Music: end_of_the_world
		
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		第209回例会 河内飛鳥北辺の史跡めぐり
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		玉手山丘陵は、河内国分駅の西方、柏原市片山町から南の羽曳野市駒が谷までの南北約3kmに及ぶ
		標高50〜100mの丘陵です。この丘陵の稜線上を巧みに利用して築造されたのが古墳前期の「玉手山
		古墳群」です。ここは、2009年の6月28日、第144回例会として訪問しました。あの時の参加者は、
		河内さん、栗本さん、錦織さん、杉本さん、郭公さん、筑前の6名でした。駅で見知らぬおじさん
		から「ぶどうの箱」を貰った時です。
		玉手山丘陵の北、大和川が石川に合流する直前に松岳山と呼ぶ独立丘陵があります。この丘陵上に
		墳丘長130mの前方後円墳、「松岳山古墳」が出現します。ここからは日本最古の墓誌が出土してい
		ます。「船氏」と書かれたこの墓誌は古墳の築造時期とは年代が合いませんが、かってここに「船
		氏」と呼ばれる豪族が居た事の証明になりました。
		この古墳と玉手山古墳群、大和の巨大古墳、そして次に現れる古市古墳群との時期的な関係は注目
		されます。今回の例会は「河内国分駅」の東方、大和川南岸に広がるこの松岳山古墳群と、国分の
		地名にもなった河内の「国分寺跡」「国文尼寺跡」をめぐります。おそらくPM3時頃には終了す
		るものと思われますので、ゆっくりと歩きましょう。

		 

		日時:  11月29日(日曜)
		集合:  近鉄大阪線「河内国分駅」AM10:00
		アクセス:
		     大阪組:09:16発→09:53着37分(乗車32分)530円 24.8km
			   ・大阪09:16(大阪環状線外回り) − 09:33着鶴橋09:38発 − 河内国分(近鉄大阪線
			   急行・名張行) 09:53着

		     奈良組:09:04発→09:53着49分(乗車40分)690円 40.8km
			   ・近鉄奈良09:04(近鉄奈良線急行・難波行 )−09:33着 布施 09:42発(近鉄大阪線急行・
			   名張行) − 09:53着河内国分駅

		持参:  弁当、水筒、雨具、防寒具、その他
		コース: 河内国分駅 − 松岳山古墳群・国分神社 − 河内国分寺跡 − 国分尼寺跡 − 
			  田辺古墳群 − 春日神社・田辺廃寺跡 − 立教館 − 河内国分駅(解散・反省会)
		概要:  以下






近鉄電車「河内国分駅」に集合して、まず国分神社を目指す。乾さんも久々の参加。



国分駅から国道25号線を北へ進み国豊橋の手前を右に折れ、大和川の堤防上を東へ進む。





古来大和川は洪水の被害がひどく、長い間治水に苦しんできた。
江戸時代には大がかりな「大和川付け替え」と呼ばれる大工事も行われている。



しばらく行くと住宅街へ入り、程なく「国分神社」に至る。






		「国分神社」 柏原市国分市場1-6-35

		大和川南岸に接する松岳山丘陵の南斜面に位置し、国分地区の氏神で、祭~は飛鳥大神(百済の辰孫王か
		混伎王)・少彦名命・大国主命、渡来系の祖神も祀っている。神社の北、丘陵の稜線上の数基の古墳群を
		松岳山古墳群と言う。
		中央の松岳山(美山)古墳(国史跡)は有名で、西面する全長146m、後円部の経82m・前方部の幅64mの前
		方後円墳である。高い後円部に低く平らな前方部を備えている。近年の発掘調査では、墳丘に葺石やテラ
		ス状施設が見られ、くびれ部付近では箱式石棺も見つかった。後円部の安山岩の板石を積み上げた竪穴式
		石室内に組合式長持ち型石棺がある。石棺の蓋石は縄掛突起(なわかけとっき)のある花崗岩、側石は香
		川県鷲の山産の凝灰岩で、棺内底石北側に石枕状の凹部を作る。
		石棺の南北には小さな外室と、大きな板状の立石2枚が墳丘上にある。出土遺物には玉類や銅鏡・鉄製武
		器・埴輪がある。全てにおいて特異な古墳で、4世紀末葉の大和政権下の有力者か、渡来系氏族の首長の
		墳墓かと考えられる。



