Music: 年の初め





ここここ、今日はここがmainなのです。ここさえ見れば、ホントは後はどうでもいいいのだ! なんちゃって。
















上下併せて、本日のオールキャストで御座います。本日もご覧頂いて有り難う御座います。(お前は鈴木健二か!)



あれ、もう一人いなかった? あ、竹内さんが帰ったんだっけか。
		開催概要
		
		会期 平成26年10月18日(土)〜 12月14日(日) 
		会場 奈良県立美術館 
		交通 近鉄奈良駅@番出口から徒歩5分、JR奈良駅から 奈良交通バス「県庁前」下車 
		休館日 10月20日(月)11月17日(月)、25日(火)12月1日(月)、8日(月) 
		開館時間 午前9時〜午後5時(金・土曜日は午後7時まで)*入館は閉館の30分前まで 
		観覧料  一般 800円(600円)
			 大学・高校生 600円(400円)
			 中学・小学生 400円(200円)
			 *( )内は20名以上の団体料金
			 *身体障がい者手帳、療育手帳、精神障がい者保健福祉手帳をお持ちの方と介助の方1名は無料
			 *外国人観光客はパスポート提示により無料。付添の観光ボランティアガイドの方も無料
			 *留学生は無料入館パスポート(まほろばパス)提示により無料 
		主催 奈良県、朝日新聞社 
		共催 NHK奈良放送局、奈良テレビ放送(株) 
		協賛 シャープ(株) 
		後援 西日本旅客鉄道(株)、近畿日本鉄道(株)、阪神電気鉄道(株)、奈良交通(株)、(株)南都銀行、
		   奈良県旅館・ホテル生活衛生同業組合、歴史街道推進協議会 
		企画協力 (株)平凡社、(株)ワコールアートセンター 
		企画制作 (株)アサツー ディ・ケイ 
































天皇陛下も皇后様とご見学においでになった。2014年11月17日。










	序章 「太安萬侶神坐像」や美術館初展示の神像 

	古事記は約1300年前(712年)に、奈良の地で稗田阿礼が暗誦し、太安萬侶(おおのやすまろ)が編纂した日本最古の書物である。読み難
	い神様の名前や難しいという思い込みから、敬遠している人も多いかもしれない。しかし、読んで見れば大丈夫。最近は判りやすく解
	説した古事記や解釈本が沢山出ているので、古事記を全く知らない人でも楽に神話の世界に親しめる。

	

	古事記を編纂したとされる太安万侶を中心にした国家の一大プロジェクトチームは、後世に胸をはって伝えられる書物にしたいという
	熱い思いをもって取り組み、完成させたことだろう。まずはその思いを受け止めることから、『古事記』の世界への旅を始めよう。


	展示は、2階からスタート。最初に出迎えてくれるのは、奈良県田原本町「多坐彌志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社」所蔵
	「太安萬侶神坐像」と奈良県東吉野村の「丹生川上(にうかわかみ)神社」所蔵3体の神像、滋賀県栗東市の「小槻(おつき)大社」所蔵
	2体の神像である。
	特に注目なのは、「丹生川上神社」所蔵の「伝伊耶那岐命(いざなきのみこと)坐像」「伝伊耶那美命(いざなみのみこと)坐像」の夫婦
	神像と「女神坐像」の3体。美術館等初展示の木造である。「女神坐像」は彩色が良く残っており、衣の模様まで分かる。


	
	太安萬侶神坐像	[室町時代 多坐彌志理都比古神社蔵]

	
	太安万侶ゆかりの多神社本殿の第二殿に祀られ、『古事記』を編纂した太安万侶の像と伝える。立烏帽子風の垂形の冠に、袍と呼ばれ
	る貴族の装束をつけている。

	
	笏を左手で握り、右手の手のひらを笏の上部にそえてる構えは珍しい。大きくはねた眉、二重まぶた、小さなあごひげなどに写実性が
	感じられる。桧の寄木造。表面は彩色されていたが、現在は両袖の内側の朱色がわずかに残っている。本像の箱厨子のふた裏に、明和
	4年(1767)に「多朝臣安万侶御神像」を開扉されたことが記されている。

	

	


	
	伝伊耶那岐命坐像(でんいざなきのみことざぞう) [平安時代(794年-1192年)・丹生川上神社]

