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秋田県立博物館 2007.9.14(金) 秋田県秋田市








ちょうど正午頃に博物館へ着いたので、国道を引き返して「いなにわうどん」を食べてから再びやってきた。




	秋田県立博物館

	秋田県立博物館は、考古・歴史・民俗・工芸・生物・地質の6部門と、「菅江真澄資料センター」・「秋田の先覚記念室」からなる
	総合博物館。博物館の周囲は女潟・男潟の二つの沼をかかえた県立小泉潟公園になっている。公園内には、日本庭園「水心苑」やフ
	ィールドアスレチックコースも設けられている。昭和50年に開館したが、開館から約30年が経過し、施設の老朽化、調査研究の
	進展、生涯学習の拠点としての役割の増大などの理由から、21世紀にふさわしい博物館像が求められるようになってきた。これを
	受けて平成14年度から展示の改編事業がはじまり、2年間の工事期間を経て、平成16年4月29日にリニューアルした。主な所
	蔵品は、人面付環状注口土器、大型磨製石斧などの重要文化財(いずれも考古資料)をはじめ、約10万点の資料を所蔵する。
	嬉しいことに入場無料で、見応え十分の博物館だ。私と一緒に相当数博物館をみたはずのwifeは、「この博物館が一番いい」と言っ
	ていた。申し出れば写真撮影もOK。












	人文展示室

	人文展示室は、「人とくらし」をメインテーマとし、時代ごとにテーマを設定して展示を行っている。リニューアル以前はブランチ
	方式による一方通行の展示順路だったが、今回は中央に広い通路を設けることで開放的な空間をつくりだしている。展示室内は、特
	に縄文時代と近世(江戸時代)に大きなスペースが確保されている。実物資料や映像・模型などによる展示に加え、縄文時代の竪穴
	住居と近世の商家の店先が原寸大で復元されている。これらは実際に中に入って、当時の暮らしを体感できるようになっている。そ
	の他の時代においても、実物資料を豊富に展示し、資料を通して各時代の人々の営みを肌で感じ取ってもらえるよう工夫されている。
	(と、博物館のHPから。)




	秋田県は(だけではないが)、遺跡と言えば旧石器時代、縄文時代である。勿論人々の営みは連綿と現代まで続いているのだが、何
	といっても東北はこの時代の色が濃い。つい最近までは、西日本には全く縄文遺跡の痕跡が無くて、縄文時代、まるで西日本には人
	が住んでいなかったのではないかと思わせるほどの「東高西低」だったが、鹿児島県の上野原遺跡の発掘を初めとして、最近西日本
	でもあちこちで縄文遺跡が出現して、やはり西日本にも縄文時代はあったのだという状況になりつつある。先日、鹿児島や宮崎の考
	古学関係者の話(講演会、セミナー等)を聞く機会があったが、彼等に言わせると、まるで縄文時代も西から始まったような雰囲気
	だった。確かに西日本の縄文時代は、東とはまた異なった特色を持っていて(貝輪や貝殻製のアクセサリーなど。)、大いに栄えて
	いた状況は理解できる。しかし縄文時代がどこから始まったかなどは、まだ全く未解決の問題だし、いまはただ、日本列島全体にお
	いて、それぞれ人々は旧石器から縄文時代をたくましく生きていたという理解に留めて、今後のさらなる遺跡の出現に期待したいも
	のではある。









縄文時代 =縄文メニュー= (上左)



縄文時代 =竪穴住居の復元=












秋田県(北東北)には、大湯のストーンサークルを初めとして環状列石の遺構が多い。縄文人達の精神を垣間見る。







縄文時代 =土器の変遷=




旧石器、縄文時代は石と土の文化である。その後の日本人は、近代になるまで全く石の文化は捨て去ってしまった。
日々の暮らしの中で、実に根気よく石と格闘してこのような石の棒を造っている。何に使ったのか聞いてみたいものだ。






縄文時代 =土偶の数々=







平たい土偶や石偶。これも一体何に使ったのだろうか。









弓に漆を塗るというのは、果たして見栄えかそれとも保存の為だろうか。






	縄文中期から晩期にかけて、おもに関東から東北に見られる注口の土器。土器が発見され、縄文で飾られるようになり、縄文時代を
	迎えるが、縄文土器の最大の特徴は、火にかけられること、煮炊きができるようになったことである。土器は吸水性が高いので、当
	初は水もれするのだが、1回使うと豚汁や米のとぎ汁などの油脂がしみ込んで、次第に水がもれなくなる。縄文中期後半になると、
	煮炊き用の深鉢、盛りつけ用の浅鉢に加え、釣り手や注口のついた土器が現れる。貴重な蜜やさけを入れて祭祀儀礼用に使われたと
	する説もあるが、実際の所、用途は不明である。しかしその形状からみて、現在の急須のような使い方だったのは間違いない。