		この神社は近鉄大阪線・河内国府駅の東約1km、松岡山古墳上に鎮座している。整頓された神社で、境内
		社にまで手入れが行き届いた、凜とした雰囲気が漂う。



		交 通: 近鉄国分駅 東1km
		祭 神: 大國主命、少彦名命、飛鳥大神
		例祭日: 4月15日・春例祭、10月16・17日・秋例祭
		境内社: 住吉社、八幡社、春日社、稲荷社、神明社、杜本神社



本殿

		由緒:

		創建年月は不詳だが、古書、口伝等によれば鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、
		舒明の両天皇に仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼(有職)、接待、技術等を伝え、その才の勲
		功があったと正二位の官位を賜ったが舒明天皇の13年(641)に没した。27年後の天智天皇の7年(668)
		妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳山の上に葬られた。その墓は前方後円墳で史跡とし
		て当社が所有している。
		境内地は、そのような古い歴史をもっているが、その後の武家政治による変遷により、船氏の地位も消失
		し、氏人達の信仰のあった大和桜井の三輪大明神の大国主命と少彦名命、飛鳥部の伴造飛鳥大神の三柱が
		分霊・勧請された。明治5年村社に列し、同40年字水谷の無格社杜本神社を合祀したが、昭和47年に地元
		の人々から復興された。
		この杜本神社は羽曳野市駒ヶ谷の杜本神社、柏原市国分東條町の杜本神社とともに式内社(名神大社)・
		「河内国安宿郡杜本神社二座」の論社となっている。 








神社のすぐ裏手が松岳山古墳で、そこから出土した鏡の写真が、本殿脇の小部屋に飾ってある。







摂社「杜本神社」の先に松岳山古墳への登り口がある。古墳はこの神社が所有している。



社務所で氏名を記入し古墳へ登る。











		[松岳山古墳] (まつおかやまこふん)

		松岳山古墳は、前方後円墳で4世紀後半のものと推定されている。大和川を左岸から眼下にする丘陵地
		に築かれた120mを測る前期の前方後円墳である。周辺には、ほぼ同時期の築造とされる径30mの
		円墳、東大塚古墳を筆頭とした7基の円墳と1基の方墳が存在したが、現存するのは、松岳山古墳の1
		基だけとなっている。



		松岳山古墳が築かれた4世紀の前半、大和では、盆地の北部で巨大な前方後円墳の築造が始まる。河内
		の石川谷では、玉手山丘陵を中心として、続々と小型の前方後円墳が造られていた。まだ、古市古墳群
		や堺の百舌鳥古墳群の姿はなかった。松岳山古墳は、特異な内容が目立つ古墳だといわれる。
		墳丘の長さは130mで前期の前方後円墳としては、やや大きい。墳丘の表面を覆う葺石の状態は斜面
		に礫(れき)を葺き上げるのではなく、板状の石を垂直に積み上げ、階段のように造っている。
		この方法は近畿ではあまり類例がなく讃岐(香川県)の積石塚古墳にそっくりである。







		後円部の頂上に造られた埋葬施設も注目される。棺は6枚の板石を組み合わせた石棺で、のちに長持形
		石棺と呼ばれる棺形式の祖形と推定される。この棺の周囲には、大量の板石を積み上げ、棺を保護する
		槨(かく)を築いている。さらに特異なのは、石棺の両短辺側に巨大な板石を立てていることである。
		この立石には、穴が開けられているが、どのような目的をもったものか、いまだ謎は解けていない。



		松岳山古墳は1965(昭和40)年に京都大学の小林行雄によって発掘調査が実施された。石棺の内
		部は、すでに乱掘を被っていたが、硬玉製の勾(まが)玉、碧玉製の管玉や丸玉、ガラス製の小玉、碧
		玉製の腕飾り形の宝器、鏡、銅製と鉄製の矢じり、鉄製の刀・剣・鍬(くわ)・鎌(かま)など多彩な
		副葬品が見つかった。
		前方部に接するように造られた茶臼塚古墳からも、柏原市教育委員会の調査で鏡や腕飾り形の宝器が多
		数出土していて、松岳山古墳に本来納められた副葬品が並みのものでなかったことがしのばれる。