	丹生川上神社に奉安されている神像で、今回出品された三柱(他は、伝伊耶那美命坐像、女神坐像)のうちの一柱。伝伊耶那美命坐像
	の彩色がほとんど剥落しているのに比べ、一部に彩色が残っているのが特徴。伝伊耶那美命坐像とともに一木造り。
	いわゆるイザナギ。神世七代の最後に、妹のイザナミとともに誕生し、別天神(ことあまつかみ、別天津神とも)から国を固めること
	を託され、島産み、国産みを行い、神産みを行う。イザナミ没後、黄泉の国まで追いかけたが離別。その後、黄泉の汚れを祓う禊を行
	い、また多くの神をもうけ、最後にアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三貴子(三貴神)に恵まれる。
	アマテラスを高天原の、ツクヨミを夜の食国(をすくに)の、スサノヲを海原の、それぞれの統治を委託、わがまま言うスサノヲを勘
	当・追放した後、淡路の多賀に鎮まった。これが現在、淡路島に鎮座する伊弉諾神宮の起源だという。


	
	伝伊耶那美命坐像(でんいざなみのみことざぞう) [平安時代(794年-1192年)・丹生川上神社]

	伝伊耶那岐命坐像は一部の彩色が残っているのと比べ、伝伊耶那美命坐像は彩色がほとんど剥落している。袖あたりが炭化しているよ
	うに見えるのは、女神坐像と同じく、鎌倉時代に火災に遭ったためと伝わっている。伝伊耶那岐命坐像とともに一木造り。
	いわゆるイザナミ。神世七代の最後に、兄のイザナギとともに誕生し、別天神(ことあまつかみ、別天津神とも)から国を固めること
	を託され、島産み、国産みを行い、神産みを行う。神産みの十七柱目で、火の神・ヒノカグツチノカミを産んだ時、女陰が燃えて、重
	症。病床にあっても、おう吐物や糞、尿から神が生まれる。後、死亡。兄で夫のイザナギが埋葬してくれ、黄泉の国まで追いかけてき
	てくれたが、すでに黄泉の国の食べ物を食べていたために、体中に八雷神をまとうバケモノに。それを覗き見して恐れたイザナギが逃
	げ始めたので、ヨモツシコメなどを追手に遣わし、最後に自らも追撃するものの、最後は逃げられる。
	イザナギとの離別後は黄泉の国の神となる。後にイザナギの禊で産まれたスサノヲから母親として恋しいがられ、スサノヲが黄泉の国
	に行く大きな理由になったと思われる。

	
	女神座像(じょしんざぞう) [平安時代 丹生川上神社]

	丹生川上神社に奉安されている神像。伝伊耶那岐命坐像と伝伊耶那美命坐像よりやや大きく、衣に模様が描かれているなど丁寧に表現
	されており、全体的に彩色が残っているのも特徴。髪型は唐風であり、当時の中国の影響をうかがわせる。像の底部が炭化しているの
	は、伝伊耶那美命坐像と同じく、鎌倉時代に火災に遭ったためと伝えられている。
	 特に具体的な神名は伝わっていないが、同社のご祭神が罔象女神。ただし、同社にはこの女神座像とは別に罔象女神坐像というものが
	伝わっている。ちなみに、罔象女神は古事記においてはミツハノメノカミ。イザナミが重傷を負った際、その尿から生まれた神の一柱
	であり、日本の代表的な水の神。

	
	伝落別命坐像	[平安時代初期 小槻大社蔵 重要文化財]

	落別命は、『古事記』に登場する「落別王」で、第11代垂仁天皇と山代の大国之淵が女、刈羽田刀弁との間に生まれ、「小月の山の君
	(小槻山君氏)・三河の衣君の祖先である」と記される。一木造。黒い■頭冠をかぶり、筒袖風の古風な袍を着る。『日本紀略』に、
	延喜11年(911)に「小杖神」に従四位下の位が授けられたことが記されている。この身分の衣は、朝廷の衣服令によると深緋色とされ、
	この木像の袍もまた朱色に彩色されている。滋賀県栗東市に残る神像の中では最も古いもののひとつで、古代における小槻山君氏の強
	い勢力がうかがえる。



	第一章、古事記名場面 キーワード 「創」「旅」「愛」

	日本の著名画家達が描いた古事記の世界。古事記の中でもとりわけ有名なシーンを「創・旅・愛」のテーマに分けて展示して
	ある。解説にある物語の内容と照らし合わせながら、古代を楽しんで頂きたい。

	

	

	

	

	

	 

	■河鍋暁斎(かわなべきょうさい)

	『天の岩戸 天宇受売命の踊り・手力男命岩戸開き』『伊邪那岐命と伊邪那美命』など
	自らを画鬼と称し、幅広いジャンルの作品を描いた異色の日本画家で、幕末から明治にかけて狩野派の画家として、また狂画(戯画)
	などで活躍。海外での評価も高い。

	

	

	

	

	

	

	

	 

