第九「喜びの歌」を流し
	たまま、長いこと中座した。何か装置で位置を確認しているのか、それとも契約内容をチェツクしているのか、うんともすんとも言わ
	ないまま第九が終了して、しばらくしてまた第九が始まった。業を煮やしたwifeは、「もう切ろう」と携帯をきってしまう。再度クレ
	ーム係へ電話すれども、話が一からの繰り返しでいっこうに通じない。そのうち携帯のパワーが弱くなり、もう使えなくなりつつある。



	
	仕方がないので、ユーロ硬貨と地図と契約内容シートをもって、近所の店に電話を借りに行く。これがまた、大変だった。最初訪れた
	自転車屋には2人の兄ちゃんがいたが、「Can you speek English?」の問に、一人は両手を広げての例の仕草で、もう一人が「little」
	と答えたので、コレまでの経緯を説明する。説明しなくても、この店の真ん前で起きた事故なので、見に来ていれば分かったはずなの
	だが、不思議なことに事故を見に来た人は一人もいなかった。
	日本なら、「ドーン」という音を聞いた途端、店から道へ出て来て、「お、お、事故や、事故や」「早よ、警察電話せんかい!」「兄
	ちゃん、ケガないか?」とか、ワイワイ、ガヤガヤ人だかりになってしまうはずなのだ。それがこの国の人は全く関心がない。私が、
	「Car Accident を起こした」と言っても、「あ、そう」位の感じなのだ。それはこの兄ちゃんのみならず、その後訪ねた、ゲームセン
	ターの従業員や客、溶接工場やレストランやホテルの人たちみんなに共通している。「Car accident(交通事故)!」と聞けば日本人な
	らまず、その車がどうなったか見たくてたまらないはずであり、目の前の道路で起きた事故なら絶対見に来る。
	
	幕末に、日本と通交があったオランダ以外に、多くの国から黒船が来る。有名なのがアメリカのペリー率いる4艘の黒船艦隊だが、他
	にもプチャーチン率いるロシア艦隊や、イギリスの船団、フランスの船団などが入れ替わり立ち替わり日本近海に出没して、徳川幕府
	はその対応に四苦八苦するのであるが、その艦長達が書き残している日誌によると、「日本人ほど好奇心の強い国民は居ない」と書か
	れている。沖合に停まっている艦隊めがけて、小舟で何艘も黒船を見に来たと言うのである。ロープの梯子を登ってきた者は、船長に
	握手を求めたり、艦内をズケズケ見て回ったりで、船員も呆れている様子が書き残されている。しかも、「役人がきたぞーっ」と言う
	一言で、蜘蛛の子を蹴散らすように逃げ去る様子も、「まるで訓練されたもののようである」と書き残している船長もいる。

	そんな日本人達に比べると、このイタリア人たちの無関心さはどうだろう。驚いたことに、そこそこの大きさの町なのに、まったく英
	語は通じないし、他人の出来事には殆ど関心がない。頼まれれば答えるが、自分から積極的に他人の■■(例によって自分の字が読め
	ない。)に立ち入ってくる事は全くしないのである。
	自転車屋の兄ちゃんは「Police office」を 「Play station」と思ってゲーセンを教えるし、公衆電話は全てカード式で、そのカード
	はどこにも売ってない。売店やホテルにもカードはない。そのくせ、公衆電話はそこにある、と連れて行ってくれるのである。
	お手上げだ。
	車へ戻ると、wifeが「車、動くことは動くよ。」と言う。ミラーも割れておらず、鏡をつかんで押し込んだら正常な位置に戻り機能し
	てくれそうだったので、私は後部座席へ写り、迷ったあげく、AVISのオフィスがある「Civitavecca」へ行こうと決心した。この名前
	は「チビ太ベッチャ」と覚えて、生涯忘れられない名前になった。
	事故を起こしたのが10時半頃、連絡を取り合っていたのが約1時間。ローマの日本領事館にも電話し、携帯の Batteryが切れかかっ
	ているので、レンタカー会社へ電話して■■を説明してくれと頼んだが、「折り返す」と言った電話はとうとう掛かってこなかった。
	何が、「日本人を守ります。外務省。」だ!  
	(この後、役所と役人を糾弾した文章が続いているが、当時頭に来て書き殴っているのでここでは割愛する。それが聞きたい?ハハ。)
	ま、それはともかく、地図では30分ほどの距離を1時間以上走ってやっと見つけた「チビ太ベッチャ」のAVISオフィスは、12時半か
	ら15時半まで、3 時間の「昼寝タイム」なのであった。我々は12時40分頃にオフィスを見つけたので、閉店した直後だったのだ。何た
	る事! 何だ、これは。トホホ。ガラス越しに見る事務所の中は勿論誰もいず、表には鍵がかかっている。
	又々悩んで、本日の宿泊予定地フィレンッエへの途上にある「 Grosseto(グロセト)」と「SIENA(シエナ)」にもAVISの事務所があ
	るので、このどちらかで事情を話して対応策を教えて貰おうという事にした。途中、幾つかのサービスエリアやドライブインで電話を
	探したがどこにもない。聞いても置いていないと言う。おそらくはこのイタリアでも、携帯電話の普及で公衆電話が不要になったので
	撤去したのであろう。電話のマークが下がっているスタンドに入っても「無い」と言う。「ハーッ、無いのか」と言う私に、「Sorry」
	と言ってくれた一人の店主の言葉だけが慰め。
	ようやく「 Grosseto」に着いたが、ここではAVISの事務所を見つけられそうもないので、先の「SIENA」の町をめざす。坂の多い、古
	い伝統的な街で、ぐるぐる廻って30分ほどAVISを探すが見つからない。仕方がないので、「Herz」のオフィスに入って教えて貰う。

