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深浦町歴史民俗資料館・美術館 2007.9.15(土)
青森県西津軽郡深浦町








白神山地を目指して津軽半島南部を海岸沿いに走っていると、道路沿いに「・・資料館」と見えた。急ぎUターンして見学した。




	青森県西津軽郡深浦町は、青森県の西の端に位置し、南は秋田県と接している海岸の街である。北は鰺ヶ沢町に接しており、西は
	日本海に面し、東は世界遺産に登録された「白神山地」に連なっている。年平均気温は10度程度、7月〜8月は21〜23度、
	12月〜2月は1〜−2度で比較的しのぎやすい温帯性気候である。役場のある深浦港周辺は漁港特有の建物群が建ち並び、九州
	生まれで九州育ち、現在関西圏生活者の私としては、この街のたたずまいに歌謡曲的な「北の果て」というイメージをダブらせて、
	いやでも寂れて荒涼とした町並みと思ってしまう。
	しかしその海岸美はすばらしく、どこまでも続く日本海の波のうねりも、ここがすばらしい景勝地であることを証明している。
	深浦町は海岸美を誇る景勝地であるばかりでなく、その歴史は古く、縄文時代の遺跡が数多く発見されているので、数千年の昔か
	ら人々がこの地で生活していたことがうかがえる。その痕跡は、この資料館に石器群として展示されている。




	深浦町歴史民俗資料館
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	昭和55年11月、深浦港を望む猿神鼻洞門の一角に開館した。町民の協力を得て、深浦の古代から藩政時代、そして現代にいたる
	までの郷土の歴史を紹介し、町の文化の向上をめざして運営されている。正倉院を思わせるあぜくら造り風の建物の中に、縄文文化
	を受け継ぎ港町として栄えた郷土の文化や歴史を後世に伝えるための歴史的な所蔵品を保存・展示しており、古代の文化の香りを伝
	えるとともに、美術館を併設して郷土の生んだ画家たちの作品を展示している。
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	◎開館時間 午前8時30分〜午後5時 
	◎観覧料  一   般/300円(団体150)
	      高・大学生/200円(団体100円)
	      小・中学生/100円(団体50円)
	◎休館日  毎週月曜日及び年末年始 12月29日〜1月3日
	◎問い合わせ先 〒038-2324 青森県西津軽郡深浦町大字深浦字苗代沢80-1 TEL.0173-74-3882
	 JR深浦駅から徒歩5分
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	深浦が記録上に現われるのは、今からおよそ1,300年の昔、「日本書記」第三十七代斉明天皇四年の条に、「阿部比羅夫将軍が蝦
	夷討征をして帰順した蝦夷たちを有馬の浜(吾妻の浜)に招いて大響宴を催した」と記されている。この「有馬の浜(吾妻の浜)」
	が、いまの深浦の海岸ではないかとされている。その昔、深浦町は安東浦といい、次いで海浦となり、後に深浦になったと伝えら
	れる。そして、大正15年深浦村が町制を施行、現在の深浦町は昭和30年、深浦町と大戸瀬村の一町一村が合併して誕生した。
	さらに平成17年の国を挙げての大合併には、隣の岩崎村と合併し、新深浦町が誕生した。旧岩崎村は青森県の西南部に位置し、
	秋田県との境にある南北に細長い地勢で、白神山地と日本海に囲まれ、十二湖や十二湖を代表する青池など、魅力的で自然豊かな
	土地だった。旧深浦町との合併で、新深浦町は青森県の西部一帯を占める地域となった。






エントランスを入ったところに、なぜか神武天皇の木像が。






	「深浦町には縄文時代を中心として、約16ヵ所の遺跡及び埋蔵文化財包蔵地が知られている。このなかでも広戸台の「一本松遺跡」
	の発掘調査は、昭和51年から町教育委員会が日本考古学協会員の新谷雄蔵氏の協力を得て行われたが、宮城県を中心に栄えた大木
	系の北上そして青森県・北海道南部にまたがって発達した円筒系土器との融合外来文化と土着文化との交流や移行をみるうえで極め
	て重要な遺跡とされる。」と解説にあったが、それ以上の資料はなく、どんな遺跡なのかはわからなかった。大木系、円筒系土器と
	くれば縄文時代の「集落跡」かもしれない。しかし、土器の展示はここにはなかった。考古資料はこの石器群だけだった。

	縄文時代前期とそれに続く中期は、東北地方北半部に円筒系土器が、南半部に大木(だいぎ)式土器文化が成立し、両文化は互いに
	影響し合ながら発展した。この円筒土器は、バケツを長くしたような形状を示し、前期の土器を円筒土器下層式(円筒下層式)、中
	期の土器を円筒土器上層式(円筒上層式)と称している。両期に繁栄した円筒土器は、予想を超えた範囲に広がりを見せ、、北は津
	軽海峡を渡って北海道に上陸し、渡島半島を北上して現在の札幌市を通り、北端の宗谷岬や、海を隔てた礼文島にまで達している。
	また南は、岩手県中央部から西へ向かって奥羽山脈をこえ、秋田県北部の米代川流域か、ないしは八郎潟の付近にまで達している。
	さらに円筒系土器(円筒土器の系統をひく)の事例まで含めると分布領域は拡大し、南に波及した一部は日本海を南下して、遠く富
	山湾沿岸から能登半島にまで到達している。
	隆盛を誇った円筒土器の文化も、中期後半期になると大きく変質していった。東北南半部に栄えていた大木式土器文化が北上し、円
	筒土器文化圏に進出して、やがて円筒土器に変わって東北北半部を席巻した。さらに津軽海峡を越えて北海道にも進出するのである。








