Music: gently weep




2007年9月17日(月)
岩手県二戸郡一戸町



	今回の「北東北の旅」で一番行きたかった遺跡である。数年前に「新泉社」の「遺跡に学ぶ」シリーズで、この「御所野遺跡」の本
	を買ったときから、いつかは行こうと決めていた。何度か読み返したので、遺跡の概要はほぼ頭に入っていたが、それでも実際に現
	地へ来ないと分からないことがたくさんあって、やはり古代史の勉強はフィールドワークだと強く思う。遺跡探訪は、珍しい遺物や
	変わった物が出土して、それが出たところを見に行くとか、有名になった遺跡を一目この目でというような観点も無いことは無いが、
	一番肝心なのは、その遺跡を構成していた人々と同じ所に居ることなのではないかと思う。

	遺跡に立って、廻りの風景や復元された建物を見、埋め戻された遺構などを想像するとき、まるで縄文人達が目の前で生き生きと動
	き回っているような気にさへなる。子供達の歓声なども聞こえてきそうである。古代の人々と同じ山を見、同じ川のせせらぎを聞き、
	同じ風を頬に受けて、はじめて、彼等がどういう思いであの土器を作り。あの石器を磨いたのかが分かるような気がするのだ。
	あいにくこの日は昨夜からの雨で、遺跡全体をゆっくり見て歩くという状況ではなかったが、それでも長年夢見た遺跡へ来れて十分
	幸せだった。




	御所野遺跡は縄文時代中期後半の大規模集落遺跡で、平成元年(1989)一戸町の農工団地造成のために調査され、縄文時代中期末の
	配石遺構と竪穴住居跡、古墳18基が発見された。面積は54、675平方mで、東西約500m、南北約120mの範囲に、中央
	部、東西の三つの村があった。中央部は、中心の広場と配石遺構、墓坑の外側に大きな掘立柱の建物が巡り、C字型に住居跡が囲ん
	でいた。西の村からは保存状態の良い焼失住居が数多く発見され、検討の結果、全国で始めて土屋根式住居であることが判明した。
	その後の調査で、東、中央、西と3つの集落は、計画的に配置された村であることも判明した。東京ドームの約1.4倍の台地のほ
	ぼ全面に、600棟以上の竪穴住居跡が分布していたものと思われる。
	平成5年に国指定史跡となり、その後整備が進められ平成14年に、御所野縄文博物館を核とする御所野縄文公園がオープンした。
	出土遺物は、縄文時代中期末の土器、石器のほか耳飾・ミニチュア土器、奈良時代の土師器の壺や甕、鉄斧や腕輪などがあり、遺跡
	内の博物館に展示されている。一戸町は、この遺跡の目玉である「土屋根の竪穴住居」を復元し、その再現(焼失実験)などで話題
	をよんだ。






	この遺跡への道はわかりにくい。特に4号線を南からとか入ってくると案内板は立っているのだが道がない。途中で切れたりしてい
	るので、車で行く場合は北から入るべきである。それでも遺跡直前の道はまるで農道で、狭いことこの上ない。駐車場・遺跡・博物
	館は立派に整備されているのに、道路がこれではと思ってしまった。
	駐車場に車を入れて、雨が強く振り出したので大慌てでエントランスへ走る。遺跡、博物館への入り口は、なんと木で造った吊橋で
	ある。「きききの吊り橋」と名づけられている。駐車場と博物館を結ぶ木製吊り橋で、屋根付きのカーブした吊り橋という非常にめ
	ずらしい橋である。全長約120mがたった1本の鉄柱で支えられている。床も壁も木材で、ところどころに土器や土偶のレプリカ
	が置いてある。昔TV映画でやっていた「タイムトンネル」のような形状だ。吊橋の隙間から眼下の谷間を見ると結構高い。遺跡の
	ある台地はこの深い谷で外界と隔てられている。遺跡は、馬淵川東岸の、標高約200mの河岸段丘上に位置している。










	きききのつり橋を渡ってくるとそのまま博物館の中へ入っていくようになっている。もちろん中へ入らずに脇から遺跡へ行くことも
	できるが、ここまでされていたらまず博物館に入らないわけには行かない。それに、見学者はまず博物館で御所野遺跡の概要を見学
	してから遺跡を見たほうがいいだろう。そのほうが遺跡を見たときのイメージも増幅するに違いない。
	博物館の大きさは2,600uあり、この博物館も遺跡の竪穴住居と同じく土屋根造りになっている。縄文の風景に溶け込むように
	という意図だろう。








	この遺跡は縄文時代中期の大規模集落跡である。今から約4,000−4,500年前と推定され、青森市の三内丸山遺跡とともに、
	北東北の主要な縄文集落跡で、4−500年続いたと考えられている。集落の真ん中には広場があり、そこに墓や大きな石を規則的
	に並べた配石遺構(はいせきいこう)が囲み、さらにその外側に多くの家がつくられるという、岩手県でも指折りの規模を誇る。三
	内丸山遺跡や千歳市の美々貝塚北遺跡と同じような、土が山と積まれた「盛土)」もみつかっている。ガイドさんの話では、配石遺
	構や墓を掘った部分の土を盛っているのだそうだ。