	■石井林響『童女の姿となりて』

	少女の姿に変装して、熊曾建(くまそたける)を討つため、宴会に紛れ込む小碓命(おうすのみこと:後の倭建命(やまとたけるのみこと)
	を描いた作品。描かれた鏡のモデルは新山古墳出土の直弧文鏡。

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	

	


	
	天の岩戸 曙光 [絹谷幸二 平成24(2012)年]

	奈良市出身の洋画家・絹谷幸二氏が、古事記編纂1300年にちなんで制作した連作の一部『天の岩戸 曙光』『天孫降臨 I』は、
	見学者に強烈なインパクトを与える作品である。イタリアでアフレスコ技法(フレスコ画)を研究した画家だそうで、鮮やかな
	色彩が特に印象的。

	
	天の岩屋から姿を現した瞬間の天照大御神の姿を美しく描き上げている。世界に光が戻り、神々の顔を照らしている。背後には
	太陽が輝き、周囲にはユリの花が舞っている。

	
	天照大御神の出現を喜ぶ神々の声が聞こえてくるようだ。大御神が手にしている剣は草薙の剣であろう。大御神を岩屋から連れ
	出す為に用意された八尺鏡に、大御神の顔が映っている。

	
	絹谷幸二は奈良市出身の洋画家。東京芸術大学名誉教授。イタリアでアフレスコ技法を学び、明るい色彩と空想性に富んだ作品
	で知られる。この作品は、古事記編纂1300年にちなみ、『古事記』を題材に制作された連作の内の一点。

	 
	黄泉比良坂	[青木繁 明治36(1903)年 東京藝術大学大学美術館蔵]

	
	火の神を生み焼け死んだ伊耶那美命を黄泉国まで迎えにきた伊耶那岐命は、変わり果てた妻の姿を見てしまい、恐れながら地上
	に逃げ去ろうとする。黄泉国の薄暗い闇の中で腕を振り上げ、髪を乱して伊耶那岐命を追う女たちは、伊耶那美命から追っ手と
	して遣わされた予母都志許売(黄泉醜女)たちである。青木繁は明治の洋画家。早くから才能を開花させ、風景画、肖像画の他、
	旧約聖書や『古事記』など様々な題材を取り上げた。

	
	※ほのぐらい黄泉国と明るい葦原中国とをつなぐといわれる黄泉ひら坂(『古事記』)。長い髪を振り乱しながら伊邪那岐命を
	追いかけるのは、黄泉国の醜女たちだ。画面の上右方の明るい部分に描かれているのが、ようやく地上に出た伊邪那岐命の後ろ
	姿である。


	

	
	木華開耶媛	[堂本印象 昭和4(1929)年 京都府立堂本印象美術館蔵]

	
	満開の桜の花の下でゆったりと坐る女神。これは、山の神である大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売(木華開耶媛)

	
	「木花」とは桜の花のこと。天照大御神の孫の邇々芸命が地上に降り立った際に彼女と出会い、結婚した。大山津見神は、邇々芸
	命が木の花のように栄えるようにと木花之佐久夜毘売を捧げ、また命の寿命が石のように不動であるようにと姉の石長比売を捧げ
	るが、命は石長比売だけを帰してしまった。そのため、その子孫は桜の花のように短命になってしまった。

	
	堂本印象は京都出身の日本画家で、仏教寺院などの障壁画も手がけた。戦後はヨーロッパを遊歴して油彩画・抽象画へ画風を展開
	させ、また彫刻や工芸など幅広い分野で活躍した。
		



	第二章、古事記の1300年 


	『古事記』にどんなことが書かれているのかなど、基本的な情報。この1300年の間、時代ごとに『古事記』がどのように受け入れ
	られてきたのかを振り返ってみる。

	
	太安萬侶墓誌 重要文化財  [奈良県太安萬侶墓出土]

	『古事記』を編纂した太安萬侶の墓は、1979年、奈良市此瀬町の茶畑開墾中に発見された。墓から出土した墓誌は短冊形の銅板で、
	表面には太安萬侶の居住地(左京四條四坊)、位階勲等(従四位下勲五等)、名前、没年月日(癸亥年(=養老7年・723年)七月
	六日)等41文字が刻まれている。この墓誌の発見によって、太安萬侶が実在した人物であることが明らかになった。

	