何の為にこんな立石を石棺の上下に立てたのか。しかも同じような高さの位置に綺麗な真円の穴を開けているのだ。



我々もこれまで多くの古墳を見てきたが、こんな埋葬施設を持つ古墳は始めて見た。確かに「特異な」古墳である。



松岳山古墳の西に接する茶臼塚古墳の、竪穴式石室から出土した鰭付楕円形埴輪(上左)
とその出土時の写真(同右)。何れも現在柏原市歴史博物館にある。

		特異な構造と優れた副葬品に彩られて松岳山古墳に葬られた人物については、河内の最有力な首長(元
		国立歴史民俗博物館の白石太一郎を代表とする)、大和勢力の有力な一員(神戸商船大学の北野耕平を
		代表とする)とする見解に分かれる。
		ただ両方の見解とも松岳山古墳を造った勢力が古市古墳群の造営主体と深くかかわったとする点は一致
		している。つまり、松岳山古墳をどのように理解するかが古市古墳群の成立とその後の展開を解き明か
		す重要なキィーだと考えられる。  『広報ふじいでら』第323号 1996年4月号より







立石の穴から向こうを覗いても、対面の穴と直線になっている訳でも無い。或いは動いてしまっているのだろうか。





石棺の中は暗くて見えない。灯りを差し込んでも土砂と堆積物でどうなっているのか良くわからない。





「けったいな古墳やね」[始めて見ましたな」「あの穴は何やろね?」「ヒモでも通しとったんでしょうかね?」



		かって松岳山古墳の東方にあった、ヌク谷東の大塚・南塚・北塚古墳から、大型の歯車形碧玉製品や三
		角縁神獣鏡が、西方の茶臼山古墳からは青盖(がい)作盤竜鏡・吾作銘三角縁神獣鏡2面(いずれも重
		文)が出土した。
		近年の発掘調査では、松岳山古墳の西に接する茶臼塚古墳の竪穴式石室から三角縁神獣鏡や碧玉製品が、
		安山岩板石を積んだテラス状部分では鰭付楕円形埴輪が出土した。




		金銅製の「船氏王後首(ふなしおごのおびと)の墓誌」(国宝)もこの松岳山丘陵付近から出土したと
		伝わっている。あるいは古墳からとも言われる。長さ29.7cm、幅6.9cm、厚さ0.1cmで、表面に86文字、
		裏面に76文字が陰刻されているもので、667年(天智天皇7年)の日本最古の墓誌である。この丘陵一
		帯が百済系船氏一族の墓地であったのかも知れない。


		墓誌は現在個人の所有となっており、東京都中央区の三井記念美術館が所蔵している。墓誌は、松岳山
		古墳群から出土したと伝えられているが、出土の詳しい場所や時期など経緯は不明である。縦約30cm、
		横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い短冊形の銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻
		まれている。668 年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌である。また、文字使いや内容
		などから学問的にも貴重な資料だ。


		銘文(表) 

		惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也 生於乎婆●宮治天下 天皇之世奉仕於
		等由 羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之 朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位
		大仁品為第 	<●…こざとへんに施のつくり (原文は縦書き)>

		銘文(裏) 

		三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自
		同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万 代之霊其牢固永劫之寶地也 


		現代文に直すと以下の様な大意だろうか。

		「船氏の故、王後の首は、船氏の中祖であった王智仁の子である那沛故首の子である。敏達天皇の世に生
		まれ、推古天皇の朝廷で仕え(6世紀末から7世紀初)、舒明天皇の代に至った。天皇がその才能の卓越
		さと功績の高さを知って、大仁の官位(12階のうちの第3位)を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(64
		1年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668)12月、松岳山の上に葬った。夫人の安理故能刀
		自と墓を同じくし、その長兄である刀羅古首の墓のとなりに墓を作った。これは『即ち万代の霊基を安保
		し、永劫の宝地を牢固にせんと欲し』てのことである」











神社へ降りてきて、河内国分寺・国分尼寺跡へ向かう。



正式な神社の入り口である参道は凄い石段である。
我々は西の鳥居から来たので、帰りはここを降りる。登りで無くて良かった。













一の鳥居と道路を挟んで向かい側に「御旅所」があった。





		例会の途中、栗本さんが「井上さん、これあげるわ」と言って小石を差し出した。「何でっか、これ?」
		と聞くと、「松岳山古墳のとこにあった石」と言う。「えぇーっ,持って来たんでっか!」と驚いたが、
		よく見ると丸い形をしている。これは恐らく、大和川から小石を運んできて石棺の廻りに敷いたのではな
		いかと思う。とすれば、古墳時代初期に川から運ばれてきた小石なのだ。感激である。
		栗本さん、おおきに。

