Music: Hula Blues

ハワイ紀行 その2 2012.2.6

	
	2012.2.6(月)曇 −> 雨

	昨夜から断続的に目が覚めて、1時、2時、3時、4時と一時間おきに起きて寝てを繰り返す。完全に時差ぼけだ。何となく頭がぼん
	やりしている。6時頃起きてきたwifeと、昨日ホテル到着後に部屋へ持ってきてくれていた「 Welcome fruts」を食べる。水のボトル
	も毎日2本部屋へ置いていってくれる。このホテルは1901年に建てられた、ワイキキで一番古いホテルらしい。勿論もう建物は新
	しくなっているが、敷地はワイキキのビーチまで続いていて、プライベートビーチもある。我々の部屋の16Fからはビーチが見え、
	反対側にはダイヤモンドヘッドの端っこが見えている。いい部屋である。



ワイキキの海岸を早朝散歩。朝も早よから人が群れている。年寄りは東屋に集まってチェスに興じていた。





TOPのページに使用した写真は、上のワイキキビーチを道路側から写したもの。



	
	航空チケットとこの部屋の予約は、wifeの会社の旅行部門を通じてやってもらった。wifeの会社は実は、国際的な観光会社でもある。
	どうやらこのホテルの株主でもあるらしい。おかげで、通常なら一泊4、5万はするこの部屋が、wifeの会社の社員割引を利用すると
	なんと1万円である。



「デューク・パオア・カハナモク」というサーファーの像。舌を噛みそうな名前だが、国際的な著名人。「サーフイングの父」とある。



	
	AM8:00頃、Fruts とヨーグルトは食べたがやっぱり腹が減ってきたので街へでる。2,3軒見て回るがどこもたいしたことは無
	さそうなので、ワイキキのビーチを歩いて、我々のホテルの1Fレストランに浜から入る。ホテルに到着してからまだここには入って
	なかったのだ。さすがに一流ホテルのレストランだけあって、朝食もすこぶる旨い。



上右の木が、1901年のこのホテル創業の時から立っているという「xxxxxの木」(名前は忘れてしまった)。





	
	このレストランは1Fにあり、1901年のホテル創立時から立っている中庭の「xxxxの木」を囲むようにして作られているのだ。食
	事中、突然その木を洗うようにスコールが降った。さすがに雨期である。少し肌寒い。こりゃ今日は何もできんかなと、部屋でしばら
	くすごす。時差ボケと睡眠不足の疲れでついウトウト。目覚めるとwifeも眠っていた。wifeを起こして街へ出る。このまま寝て夜にな
	ってしまったら、何しにハワイまで来たかわかりゃしない。







	
	昨夜ディナーを食べたビルに「Shooting service」の会社があったので、そこを訪ねてみる事にした。太った日本人(?)の受付の女
	の子が、インストラクターも兼ねているようで一通りの説明をしてくれる。私は「スーパー・コース」、wifeは「ロイヤル・コース」
	を選択。本物のピストルを手にとって扱いを教わる。ズシリと重い。ついで実弾を発射するときの注意点、発射する時の銃の持ち方な
	どを教わるが、このヒアリングだけでまさかすぐ撃つのじゃなかろうな、と思ったら撃つのだった。





	
	大きめの透明なグラスをかけて、デカイ耳当てをつけると、TVでおなじみの試射台がズラリと並んだ部屋へ案内され、台の一つの前
	に立たされる。耳当てをつけると、ほとんどの会話が聞こえない。若い兄ちゃんのインストラクターがしゃべっているのを聞き漏らす
	まいと必死だった。「決してこういう具合には指を置かないように。もし置いたら指が無くなりますよ。」と脅される。「はい、では
	撃ってみましょう」え、え、え、もうこれでこのまま撃つんかいな。ええんかい?と思うほど簡単に言う。当方は生まれて初めてピス
	トルを握って初めて実弾を撃つというのに。



この射撃場で貰ったおみやげ。写真立てに入れて最後にくれる。ゴルゴ13を気取っている(のかな?)。
	
	覚悟を決めて、拳銃を両手でしっかりと握り、照準を的に合わせる。言われたとおりに、人差し指の先っちょで絞り込むように引き金
	をしぼってゆく。人差指の先っぽで引き金を引くのだ。
	突然、ドンという衝撃が指と腕に来て、実弾が発射した。反動は思ったより少ない。薬莢がポンとはじき出て肩にあたる。わりと簡単
	に撃てた。インストラクターに注意されて、ピストルを水平に構え直す。先が上向いているそうだ。2発、3発、4発と続けて撃つ。
	「もうちょっとゆっくり。銃撃戦じゃないんだから。」と叱られた。
	最初の銃の10発の弾丸を撃ちつくし、的がガーッと手元へ戻ってくる。アチコチに弾の穴が開いている。次の銃に変えて又10発撃
	つ。だんだん操作には慣れてくるが、狙いは相変わらずめちゃくちゃ。三度目の銃で、的が印刷してあるTシャツを吊して的にする。
	これを撃つのである。有料だから勿論持って帰れるが、穴の開いたTシャツを来ていても日本では笑われるだけかもしれない。私が撃
	ったものは、的を大きくはずれ、シャツのアチコチに穴が開いているが、wifeの撃ったものは丸い的の中に弾の跡が集中している。
	凄腕のスナイパーかもしれない。wifeはShootingは2度目だが、これは腕がいいとかいう問題ではなくて、目がいいからだろうと思う。
	ダーティーハリーのマグナム45も撃って、西部劇に出てくる撃鉄を起こして撃つリボルバーでも撃つ。最後にカービン銃まで撃つ。
	私もwifeも全部で6丁の銃を撃つコースになっているのだ。wifeのコースは女性向けだそうでマグナム45やカービン銃が無く、私の
	コースで日本円にして1万円くらい、wifeのコースが8,000円くらいだった。