注口土器。青森県十和田市大不動出土。高さ21.8cm。縄文時代(後期)。重文。東京国立博物館蔵。



注口土器。茨城県稲敷郡東村福田貝塚。縄文時代(後期)。高さ13.5cm、底径6.8cm、口径6.6cm。東京大学資料館。







この磨製石器などは、ここまでになるのにどのくらいの期間を要したのだろうか。









石器時代 =石器の使い方=(上右)







	『人面付環状注口土器』。重要文化財。この土器は有名である。いろんな雑誌に載っているが、残念なことにあまり良く写っていな
	い。デジカメ換え時かなぁ。200万画素だもんなぁ。





この「北の縄文 文化回廊展」には、御所野遺跡の博物館でお目に掛かった。







弥生時代 =米作りが伝わる=








	地蔵田遺跡(じぞうだいせき)
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	地蔵田遺跡は秋田市南東部にある御所野台地の南端、標高31m前後の東西に長い舌状台地上に立地している。昭和60年に秋田市
	教育委員会が発掘調査し、旧石器・縄文・弥生時代の複合遺跡であることがわかっている。特に注目されたのが木柵で囲まれた弥生
	時代前期の集落跡で、平成8年11月6日に国の史跡に指定された。発見された遺構は、竪穴住居跡4軒、木柵跡3条、土器棺墓
	25基、土壙墓51基である。出土した土器の中には、北九州地方の影響を受けた遠賀川系土器も含まれており、東北日本海沿岸北
	部に早くから弥生文化が伝わったことがわかる。秋田県内の代表的な弥生遺跡である。




	<竪穴住居・木柵跡>	地蔵田遺跡
	4軒の住居跡は、直径8〜13mのほぼ円形の竪穴住居で、周囲に溝がめぐっていた。各住居には2〜6回の建て替えが行われてい
	た。木柵跡は防御的意味合いの強い柵と考えられ、地蔵田遺跡では3条確認されている。径20〜30cm深さ36〜60cmの柱
	穴が連続して認められ、長軸61m、短軸47m、全長約170mの楕円形を呈し、東側と西側は二重になっている部分もあり、作
	り替えがあったと考えられる。いくつか途切れるところもあり、出入り口と考えられる。南東側で最も外側に作られている木柵は、
	墓域を集落と遮るための目隠し塀と考えられる。これらを見ると、西日本同様、東北に於いても弥生文化(稲作?)は争いを生じて
	いるのがわかる。




	<土器棺墓>	地蔵田遺跡
	死者を土器に入れて埋葬した墓で、壺形土器と甕形土器が出土している。壺形土器の中には、西日本の弥生前期に栄えた遠賀川系の
	土器や、縄文時代の伝統を継ぐ縄文がほどこされた土器等が確認されている。してみると、この地方で弥生文化の担い手は縄文人だ
	ったことが分かる。つまり弥生文化をもたらした人々が、彼等だけで集落を形成したわけではなく、在地の縄文人たちと融合し、そ
	の文化に縄文文化も混ざったということなのだろう。それにしても、西から来た弥生文化が東北に行き渡る速度は結構速い。青森の
	砂沢遺跡や垂柳遺跡で発見された稲作文化の痕跡は、ほとんど弥生時代の初めである。西日本に稲作が根付いた頃、もう北東北にも
	水田がある。これはほんとに稲作が西から来たのだろうかという疑問を抱かせる。もしかしたら、朝鮮半島東部から、直接日本海側
	へやってきた集団もいたのかもしれない。或いは、北九州の人々が、土器と稲を携えて北へ北へと対馬海流を旅してきた。一般的に
	は、こちらが定説であるが。




	<土壙墓>	地蔵田遺跡
	地中に墓穴を掘り、死者を埋葬したお墓で、掘り方が円形・楕円形・小判形をしており、深さは60p〜1mくらいまである。2基
	から玉類の副葬品が出土している。「玉類の副葬品」などは全く西日本の葬送儀礼と同じやなぁ。下のジオラマ写真はまるで福岡の
	板付(いたづけ)遺跡を見ているようだ。
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	(参照:秋田市教育委員会HP)





位置関係から言えば、当然北(北海道や青森)の影響も受けている。北と南が混在している。





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古代 =秋田城と払田柵=




	払田柵跡	秋田県仙北郡仙北町払田・千畑町本堂城回(秋田県埋蔵資料センターの向かい側に、一部復元されている。)