		松岳山古墳から南へ下り、国道25号にぶつかって真っ直ぐ東へ進む。程なくジェイテクト(旧光洋精工)
		の大きな工場が見えてくる。ここは筑前が現役時代担当していた顧客で、ここへは数え切れないほど通い
		倒した。その工場の裏手、南東の尾根上に「河内国分寺跡」がある。勿論現役時代にはそんな事は全く知
		らなかった。




国分小学校(中学だったけ?)の前を抜けて行く。周囲は田圃とみかん畑。



みかんを収穫しているオジサンに誰かが「2,3個分けてくれない?」と頼んだが、すげなく「ダメ!」と断られたそうだ。



		ここが非常にややこしいのは、「河内国分寺」という名前の、真言宗の宗教法人があるのだ。最初来た時
		には面食らった。毘沙門堂や資料館まであると喜んだが、また作っている最中だったり、ちゃちな、とて
		も資料館とは呼べないような展示だったり、遺跡の国分寺跡の施設と混同してしまう。



		河内国分寺・国分尼寺跡

		尾根は南から北に延びており、塔跡が東に、近藤・講堂跡が西に位置する。河内国分寺跡については長年
		探索されてきたが、1970年(昭和45)の発掘調査で、凝灰岩切石積みの見事な塔の基壇や塔心礎、石敷
		き面、国分寺特有の古瓦(大阪府文化財)が多数出土し、この地と確定した。現在塔跡は府有地となり、
		基壇上面の整備が行われている。塔跡付近には2009年に新たな宗教法人として設立された河内国分寺が建
		てられている。

		以下2枚の写真は、掲示板にも載せたが、今年の1月18日(日)、福岡の大川さんと河内国分寺跡に行った時
		の写真である。大川さんはドローンを持参しており、ここも上空から写したのだが、とうとうその写真は
		送って来なかった。その後ドロ−ン問題が起きて、とうとう法律まで出来てしまった。






現在聖武天皇の「国分寺跡」遺跡としてはこの基壇跡が残るのみ。

















ココで昼食にする。



上の方に宗教法人「河内国分寺」の施設が見えている。多くはまだ建造中である。

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その施設の一つである展望台から見た河内国分・大和川周辺の景色。
確かに昔は見晴らしは良かったかもしれない。クリックして貰えば拡大します。


		「国分東条町の集落の南200mにある国分東条墓地には、鎌倉末期の石造五輪塔(大阪府文化財)や室町末
		期の石造五輪塔などがある。ここから西へ行くと国分中学校があり、手前に「尼寺(にんじ)」という集
		落がある。ここが「国分尼寺」と推定されており、奈良時代の瓦が出土している。」とものの本にはあっ
		たんだが、大分探しても「国分尼寺跡」は発見出来なかった。近隣の人も誰も知らないので、或いはもう
		看板も出ていないのかもしれない。仕方が無いので田辺古墳群・春日神社(田辺廃寺)を目指す。




田辺古墳群も探したが見つからなかった。もう住宅地になってしまったのだろう。
ココが田辺池なのでこの周辺だったのは間違い無いが、どこにも古墳らしきものは無かった。






		田辺古墳群と春日神社と田辺廃寺

		田辺付近は、6〜8世紀に付近に居住した百済系の田辺氏の支配地である。奈良前期には田辺史(ふひと)
		が藤原不比等や光明子と深い関係にあり、藤原氏の勢力を背景に薬師寺式の東西両塔を持つ伽藍を完成さ
		せた。これが田辺廃寺跡(国史跡)と考えられ、春日神社境内にある。













		1972(昭和47)年の発掘調査で、東塔が■積基壇(せんづみきだん)、西塔が瓦積基壇、両塔のすぐ北側の
		近藤も瓦積基壇であることがわかった。また南大門跡も見つかった。
		付近にある出■・入■(でほぞ・いりほぞ)式の礎石や、この寺跡の中軸線上に乗る金堂跡の石仏の石台は、
		関連遺物と考えられる。
		寺跡と田辺史・藤原氏・春日神社の関係が注目される。境内には出土遺物を集めた収蔵庫があり、この神社
		の周辺の古墳群が田辺古墳群である。後期古墳から火葬墓へと変遷する墳墓が幾つか発掘されている。















廻りは立ち入り禁止だし、こんな立派な収蔵庫を立て、
埋蔵文化財を私物化して公開しないとはなぁ。神さんも了見狭いね。









		立教館

		神社から西に下り、国道 165号線を越え近鉄線を横切って更に西へ行くと、関西女子短期大学があり、その
		一角に立教館(府史跡)が移築されている。国分本町の旧奈良街道に存在した郷学校で、1830(文政13)年
		につくられ、頼山陽も訪れたという記録がある。







