Music: Mr.lonelyd

飛鳥を歩く 2009.6.21 西南学院大学関西支部




西南学院大学関西支部 第ニ回歴史ウォーキング 


		
	飛鳥に都があった100年間を偲んで歩く。−蘇我氏の野望−			幹事:21回 井上筑前

	皆様、いかがおすごしでしょうか? 連休も終わり、現役はまたツライ?日常へ、リタイア組は孫も去って、また穏やかな日々が戻って
	きましたね。 さて、来月「第二回歴史ウォーキング」を開催します。資料の手配がありますので、参加希望者はお早めにご連絡下さい。 
	mixiでも電話でもmailでも結構です。よろしくお願いします。 
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	第二回歴史ウォーキング案内 飛鳥を歩く 

	●飛鳥に都があった100年間を偲んで歩く。−蘇我氏の野望− 
	日時  : 2009年6月21日(雨天順延)9:30集合 
	集合場所: 近鉄橿原線「橿原神宮前駅」 
	持参装備: 弁当、お茶、替上下着、雨具、その他 
	会費  : 600円(パスポート代、向原寺、飛鳥寺拝観料です。) 
	コース : 飛鳥も、歩くにはあまりに広いので、今回は橿原神宮前駅から推古天皇即位の豊浦宮を皮切りに、甘樫ノ岡、水落遺跡、
	石神遺跡、酒船石、飛鳥浄御原宮(飛鳥板蓋宮)、河原寺、亀石、欽明天皇陵とめぐって、飛鳥駅まで約8kmを歩きたいと思います。
	今回はUPDOWNは殆どありません。散策路については、当日明日香村観光協会発行の「飛鳥パスポート」と地図をお渡しします。 
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	西南学院大学同窓会関西支部 井上筑前   http://inoues.net mail:himiko@zeus.eonet.ne.jp 携帯:
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橿原神宮前駅にて






	
	蘇我氏が有力になると、飛鳥はにわかに政治・経済の中心地となり、新しく受け入れられた仏教文化は、この地にはじめて開花した。
	天皇の宮、豪族の館・邸宅、大寺院などが建ち並び、日本の古代国家は、飛鳥を中心に形作られて行く。飛鳥地方には、古く4,5
	世紀に応神天皇や允恭天皇の宮があったと伝えられ、6世紀前半には顕宗・宣化天皇の宮がつくられたようだが、飛鳥に次々と宮が
	作られるようになったのは、推古天皇の豊浦ノ宮(とゆらのみや/とようらのみや)からである。宮は、初め天皇の住まいが主で、
	同時に政治の場を兼ねていた。天皇の代が代わるごとに移され、一代の間に2,3回移ることもあった。国家体制が整備されるに従
	って、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所が宮の中に建てられるようになり、やがて宮の周囲を市街が取り囲み「京」
	と呼ばれるようになる。593年、推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位し、以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に
	営み、飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。この宮の時代に飛鳥寺が完成する。
	仏教が盛んになり、各豪族が競って寺院を建立する。つまり飛鳥時代とは、先立つ古墳時代の後を受けて、これらの「寺院」と「宮
	都」が形成されるようになった時代と言える。そしてそれは、「寧所にいとまあらず」という戦乱と混乱の古墳時代に終わりを告げ
	て、中央集権を基盤とした「大和朝廷」がその権力構造を盤石のものとしてゆく時代であるとも言えよう。


	第二回歴史ウォーキング 「飛鳥を歩く」 参考資料 (以下ずべて)