	払田柵跡(ほったのさくあと)とは、秋田県大仙市払田と仙北郡美郷町千畑にまたがって位置する、平安時代の城柵遺跡で国指
	定史跡。「幻の柵」とも呼ばれる。軍事施設と行政施設の役割を果たしていたと考えられているが、この遺跡は文献に全く残っ
	ていないため定かではない。払田柵は、最初801年に造成された。その年代は、ここで使われた材木の年輪のパターンから判
	明したし、払田柵跡からは「嘉祥二年正月十日」と記された木簡が発見されており、この結果とおおよそ一致する。その後この
	城柵は、150年ほどの間に、4回立て直されて使用された。東西1380m、南北780mほどの楕円形の範囲を木の柵で巡
	らした、行政、軍事の中心になった城柵。横手盆地の北部に位置し、硬質泥岩の丘陵である真山(しんざん)と長森(ながもり)
	を囲むように外郭が築かれ、そのさらに内側には、長森だけを囲むように内郭が築かれている。内外郭の東西南北にはそれぞれ
	掘立柱建物の門が築かれていた。 長森の中央には、板塀で囲われた平安時代の政庁と思われる建築物の跡が残されている。
	その配置と造営技術は律令制官衙様式に則っている。小高い丘の上に建てられた大きな建物の柱の跡や、幅12mもあるメイン
	ストリートが発掘によって確かめられた。
	このような点で、多賀城などと同じ、この時代に置かれた城柵であることは確実であるのに、この城柵は続日本紀に記載されて
	いない。発見されたのは昭和5年、地元の人が水田に木の杭が連続しているのに気づき、発掘調査された。払田柵跡は旧仙北町
	の観光資源であったため、外郭南門・大路・政庁等を復元するなどの整備がされている。また、出土品は近接する払田柵総合案
	内所や秋田県埋蔵文化財センターで見ることができる。それ以外の場所はほとんどが民家や田圃となっている。今回は訪れなか
	ったが、数年前、家族で田沢湖や角館を訪問したとき、この脇の道を通って行った。今回も寄りたかったが残念だった。





外柵南門を通して政庁域を見る(復元:秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)



博物館には、当然この後の時代もたくさん展示品があるが、後は割愛する。是非ご自分で訪問して見学されたし。





	菅江真澄資料センター

	江戸時代の後期、秋田に四半世紀余りも滞在し、当時の自然と人びとの営みを記録した菅江真澄。その資料や記録を集積し、真澄研
	究の拠点とするためにつくられた施設である。複製資料や映像で真澄の足跡を紹介する常設展示室、文献やDVDソフトを備えたス
	タディルーム、検索閲覧室などがある。






	菅江真澄		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	菅江真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。
	生まれは、三河国渥美郡吉田付近と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。
	父は秀真、母は千枝か。吉田町札木の植田義方に和学、和歌を学んだ。1770年頃から尾張藩の薬草園につとめ、1780年生家に戻った。
	その間丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。各地をしばしば巡って紀行を執筆。一説には、これ
	にはスポンサーがあり、彼が書いたものを本にして出していたともいう。1783年故郷を出奔。刃傷などやましい事があったのではと
	も推測されるが、その理由は不明。故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしているので、余程の事件があったものと
	は思えない。いずれにせよ、以来、信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。

	旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート
	(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもある。写実的で、
	学術的な記録としての価値も高い。彼は、本草学を下にして、多少の漢方の心得もあったという。著述は約 200冊ほどを数え、「菅
	江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で、東洋文庫に収録され、2000年以降、平凡社ライブラリーから5巻本として刊行され
	ている。
	1811年以後、秋田藩の久保田城下に住み、以後藩主の佐竹氏とも親交を持ち、秋田藩の地誌の作成に携わり、その後は藩内から外に
	出ることはなかった。何時の頃からか、秋田に住み始めた頃から、道士のような被り物を頭に被り、それがそもそも吉田を出奔する
	に至った刀傷を隠すためではとも推測されたが、実際にはそのような傷はなかったといわれる。



	自然展示室

	自然展示室は細長い空間を活用し、立体的で迫力のある展示が作り上げられている。展示室は生物の展示である「いのちの詩(うた)」
	ゾーンと、地質の展示である「大地の記憶」ゾーンから構成されている。生物の展示は、秋田の生き物を自然環境ごとに紹介されており、
	地質の展示は46億年前の地球の誕生から現代に至る秋田の大地の形成を時間軸に沿って展示している。自然展示室ではできるだけ多く
	の実物資料を展示し、その中から秋田の自然を身近に感じ、生命を育む自然環境の豊かさや、ダイナミズムを感じてもらえるように工夫
	が凝らされている。生物の展示ではアクリル封入標本や真空凍結乾燥などの新技術を用いて、できるだけ自然に近い状態の標本が見れる
	ようになっているし、地質の展示は実際にさわっていい標本がある。



大迫力のナウマンゾウ全身骨格標本







地質 =デワクジラ=











	<秋田の風土と秋田美人>

	秋田県の東には奥羽山脈がそびえ、山脈に源を発する川が西に流れ田畑を潤して、日本海へと注いでいます。秋田の地に暮らした人々は、
	こうした山・川・海の恵みを受けてきました。その歴史は三万年前までさかのぼることができます。
	秋田のお国自慢といえるのは、豊かな自然の恵みを受けて作られたお米やお酒があります。人もまた自然の恵みを受けた存在であり、と
	くに女性はその美しさから「秋田美人」として全国に知られています。この展示では、絵に描かれた、また写真のレンズを通して表現さ
	れ、美しい秋田の女性像を紹介し、そのルーツをたどっていきます。








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