本居宣長四十四歳自画自賛像 重要文化財  [本居宣長記念館蔵] 『古事記』寛永版本・中巻  [本居宣長記念館蔵]
第三章 『古事記』に登場するモノ  竪櫛 [大阪府巨摩遺跡] 櫛は縄文時代から用いられている。縄文時代から古墳時代の櫛は、簪のように縦に長い(竪櫛)。現在と同じように髪を梳くために 使われたほか、髪飾りとしても使われた。火の神を産みやけどを負って亡くなった妻の伊耶那美命に会うため、黄泉国を訪れた伊耶 那岐命。「黄泉神と相談する間、私の姿を見ないで」と言った伊耶那美命はなかなか戻らない。伊耶那岐命は待ちかね、自分の左の みずらに挿していた湯津津間櫛という櫛の歯を一本折って、それに火をともして明かりにし、御殿に入り、恐ろしい姿に変わり果て た妻の姿を見てしまう。  勾玉 [奈良県新沢千塚500号墳] 「古事記」に勾玉が登場する場面はとても多い。天照大御神は暴れ者の弟、速須佐之男命を待ち受ける際、完全武装し、多くの勾玉を まとった姿で登場する。速須佐之男命が潔白を立証するための誓約を交わす場面では、天照大御神から勾玉を受け取り噛み砕くと五 柱の男神が現れる。天石屋戸の場面では、八尺瓊勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせ、賢木の上の枝に懸けた。また、天照大御神 は天孫降臨の際に邇々芸命に八尺瓊勾玉、鏡、草薙剣を授け、やがて三種の神器として今に伝わるとされている。 装身具であり祭祀にも用いられたとされる勾玉は奈良県の新沢千塚の出土品にもみられるように、材質はヒスイやメノウ、水晶など が多い。 弾琴男子椅座像埴輪  [神奈川県蓼原古墳 横須賀市指定文化財] 椅子に座り、膝の上に四弦の琴を乗せた男子像。髪を三方に分け、両耳で束ねて美豆良とし、残りの髪を後方で束ねて垂髪とする。 頭には帽子をかぶり、首には勾玉をあしらった首飾りをかける。 帯中日子天皇(仲哀天皇)は、熊曾を討つために神のお告げを伺おうと琴を弾いた。神は、息長帯比売命(神功皇后)に降り託宣を 下されたが、天皇は内容に誤りがあるとして聞き容れず、琴を弾くのをやめてしまった。神は怒り、天皇はにわかに崩御されたとい う。また、大長谷若建命(雄略天皇)は吉野で嬢子に舞を舞わせ自らは琴を弾き、「呉床座の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女 常 世にもかも」という歌を詠んだ。琴をひく埴輪は全国で数点出土しているが、奏でる者の多くが男子の姿であることも興味深い。 第四章 『古事記』ゆかりの古社の貴重な神宝や文献史料 七支刀 国宝 [古墳時代 石上神社蔵] 身の左右に各三本の枝刃を交互に作出した鉄剣。社伝では「六支鉾」または「六叉鉾」と称し、身に刻まれた銘文は「七支刀」と 記す。身の表面に34(35)文字、裏面に27文字が金象嵌の技法で刻まれている。また、文字を囲むように、身の縁に沿って金線が 象嵌され、それは各枝刃の元で分岐しながらそれぞれの中央にのびている。 象嵌の一部が剥落し文意不詳の箇所もあるが、銘文の大意は、泰和4(369)年に百済王世(子)が倭王のために七支刀を造った と解釈できる。『日本書紀』神功皇后五十二年条の「久?等従千熊長彦詣之。則献七枝刀一口・七子鏡一面、及種々重宝」(久■ らは千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上した)という記述にある「七枝刀」 が、七支刀を指すものと考えられている。 黒漆平文鏡台 国宝 [鎌倉時代 春日大社蔵] 支柱から下がる2本の腕の先に鏡を載せ、鏡の裏面中央の鈕に通した紐を支柱の金具に掛ける形式の鏡台。鏡は神の御魂が宿ると して神社で大切にされてきた。本鏡台は安定した形態に唐草形の装飾が付き、表面は黒漆塗り平塵(金粉蒔き)地に、現在は殆ど 失われたが平文(金属板の文様を貼り、漆を塗ってから研ぎ出す)が施されている。類似の鏡台を貴族の邸内で用いる様が、春日 明神の霊験を描いた「春日権現験記絵」にも見られる。 石見神楽提灯蛇胴 [島根県立古代出雲歴史博物館蔵]   『禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)』









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	■トーチカ『ゲームセンターアマテラス』

	奈良のアートユニット。天の岩戸に閉じこもったアマテラスを誘い出すため一心不乱に踊ったアメノウズメになりきって踊って
	みよう!というコンセプトの体感ゲーム型作品。実際に出てくる光に合わせて踊り、成功すると本当にアマテラスが出現!




















秋真っ盛り。古都は鮮やかに色づいています。



近鉄の地下道も「大古事記展」一色。ん? 近鉄に地下道なんかあったっけ。大阪市営地下鉄かな。












栗本さんが送って来てくれた●●春秋の記事へ行きます。(パスワードを入力して下さい。いつものです。)





 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/202回例会・大古事記展