	<飛鳥時代>
	●飛鳥時代・・・1900年前後に建築史・美術史で初用。提唱者は関野貞と岡倉天心。
	 関野は、・・・朝鮮の芸術が影響を与えた時代。推古朝から大化改新ごろまでとする。
	 岡倉は、・・・仏教伝来(552年説)から平城遷都(710年)まで。飛鳥に都の時代。
	 日本史では、・推古朝ごろから平城遷都までを呼ぶことがあるが、意味が確定しない。7世紀前半とか、天武朝とか、世紀や天皇
	 の名前を使うことが多い。
	●飛鳥の渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になる・・・飛鳥はにわかに政治・経済の中心地と
	 なる。仏教文化がこの地にはじめて開花。天皇の宮、豪族の館・邸宅、大寺院などが建ち並ぶ。古代国家は、飛鳥を中心に形成。
	●飛鳥地方には4,5世紀に応神天皇や允恭天皇の宮があったという伝承。6世紀前半は顕宗・宣化天皇の宮が。飛鳥の宮の初源は、
	 推古天皇の豊浦ノ宮(とゆらのみや/とようらのみや)から。
	●宮は、初め天皇の住まいが主。同時に政治の場を兼ねる。天皇の代が代わるごとに移り、一代の間に2,3回移ることもあった。
	 国家体制の整備にともない、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所を宮の中に建てる。やがて宮の周囲を市街が取り囲み
	 「京」と呼ばれる。
	●593年推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位。以来約100年間飛鳥は政治の中心地。大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化
	 が開化た。この宮の時代に飛鳥寺が完成。仏教が盛んになり、各豪族が競って寺院を建立する。
	●飛鳥時代とは、古墳時代の後を受けて、「寺院」と「宮都」が形成されるようになった時代。「寧所にいとまあらず」という戦乱と
	 混乱の古墳時代に終わりを告げて、中央集権を基盤とした「大和朝廷」がその権力構造を盤石のものとしてゆく時代。
	●いわゆる飛鳥時代の宮

		NO 宮の名前 		  移った年 	住んだ天皇 	 宮の場所

		1 豊浦(とゆら)宮 	  92 		推古 		 飛鳥 
		2 小墾田(おはりだ)宮	  603 	推古 		 飛鳥 
		3 飛鳥岡本宮 		  30 		欽明 		 飛鳥 
		4 田中宮 		  636 	欽明 		 飛鳥 
		5 厩坂(うまやさか)宮	  40 		欽明 		 飛鳥 
		6 百済(くだら)宮 	  640 	欽明 		 飛鳥 
		7 飛鳥板蓋(いたぶき)宮  643 	皇極 		 飛鳥 
		8 難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳 		 難波 
		9 飛鳥板蓋宮 		  55 		斉明 		 飛鳥 
		10 飛鳥川原宮 		  55 		斉明		 飛鳥 
		11 後(のちの)飛鳥岡本宮  656 	斉明 		 飛鳥 
		12 朝倉橘広庭宮 	  661 	斉明 		 福岡県朝倉市
		13 近江大津宮 		  667 	天智 		 近江 
		14 嶋宮 		  672 	天武 		 飛鳥 
		15 飛鳥岡本宮 		  672 	天武		 飛鳥 
		16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮 672 	天武 		 飛鳥 
		17 藤原宮 		  694 	持統・文武・元明 飛鳥 
		18 平城宮 		  710 	元明 		 奈良 


小墾田宮址




	
	<小墾田宮址・豊浦宮址>  おわりだのみやあと・とようらのみやあと(推定地) 
	●小墾田の宮跡・・・最初「古宮土壇」−>雷丘東方遺跡で「小治田宮」「小治宮」と墨書された土器が出土。−> 
	 この遺跡が小墾田の宮跡である可能性。
	●小墾田宮・・・・推古天皇が25年間過ごした宮。豊浦宮に継ぐ推古天皇の二番目の宮。日本書紀・・・・豊浦宮で即位した推古
	 天皇は、603年(推古11)10月4日に、11年を過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ遷った。推古天皇が豊浦宮から小墾田
	 宮に移った後に、豊浦寺を建立。

剣池




	
	<石川池(剣池)>	橿原市石川町。近鉄橿原線橿原神宮前駅、東へ600m。

	●応神天皇の御代、外来の土木技術によって掘られた人工池。応神帝は軽池も造営。石川一帯は、蘇我氏の本拠地。馬子が日本で最初
	 に作った仏寺「石川精舎」本明寺(日本書紀・敏達天皇十三年(585)二月)。剣池のあたりは、現在石川町という町名。「軽(か
	 る)」という地名も残る。

	<日本書紀 応神紀>
	・十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池
	(応神天皇)十一年の冬十月に、【剣池】・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る。)とあり、この石川池が【剣池】のようだ。