事務室に行って来意を告げると、一人の職員の方が「私が案内しましょう」と快く席を立って先導してクレタ。



		立教館

		文政13年(1830)、現在の柏原市国分に郷土の子弟教育のための学校・「立教館」が設立された。設立者
		は、国分出身の医師・柘植葛城(諱は常熈。通称は卓馬)という人物。
		設立当初は、明円寺(妙円寺)という寺の境内にあったようだが、その後、塾生(通学者)が増えて建物が手
		狭になったため、文久3年(1863)に新しく建て直されることになった。しかし、幕末の動乱の中、工事
		は遅れ、完成したのは、ようやく明治4年(1871)になってからのことだった。それが、現在、旭ヶ丘3
		丁目の関西福祉科学大学の敷地内に残る建物である。大阪府古文化記念物等保存顕彰規則による史跡指定を受
		けている。



		柘植葛城は、国分の医師・柘植常彰の長男。医師としては小石玄瑞の門下だが、医学を学ぶ以前には儒学者の
		中井竹山や頼山陽の門下にあり、特に山陽門下では「四天王」の一人といわれたほどの俊才だったという。
		文政12年(1829)に帰郷して医師を開業。翌年、地元の要請に応え、有志の協力を得て立教館を設立した。
		国分村以外からも通学者があり、多くの生徒たちが学んでいたという。新しい建物の建築工事中は、葛城の自
		宅が教室となっていた。



		しかし、葛城の存在が大きすぎたせいか、後継者に恵まれない何らかの事情があったのか、学制発布により明
		治6年(1973)に小学校(第25番小学=現在の国分小学校)が設立されると、その役割を終え、消えて行
		ってしまった。いや、むしろ立教館の関係者たちは、明治維新の到来という時代の中、新しい建物の完成をき
		っかけに館を私塾から国公立の学校へ転換しようと、慶応4年(1868)2月から政府に嘆願していた。
		(その後、明治3年9月にも嘆願している。さらに新しい建物が完成した明治4年にも嘆願、ようやく採択さ
		れている。)



		もし、小学校設立後も後継者に恵まれ、立教館は中等・高等教育を担当するなど、小学校との間に役割分担が
		行われていたなら、あるいは、その後、立教館高校や立教館大学にまで発展していったかもしれない。京都の
		立命館に対して、柏原の立教館といったところか。



		とはいえ、そのためには英語教育など、当時の時流やニーズに適合した教育でなければならなかっただろう。
		立教館の消滅は、儒学や漢学では、もはや時代遅れと思われたためかもしれない。



		明治4年(1871)10月、立教館は、嘆願採択により、それまでの私塾から公立の国分村小学校に変わった。
		しかし、そこで行われていた教育は、依然として、儒学や漢学を中心としたもので、明治政府の目指す小学校
		教育とは異なっていた。



		その後、設立された第25番小学は立教館の施設内に置かれたが、このとき立教館としての教育は事実上終わっ
		たと考えられる。そして、明治7年(1874)1月に葛城が71歳で亡くなった直後、立教館の建物は県(当
		時、現在の柏原市域は「堺県」に属していた)に献上されている。




		郷土の期待に応えて設立され、その役割を十二分に担った立教館は、江戸から明治に至る大きな時流の中で激
		しく浮沈し、歴史の中に消えていったようだ。



案内して頂いた職員の方に写して貰う。ありがとうございました。

		ところで、葛城の師・頼山陽は、たびたび葛城のもとを訪れており、国分付近の大和川の眺めを「河内嵐山」
		と名付けて称賛したといわれている。ただし、これについての史料的裏付けは見当たらない。むしろ、山陽は
		天保3年(1832)に亡くなっていることから見て、可能性は低いとも考えられる。「河内嵐山」と名付け
		ていたのは、葛城自身だったのかもしれない。









ホントにカワセミだった。みんなも驚いていた。







ちなみに下は、私がいつも歩いているWALKINGコースの南千里にある池(牛ケ首池)に、定期的に来てくれるカワセミ君です。





もうここで反省会しようと言う事になって探したら、国道沿いに「餃子の王将」があった。









安い!何と7人で割れば一人1,700円ちょいだ。反省会は中華に限るね。皆さん、お疲れ様でした。







邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第209回例会案内