	教えて貰ってやっと着いたAVIS事務所のオッサンは、気さくで陽気なイタリア男だった。事故った我々の車を見て、「No probem. You
	can change a car in Ferentze.」と言うのだ。警察には行かなくていいのかと聞くと、「no、no」と手を振る。事故った相手の車が
	消えたことも話したが、「Ga ha ha ha!」と笑うのみ。安心した。
	保険の申込書やレンタカーの契約書を確認して、フィレンッエへは電話しといてやる、と言う。やっと対処策を教えて貰ったので、安
	心して安らかな気持ちでフィレンツエを目指す。







	
	フィレンツエの町へ入る直前、アルノ川の南にある小高い丘「ミケランジェロ広場」からフィレンツエの街を見下ろす。広場の中央に
	ミケランジェロ作のダビデ像のレプリカが建っており、ここからフィレンツエの町を一望することが出来る。フィレンツエは、京都と
	同じく盆地で街の中央を川が流れていて、地形ばかりかその歴史深い点も京都に似ていることから、現在、京都とフィレンツエは「姉
	妹都市」になっている。



	
	ベッキオ橋、ベッキオ宮、ジョットの鐘、ドゥオモ等が見える。遠くに見えるドゥオモの屋根が赤いのは、赤土で焼いたレンガを用い
	ているためらしい。アルノ川はピサまで流れている。ドゥオモの左隣に見える高い塔は、「この鐘は、過去のいかなる芸術よりも完全
	なものである」とダンテが言ったというジョットの鐘楼である。



この木立のすぐ向こう側にアルト川が流れている。



	
	フィレンッエの街に入って、最初AVISのAirport officeへ行くつもりだったが、ホテルを探すのに時間が掛かるかも知れないという
	ので、とりあえず先にホテルを探すことにした。夕方6時半頃にフィレンッエへ着いたのだが、ホテルへ着いたのは9時半を廻って
	いた。めちゃくちゃ時間が掛かった。
	というのも、この街の中心部は一方通行で狭くて、おまけに目指すサンタマリア・ノベッラ教会周辺はホテルだらけで、どこがどこ
	やら全く分からないのである。同じような通りと同じような街区が幾つも連なっている。私は歩いて探し、wifeは車で探し回るが分
	からない。あっちで聞きこっちで聞くがめざすホテルを知っている人はいない。そのうちwifeの車ともはぐれてしまい、「あ、こり
	ゃヤバイかも。もう巡り会えんかもしれんな。」とpolice station に駆け込もうかと考えたが、ふと思いついて私の携帯で wifeへ
	掛けてみた。そしたら、な、なんと、通じたのである。私の携帯は、外国では使えないと思い込んでいたのだ。何という。事故の時
	使えたのだ。wifeのいる場所が分かったので、そこまでTAXIで行き、TAXIでホテル・パリスまで運んで貰った。その後をwifeが付い
	てくる。やれやれだ。最初からこうすれば良かった。





	
	ホテルマンは親切だった。事故のことも説明して、ガレージへ車を運ばせた。どこかうまいレストランはないかと聞くと、すぐ近く
	の店を教えてくれた。有名なサンタマリア・ノベッラ薬局の側だった。



ワインとステーキが死ぬほど旨かった。トスカーナ・ワインは最高だった。上右端は陽気なウェイター君。





ホテルへ戻り風呂に入ったら、やっと生きた心地がした。







もともとは修道僧たちの宿舎として建てられた建物らしく、食堂の天井には「イタリアではちょっと有名」という宗教画があった。












フィレンツエを歩く、明日の為に







<出典:「ブルーガイド わがまま歩き イタリア」 実業之日本社>