	
	●剣池のほとりに紀皇女(きのひめみこ)の歌碑。軽の池は橿原市大軽町付近にあったと考えられるが所在が不明で、近くの剣池の堤に
	 歌碑が建てられた。 

	 万葉歌碑  巻3-390 紀皇女石川池の北堤(剣池)歌碑建立 昭和52年(1977)

		軽池之		軽(かる)の池の 
		浦廻徃轉留	浦(うら)廻(み)行き廻(み)る 
		鴨尚尓		鴨(かも)すらに 
		玉藻乃於丹	玉藻(たまも)の上に
		獨宿名久二	ひとり寝なくに
		(軽の池の浦のめぐりに沿って泳ぎ回る鴨さえも、玉藻の上にひとりで寝ないのに)





第八代孝元天皇陵




	
	<第8代孝元天皇>

	異称  : 大日本根子彦国牽尊(日本書紀)/大倭根子彦国玖琉命
		  (古事記)【おおやまとねこひこくにくるのみこと】
	生没年 : 孝霊天皇18年 〜孝元天皇57年 123歳
	在位期間: 孝霊天皇76+1年〜孝元天皇57年 
	父   : 孝霊天皇
	母   : 十市県主(とおちのあがたぬし)の娘細比売(くわしひめ)【古事記】  
		  /磯城県主(しきのあがたぬし)の娘細媛命(ほそひめのみこと)【日本書紀】
	皇后  : 穂積臣(ほずみのおみ)の遠祖鬱色雄命(うつしこおのみこと)の妹、 鬱色謎命(うつしこめのみこと)
	皇妃  : 伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、 河内青玉繁(こうちのあおたまかげ)
	皇子皇女: 稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)、 武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)
	宮   : 「軽之堺原宮」(かるのさかいはらのみや:古事記)/境原宮」(日本書紀)
		  【大和の国高市郡:奈良県橿原市大軽(帝王編年記)】
	陵墓  : 剣池嶋上陵 (つるぎのいけのしまのうえのみささぎ:奈良県橿原市石川町)

	古事記・・孝元天皇に五人の皇子。皇子の子孫・・蘇我、葛城、許勢、平群、波多、紀、など、28の氏族になった。「元」という
	のは、諸氏族の根源という意味か?
	日本書紀に、開化天皇 五年春二月丁未朔壬子 葬大日本根子彦國牽天皇于劔池嶋上陵(開化天皇五年春二月六日、孝元天皇を剣池
	嶋上陵に葬った。)とあり、古事記では単に、御陵在劔池之中岡上也。(御陵は劔池の中岡の上なり。)と記している。





豊浦宮





	<豊浦宮>

	●推古天皇は、崇峻天皇暗殺の直後に即位。豊浦にあった蘇我家の邸宅で即位か?
	●豊浦宮跡・豊浦寺跡(とゆらのみやあと・とゆらでらあと)A.D.592-603
	 向原(こうげん)寺。南側台地一帯が日本最古の尼寺、豊浦寺の跡。寺の前身は推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや)で、
	 聖徳太子を摂政として政治を行った。
	●603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立。豊浦宮は蘇我氏に下賜されて豊浦寺になったと伝わる。
	●近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡が出土。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1985年)では、7世紀前半建立
	 の豊浦寺の講堂と推定される瓦葺き礎石建物跡が出土。さらに、その下層から石敷を伴う掘建柱建物跡が掘り出された。建物は南
	 北3間(5.5m)以上、東西3間(5.5m)高い板張りである。すでに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石
	 列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されている。
	●平成5年の寺跡の調査で、建物の配置が飛鳥寺と同じであることが判明。寺の講堂だったと考えられる場所の下からは、6世紀末
	から7世紀初のものとみられる遺構が発見。宮跡を寺にしたという日本書紀の記述が実証された。寺で、発掘された遺構を見学可能。