	往時の深浦は、津軽や蝦夷地へ向かう北前船の風待ち湊として栄え、大阪や京都などからの文化導入の表玄関として発展してきた。
	現在、過疎化現象が進む中、第一次産業の振興を優先しながらも、津軽岩木リゾート構想重点整備地域として、白神山地、十二湖
	などの自然との調和を保ちながら観光面の開発も進めている。








	深浦町は、上方と蝦夷地を結ぶ要津として明治時代中期まで、北前船交易で賑わった。往時の歴史を再現し町の歴史、風土の学習の
	場として役立てるため復元された北前船「深浦丸」。北前船は、江戸中期から明治中期にかけて上方と蝦夷地を結ぶ交易船で、往時
	深浦は風待ち湊として栄えた。その資料はたくさんあった。








	深浦町は、千古の歴史を秘めているにもかかわらず、古代から中世にかけての資料はわずかに日本書紀(斉明紀)や、元城跡などに
	うかがわれる程度でつまびらかではないが、近世、津軽統一が行なわれてからは、京・大阪と津軽を結ぶ海運の要港としてにぎわっ
	た。他国との往来や、物資の移出入を監視するための町奉行所・湊番所・遠見番所・御蔵などが設けられ、千石船の出入りとともに
	船問屋、船宿なども数多く、これらの客船帳によると、入津船は全国におよんでいる。北前船は一番杭で帆を降ろし、二番杭、三番
	杭と順次綱を掛け替えながら入港した。
 

























	西暦 		元号 		事項  
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	658〜660 斉明4〜6 鎌倉時代   阿倍比羅夫の蝦夷征伐。渡島蝦夷と饗応した「有間浜」は吾妻浜だといわれる。「西浜」と称
					される。十三の安東氏が蝦夷管領として活躍する。室町時代まで安東氏の要港として十三湊と
					ともに賑わう。若狭・越前と海運によって結ばれ京文化流入さる。 
	1322	 元亨2		安東一族内紛。折曽関の亀杉の古碑はその名残りである。 
	1453   亨徳2        「深浦」の名が文書に初めてみえる。 
	1600   慶長5        8月関ヶ原合戦の時、援兵800深浦湊に集結する。 
	1603	 慶長8		岩崎地区は隣国秋田佐竹氏と領地交渉により、正式に津軽藩の所領となり南端の大間越には関
					番所が置かれた。 
	1627	 寛永4		奉行所設置。津軽の要港として重きをなす。 
	1665	 寛文5		深浦・金井ヶ沢・大間越の沖横目へ役銭の徴収を指示。 
	1669	 寛文9		深浦に燈明設置の幕命くだる。 
	1792	 寛政4		午後2時頃大地震発生。この時千畳敷隆起する。 
	1807	 文化4		異国船見える。月屋崎に遠見番所設置。 
	1889	 明治22		関・北金ヶ沢・柳田・田野沢・岩坂風合瀬・驫木の7ヵ村をもって大戸瀬村となる。深浦・横
					磯・月屋・舮作・広戸・追良瀬の6ヵ村をもって深浦村となる。沢辺村・久田村・正道尻村・
					森山村・松神村・黒崎村・大間越村をもって岩崎村となる。 
	1926	 大正15		深浦町制施行 
	1936	 昭和11		国鉄五能線、岩崎〜深浦間開通により全線開通
	1953	 昭和28		十二湖公園が「深浦・十二湖県立自然公園」の指定を受ける
	1955	 昭和30		7月深浦町と大戸瀬村合併 深浦町を称する。 
	1973	 昭和48		国道101号、森山トンネル開通
	1974	 昭和49		国道101号のうち岩崎・深浦間の海岸道路及び大間越地区から秋田県境までの拡幅と完全舗装
					が実現した。 
	1973	 昭和48		弘西林道着工以来、11年目で開通(岩崎村〜弘前市間60.5キロメートル)
	1975	 昭和50		十二湖県立自然公園が、津軽国定公園に指定される
	1981	 昭和56		弘西林道、県道岩崎・西目屋・弘前線に昇格
	1983	 昭和58		日本海中部地震発生 
	1990	 平成2 		「津軽岩木リゾート構想」が国土庁から承認され「十二湖メルヘンの国」としてリゾート地域
					に指定される 
	1993	 平成5			世界自然遺産に白神山地が登録される
	2005	 平成17		3月31日深浦町と岩崎村合併 新深浦町が誕生。
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	[深浦町HPより転載]







	<くらしの民具>
	厳しい自然との戦いのなかで、生活を支えてきたいろいろな民具は、いまや時代の流れとともに忘れさられようとしている。これら
	の民具を日常生活用具・農具・山樵用具・漁具に分類して、展示紹介している。










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	円覚寺 
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	深浦港西側の山ふところにある円覚寺は、大同2年(807)に坂上田村麻呂が津軽蝦夷討征の懐柔策としてその拠点を深浦におき、
	陣中で使ったかけ仏と聖徳太子の作といわれる十一面観音を安置させたのが寺の起源と伝えられている。その後、初代の津軽藩主為
	信は深浦港を重要視するとともに円覚寺を手厚く保護した。JR深浦駅から徒歩20分。時間がなかったので、今日は前を素通りし
	た。







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