	平成8年の発掘調査で、縄文時代中期末(約4千年前)の焼失住居跡が5棟発見され論議を呼んだ。というのは、住居跡内に堆積して
	いた土が発見され、これは屋根を覆っていたのではないかとと考えられたからである。縄文時代の土屋根住居については、従来もその
	可能性を秘めた遺構も、一部では発見されてはいたが確定的ではなかった。それが御所野遺跡の出現でほぼ確実となったのである。建
	築材も竪穴の床面から出土し、屋根に土をのせたため炭窯のようになった建築材は芯まで炭化していた。その大半がクリ材で、他の縄
	文遺跡同様、この遺跡でも建築材としてクリが多用されている。建築材が良好に残っていたため、野外調査の段階から建築史の専門家
	に依頼し復元図が作成された。それに従って住居が復原され、土屋根住居も9棟、その他小型の樹皮葺き住居も復原されている。




	縄文・弥生時代の竪穴住居は全国で何十万棟も発見されているが、その上部がどういう構造になっていたのかは、全く分からないもの
	が大半である。幾つかの遺跡を訪れた時、きれいに復元された住居をよく見るが、あれらはほとんどが想像の産物なのだ。「こうだろ
	う。」「こうあってほしい。」という思いの元に作られている。柱は比較的部材が残っているので、住居の構造や壁はその形状が想像
	しやすいが、屋根についてはほとんどが不明である。数例萱葺と思われるものもあり、以前は竪穴住居はどこでも萱葺で復原していた
	が、最近の調査ではこの時代の住居の屋根構造は萱葺きだけではないことが判明しつつある。「御所野縄文公園」の復原住居は、単に
	展示物としてだけではなく実際に宿泊することができる。小中学生の体験キャンプに利用されているが、案内してくれたガイドのおば
	さんによると、「この頃の子は、30分もするともう帰りたいと泣き出しますね。」という。
	またこの遺跡では、実験的に復元した土屋根住居を実際に焼失させ、出土したものと比較しているが、まったく出土時と同じ状態だっ
	たという。








	発掘調査によりその存在が確認された東むら、中央むら、西むらは、調査後に土を被せ保存。現在は緑あふれる芝の広場として開放
	されている。その一画には、かつてこの地にあったであろうと推定される「掘立柱建物跡」「土屋根の竪穴住居」などを再現する。
	日本で始めて確認された土屋根の住居もあり、その内部に入ることもできる。






	御所野遺跡の特徴は、焼けた住居跡がいくつも見つかり、その調査過程で、全国ではじめて土屋根の竪穴住居が確認されたことであ
	る。公園のなかには、調査成果にもとづいた土屋根住居が9棟復原されている。ほかにも3棟の樹皮葺き住居も復元され、最終的に
	は600棟以上の竪穴住居があったものと思われる。










	遺跡の横には馬淵川(まべちがわ)が流れている。かってはここをサケが遡上していたものだろうと考えられる。今ではほとんど見
	られないが、かっては岩手県でもたくさんのサケが帰ってきていたのだ。馬淵川もそうで、この川は一戸町あたりから北に流れて、
	青森県八戸市で太平洋に注ぐ。狭い山間を縫うようにして流れる川の両側には、猫の額ほどの土地しかないのだが、御所野遺跡をは
	じめ縄文遺跡が軒を連ねるように密集している。ここからサケやその他の骨がたくさんみつかっていて、川に帰ってきたサケがこの
	地域の縄文人たちの生活を支えていたのだ。今では岩手県には猪はいないとされ、その北限は仙台あたりとされているが、骨は出土
	しているので、かってはこの地にも猪がいたのである。縄文時代の気候は、現在と相当異なっていたことが想像できる。



雨の中案内してくれたボランティア・ガイドのおばさん。かわいいオバサンだった。



上左は何とかいう植物(名を聞いたがわすれた)。この地方ではこれが最近までせっけんの代わりになっていたそうだ。



「縄文体験施設」。実際の柱穴から復元。柱を固定するヒモも、植物のカズラで造られている。この裏が馬淵川だ。







エントランスを持った、土を乗せた「掘立式住居」。当時では豪華な住宅だったのかも。



上左の林はクリ林。当時を想定して、畑にあった林をそのまま残した。



配石遺構は枠で囲ってあるが、あいにくの雨で水が溜まっており、その詳細な形状は見れなかった。




	遺跡は中央部の配石遺構(ストーンサークル)を中心として、東西に集落が広がっており、その全域が保存されている。配石遺構群
	は、段丘の低い所に北西方向へ広がりをみせ、180m×80mの範囲で発見された。小配石遺構が連なって、大きな配石遺構をつ
	くっている。さらに底部に穴のあいた深鉢土器が発見され、下部に墓が確認されている。古墳の形状は、円形または楕円形で、周溝
	は馬蹄形が多いようである。













上が、配石遺構が造られた際に出た土を盛ってできた「盛土」。



















この遺跡で拾ったクルミとトチの実(上右)と、古代のおかし(上左)。



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