	<向原寺 (むくはらでら・こうげんじ)>

	●推古天皇の豊浦宮を改築した豊浦寺の後身 
	●日本書紀には、豊浦宮を新たに建設した記事無し。崇峻天皇暗殺の直後なので、蘇我本家の邸宅の一画を仮宮としてそこで即位し
	 たと考えられている。
	●このあたりは非常にややこしい。 「蘇我稲目(いなめ)の向原の家」=「豊浦宮」=「豊浦寺」=「現在の向原寺」という図式。
	 向原の家 → 向原寺 → 物部尾輿の廃仏にあって焼失 → 推古天皇が豊浦宮を置く→ 宮を小墾田に移す → 再び寺とな
	 る(豊浦寺) → 現在の向原寺。
	●欽明天皇から仏教を祀るように・・稲目(物部尾輿と対立)
	●欽明天皇の宮・・「山辺の道」の磯磯城島の金刺(かねさし)の宮と呼ばれていた。
	●物部尾興らが「仏像を難波の堀江に捨てた」











甘樫坐神社






物部尾興らが仏像を捨てたという「難波の堀江」(私は大阪堀江説)。


	<雷丘(いかづちのおか)>

	●東側には「雷丘東方遺跡」があるり、奈良時代の建物跡が発掘され井戸跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土。
	●第21代雄略天皇の部下、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、461年(雄略天皇6年)7月天皇と皇后の同衾中に雷が鳴り、
	 そこへ栖軽が参入し、慌てふためいた天皇が、テレ隠しに雷を捕らえて来る様に命じて、雷を捕まえた丘である。
	●古代日本の主に仏教に関する説話集『日本霊異記』。・・上中下の三巻、百十六話から構成。その上巻第一話に「雷を捕らえた話」
	 と題した説話が掲載。
	●柿本人麻呂の、万葉集で雷丘を詠んだ歌が有名。万葉集では雷丘を詠んだ歌はこの一首だけ。

	大(おほ)君(きみ)は 神にしませば 天(あま)雲(くも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に 
	(いほ)らせるかも  巻3−235


甘樫丘





	<甘樫丘(あまかしのおか) >

	●大化の改新以前・・蘇我蝦夷・入鹿親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えた。2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半
	 から中頃のものと見られる建物跡や石垣をが出土。
	●皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮、蘚我氏の中心人物 、入鹿(いるか)は中大兄皇子らによって暗殺。入鹿の父の蝦
	 夷は甘樫丘の邸宅に自ら火をはなち、蘚我本家は滅びた。甘樫丘の東麓遺跡から、焼けた土器のほか建築部材や炭などが出土。
	●土器の年代観も一致する・・・谷の上方に蘇我邸の存在がほぼ推定された。
















	<水落遺跡(みずおちいせき)>

	●斉明天皇6年(660)5月、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた・・・「日本書紀」
	●1981年その水時計の遺跡が、飛鳥水落遺跡で掘出。精密に堅固に築いた水時計建物、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使
	 った水時計装置とが出土。
	●「石神遺跡」と呼ばれる遺跡全体の中にある。
	●地中梁工法ともいえる堅固なつくり。
	●黒漆塗りの木箱、木樋暗渠、枡、銅管など、水を使用するいろいろな仕掛け。噴水用のプール説もあり、飛鳥資料館には復元模型。
	●平成6年には飛鳥川と繋がっていたと思われる水路や幾つかの附属の建物の遺構も出土。
	●白村江で唐・新羅の連合軍と戦い破れた後、天智6年(667)には、飛鳥を離れ近江の大津に遷都。翌天智7年(668)には、斉明
	 の死後、皇大子の地位のままだった中大兄皇子が即位。
	●日本書紀には、天智天皇が近江にも漏刻を作ったという記載。

	<石神遺跡>
	●明治時代に須弥山石・石人像が掘出。当時の飛鳥小学校で石敷がみつかり、このあたりは一時飛鳥浄御原宮の候補地にもなった。
	 1981年からの調査で7世紀中頃から8世紀初めの建物跡や溝などが出土。
	●斉明天皇の時代・・整然と並ぶ長い建物群、石敷をもつ立派な井戸、石敷広場などがみつかり、饗宴の施設と考えられている。