上は私、下はWIFEが撃ったもの。左下には、インストの兄ちゃんが「Very Good!」とコメントを入れている。



	
	私の人生で、おそらく最初で最後の射撃体験だと思うが「ピストルを撃つ」という当初の願いはかなった。思ったより簡単に撃てる。
	これで人が死ぬのである。もし一家に一台銃があったら、必ずいつか家族の誰かが人を撃つだろう。そしておそらく人が死ぬ。こんな
	ものは無くしてしまう方がいいのはわかり切っている。銃社会のアメリカの惨劇を見ていたら、銃のない日本の社会がいかに安心で安
	全かに感謝したくなる。しかし銃の撤廃など、西欧社会においては、特にアメリカにおいては、しばらくの間無理だろうと思う。
	アメリカ人にとって日本のような銃無し社会を構築するのは、理想であってもとうてい到達できない社会だろうと思う。アメリカ人達
	のたどってきた西部開拓史などを思うと、とても簡単に銃を手放したりはしないだろう。刀狩りに成功した日本のような社会は、世界
	ではきわめて稀な例なのである。



	
	当分の間アメリカ人が銃を手放すことは無いだろうから、彼らはしばらくはお互いに殺し合うに違いない。彼らが理屈で物を考え、理
	想に向かってほんとに頭で物を考えるようになるには、まだ、4,5百年くらい必要かもしれない。それでも無理なような気もする。
	彼らの道徳観、社会感は、まだまだ東洋の、特に日本人の域には達していない。果たして到達してくるのだろうかと思ってしまう。彼
	らは終生獣のままかもしれない。




	道を歩いていると、しょっちゅう上のようなビラを貰う。日本で言えばティツシュ配りのような頻度で貰うのだ。殆ど日本人相手であ
	る。日本人にとっては無いものねだりなんやろねぇ。ヤクザはハワイで拳銃の練習をするそうやし。





	
	シューティングの後はwifeの希望で「アラモアナshopping center」へ行く。ワハイでは有名なShoppingセンターらしく「ザ・バス」も、
	ほとんどの人がここで降りる。Shoppingという長い長い儀式が始まり、やがて両手に抱えた紙袋とともに終わる。






	アラモアナショッピングセンター(1959年開業)  出典:ウィキペディア

	1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンションの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額34億ドルにも上る建築が行われた。
	ディリンガムのハワイアン・ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモアナショッピングセンターの開業、ジェット空路の連
	絡、貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発とそれに伴うインフ
	ラの近代化が加速した。
	1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査「金銭的なことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」において、2位カリフォルニアに2倍
	近い差をつけた1位を獲得するなど、立州を契機として観光産業が繁栄し、アメリカ国内外を問わず、観光客の来州は着実に増加し 1967
	年12月28日、100万人目の観光客を記録した。
	日本が旅行規制を解除した1964年、日本人観光客を見込んだハワイでは日本語表示の導入や従業員への日本語教育を本格的に導入する。
	1970年からはパッケージツアーが本格化し、日本資本がハワイには欠かせない収入源となるほどになった。
	こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在となる。日本の実業家小佐野賢治が1962年、ワイキキのモアナ・ホテルと
	プリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして、1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不
	動産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した。
	1974年にはハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるようになっ
	た。1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り、川本源司郎や、川口勝弘といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊
	った。「ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プ
	レストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を強く憂慮した。
	また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政
	府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなど、ゴルフ場建設ラッシュとなった。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を
	求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場
	1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで、摩擦の解消を図った。
	1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住宅価格の高騰が起こった。しかし、インフレを懸
	念した日本政府や日本銀行の締め付けにより、投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいて
	も日本企業、日本人投資家からの投資が減退した。進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫
	し、棚上げされた。

	(今回我々がモアナ・ホテルに安く泊まれたのは、wifeが小佐野賢治創業の■■興業の社員だからである。)





	
	ホテルや戻り、今夜は Hyattホテルの地下にある「南海漁村」という中華料理屋で、「モンゴル風牛肉炒め」と「牡蠣のショーガ焼き」
	と「チャシュー・焼きめし」を食って、キリンビールを飲んだ。久々に腹一杯になった。みんな一人前づつだが、二人で食べても十分
	だ。PM10:30頃就寝。また12:00頃目覚めてこれを書く。