飛鳥寺





	<飛鳥寺(あすかでら>

	●飛鳥寺のモデル、韓国の王興寺か 塔の構造出土品似る 2008年04月16日03時01分アサヒ・コム
	 日本最古の寺院とされる飛鳥寺(奈良県明日香村)のモデルが韓国の王興寺ではないかとの見方が強まってきた。
	●飛鳥寺の創建・造営についてのある見解。
	 飛鳥寺の造営に関して百済から技術者達が渡来したことは広く知られている。実はこれらの技術者・工人の多くは百済ではなく、
	 はるかペルシアからやってきたという説。
	 書記・・・寺工として「太良未太」(タラミタ)や「文買古子」(モンケコシ)は中世ペルシア語の音によれば、タラは宮や倉庫
	 などの大建造物を指し、ミタは優秀・有能と言った意味を持つらしい。またモンケコシも「鑿」(モンケ)と定規(コシ)の組み
	 合わせで、タラミタとともに、巧みな大工を指す言葉だ(伊藤義教)。
	 同じように瓦博士の「麻奈文奴」(マナモンヌ)や画家の「白加」(ハクカ)なども、それぞれの職能や道具を表しているという。




	●つまり、飛鳥寺の造営にあたっては、朝鮮半島、中国大陸のみならず、はるかな西アジアのペルシアからも技術者達が渡来してき
	 ていたということになるのだ。飛鳥の文化は最初から、こうした国際的な文化を取り入れた文化として出発していた(門脇禎二)。
	●シルクロードの東の果てではないか。
	●飛鳥寺の大仏。顔の長さは他の大仏さんの顔とはだいぶ異なる。明らかに渡来人の顔。









酒船石・亀形石建造物







	<酒船石遺跡・亀形石造物 (さかふねいしいせき・かめがたせきぞうぶつ) >

	●亀形、小判形石造物・・・・平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見。日本書紀の斉明天皇の時代に記述される工事に
	 該当する遺跡と推測されている。
	●「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり、「東の山」が酒船石のある丘。
	●平成12年(2000年)に大規模な発掘・・・・砂岩でできた湧水設備と小判形石造物と亀形石造物が発見された。
	●斉明期に最初に造られその後平安時代まで約250年間使用された形跡。なんらかの祭祀が行われた遺構と推定される。斉明天皇の両槻
	 宮(ふたつきのみや)の関連施設ではとの説もある。






	<第37代斉明天皇>

	●飛鳥時代の女帝で、第35代皇極天皇(在位642-645)の重祚(ちょうそ:再び即位する事)。在位期間は655-661。父は敏達天皇(孫茅
	 渟王:チヌノオオキミ)。母は吉備姫女王(キビツヒメノオオキミ)。舒明天皇の皇后。天皇の死後、蘇我入鹿らによって即位した。
	●大化改新の翌々日、皇位を弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲り隠棲するが、孝徳天皇の死後再び皇位につき、息子の中大兄皇子(後の天智
	 天皇)を皇太子に立て、政務全般を委ねた。
	●百済支援のため九州に遠征中、朝倉の宮(現福岡県朝倉郡)で死去する。
	●御陵は奈良県高市郡高取町にあり、朝倉郡にも「斉明天皇の墓」と称される「御陵山」がある。






	<第37代斉明天皇> (続き)

	●斉明天皇は、史学界では「土木工事好き」とか稀代の「建設マニア」として知られている。日本書紀には「狂心の渠」(たぶれごころ
	 のみぞ)と表現されており、斉明朝を、学者によっては「造営と狂心の土木工事時代」とか「狂乱の時代」と呼ぶ人もいる。
	●日本書紀の「斉明天皇2年(656)是歳条」
	 時に、事を興すことを好ゐたまひ、すなわち水工をして渠(みぞ)を穿(ほ)らしめ、香具山の西より石上山に至る。舟二百隻を以
	 (も)ちて、石上山の石を載(つ)みて、流れの順に宮の東の山に控引(ひ)き、石をかさねて垣(かきね)とす。時の人謗(そし)
	 りて曰く、「狂心の渠。損費(そこないついや)すこと、功夫(こうふ)三万余。造垣(かきねづくり)功夫七万余。宮材(みやのき)
	 爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ)埋(うず)もれたり」といふ。また謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自ず
	 から破(こわ)れなむ。」といふ。











伝・飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)

	<伝・飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)/飛鳥浄御原宮遺跡(あすかきよみがはらのみやいせき) >

	●飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ)・・・明日香村一帯にあったと想定される古代都市の、主に飛鳥時代のものを指し示す名称。
	●7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えらる。
	●時期の異なる遺構が重なって存在・・ I期、II期、III 期遺構と3つに分類される。それぞれ I期が飛鳥岡本宮、II期が飛鳥板蓋宮、
	 III期 が後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺構。
	●III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視。
	●伝承より板蓋宮の跡だとされてきた。初期の発掘調査で見つかった遺構について国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいた
	 ぶきみやあと)として登録。この名称が流布。
	●遺構の全体の範囲はまだ不明。範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
	●「飛鳥京跡」といえば上記の宮殿遺構を指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600ル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示さ
	 れたり、また、宮殿遺構の北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもあり、
	 「飛鳥京跡」が指し示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではない。












	飛鳥浄御原宮の北に大型建物跡…想定超える規模を確認  (2009年2月9日22時40分  読売新聞)

	奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武、持統両天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮(672〜694年)の北限とされてきた溝の北側
	から、大型建物跡など2棟が出土し、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。
	 同宮が南北800メートル以上の規模だったことが確実になり、同研究所は「宮の北限についてはさらに、調べる必要がある」として
	いる。
	 2007年に見つかった石組みの東西溝の東側で同様の溝が見つかり、その北側で小さな建物跡が出土。さらに東約60メートルで、
	東西15メートル以上、南北7メートル以上の大きな建物跡や砂利敷きの広場(南北約15メートル)を確認した。この建物跡は何らか
	の役所で、広場に役人が整列して儀式などを行ったとみられる。
	 飛鳥浄御原宮では、天皇が執務する正殿など中枢部の周囲に、役所や、大庭園の「苑池」が築かれた。今回、出土した溝の北約40メ
	ートルには、596年に創建された国内最古の本格寺院、飛鳥寺の門前広場がある。
	 現地説明会は14日午前10時30分〜午後3時30分。奈良交通バス飛鳥大仏前下車。駐車場はない。

	 和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)の話「建物跡には広場もあり、格の高い施設だったのだろう。飛鳥浄御原宮では中枢
	部以外の構造がよくわかっておらず、宮の北側がどうなっているのか、今後の調査に期待したい」















川原寺





	<川原寺(かわはらでら)址>
	●川原寺(弘福寺)・・・飛鳥時代に飛鳥寺、大官大寺、薬師寺とともに飛鳥四大寺に数えられた官寺。7世紀頃の創建と考えられてい
	 る。昭和32、33年に発掘調査が行われた結果、2つの仏殿と塔を含む大きな寺院であることが明らかになった。
	●中金堂の南に西金堂と塔が対面する独特の配置は、川原寺式伽藍配置と呼ばれる。
	●また弘福寺には瑪瑙の礎石と呼ばれる白大理石製の非常に珍しい礎石が残っている。









亀石・鬼の雪隠・鬼の俎


<飛鳥の石造物 亀石・鬼の雪隠・鬼の俎(かめいし・おにのせっちん・おにまないた)>













吉備姫王墓・欽明天皇陵・猿石



	<吉備姫王墓(キビヒメノミコのはか)・猿石>

	●欽明陵の西側にある小円墳に比定。未確定。第36代孝徳天皇、第37代斉明天皇の生母。
	 「日本書紀」・・・・吉備姫王は、皇極天皇2年9月に崩御、檀弓岡(まゆみのおか)に葬られた。
	●墓陵内に元禄15年(1702)に欽明天皇陵南側の池田から掘り出された4体の石像物があり、一見猿ににているところから「猿石」と
	 呼ばれる















	<蘇我氏>

	●蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、
	 代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。

	蘇我:『日本書紀』、 宗我:『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』『日本三代実録』、 巷奇:『元興寺縁起帳』 

	<系図>


			   孝元天皇
			     ┃
		       彦太忍信命
		         ┃
		 	  屋主忍男武雄心命(『古事記』には無し)
		         ┃
			   武内宿禰
		(武内宿禰以前は後世の架上と言われており、蘇我石川宿禰も子孫の石川氏
			による創作と見る説がある。)
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	           蘇我石川宿禰
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	             満智
	              ┃
	             韓子
	              ┃
	             高麗(馬背)
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	             稲目
	          ┏━━━╋━━━━━━┓
	    欽明帝┳堅塩媛  馬子     境部摩理勢
	  ┏━━━━┫      ┣━━━┓
	 推古帝  用明帝    蝦夷 倉麻呂(雄当)  
	             ┃   ┣━━━━━━┳━━┳━━┳━━┓
	             入鹿 倉山田石川麻呂 赤兄 連子 日向 果安
                  ┃      	┃
	              天智帝┳姪娘     安麻呂
 	                 ┃        ┃
 	               元明帝      石川石足
	                          ┃
	                           年足
 	                          ┃
                                名足



	<物部氏>

	●物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先
	 と伝えられる氏族。
	●元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。五世紀代の皇位継承争い
	 において軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。
	●連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。穂積氏、采女氏をはじめ、同族枝族のすこぶる多いことがその特徴として知
	 られる。


	<系譜>	 主として『先代旧事本紀』に拠る。  

		     饒速日命
		      ┃
		     (6代略)
		      ┃
		    物部十千根
		      ┃
		       胆咋
		      ┃
		      五十琴
		      ┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓
		      伊?弗         麦入      石持
		  ┏━━━╋━━━━━━━┓  ┣━━━┓
		  真椋 布都久留(懐)   目  大前  小前
			      ┣━━━┓   ┃
		      木蓮子  小事  荒山
		      ┃       ┃
		      麻佐良      尾輿
		      ┃       ┣━━━┳━━━┓ 
		      麁鹿火      御狩  守屋  贄子
		              ┃
		              目
		              ┃     
		             宇麻呂(馬古・宇麻乃)
		              ┃
		             石上麻呂


	<磐井の乱>	
	体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのが物部氏。これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年
	の7月に死去。磐井は攻めてきた麁鹿火に対して、「同じ釜の飯を食った仲間ではないか」と言っているので、この二人はいずれかの地
	で、ともに暮らした年月があったものと思われる。

	<蘇我氏との対立>	
	宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(もののべのおこし、生没年不詳)が大連(おおむらじ)になった。『日本書紀』によると、
	欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする崇仏派と物部尾興、中臣鎌子を中心とする
	排仏派が争った。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類する
	ことは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もある。

	<稲目と尾輿>
	蘇我稲目は欽明天皇より仏像を賜り、熱心に礼拝した。昔から神祇崇拝を重んじてきた物部尾輿はこれに反対し、寺を焼き、仏像を難波
	の堀江に流した。

	<馬子と守屋>
	稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした。敏達天皇の時代に馬子は父の志を継ぎ、熱心に仏像を礼
	拝した。馬子は、司馬達等の娘等三人を尼とする。物部守屋は父の志を継ぎ、中臣勝海と共に仏教崇拝に反対する。敏達天皇の崩御後、
	守屋は穴穂部皇子を奉ろうとしたが、馬子はこれに反対し、用明天皇を立てた。用明天皇は三宝に帰依する意志を示したため、群臣は二
	派に分かれることとなる。守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺を焼くということをしてしまった。そして前述三人の尼を
	鞭で打った。しかし、それ以後疫病が流行し用明天皇が崩御した。これにより皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天
	皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后(用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により蘇
	我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込んだ。当初、物部守屋は有利であったが守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で
	戦死した。

	<物部氏の滅亡>
	用明天皇が崩御すると、物部守屋は再び穴穂部皇子を立てようとした。馬子は炊屋姫(後の推古天皇)からの断罪を理由に穴穂部皇子を
	殺害。穴穂部皇子を応援していた守屋は、馬子や仏法の加護を受けた厩戸皇子の活躍で蘇我軍に殺される。馬子は崇峻天皇を立て、倉梯
	に宮を造る。ここに物部氏は滅び、蘇我氏専横の時代を迎える。



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