Music: ベンチャーズ Diamond Head



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		第206回例会 奈良の都の官寺をたずねる
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		日時 : 8月2日(日曜日)10時  近鉄西大寺駅 橋上改札、南改札口
		持参 : 弁当、水筒、日よけ対策 など等
		コース: 近鉄西大寺駅 − 西大寺 − 垂仁天皇陵 − 唐招提寺 − 薬師寺 − 大安寺、杉山古墳
			 − 近鉄大宮 − 反省会

		今回は奈良の都が建設されると同時に藤原京より移された官寺のうち、都の領域に対称に配された薬師寺、
		大安寺や称徳天皇の思い入れの西大寺、鑑真和尚創立の薬師寺をめぐり建設当時の奈良の都の区割りを実
		感をする例会となります。下の地図は平城宮と各お寺の位置関係、と予定の行程図です。
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	毎年8月は暑いので例会は止めているのだが、今年は4月に205回例会で「醍醐」に行った後、5,6,7月と
	台風、手配ミス、その他で立て続けに例会が中止となり、8月にもかかわらず「どっか行こうや」という一
	部の人の声に押されて例会決行となった。西本さんが上記のようなコースを考えてくれたのだが、やっぱり
	エライ暑さで、とうとう唐招提寺を見たあたりで「もう止めようや、暑すぎるわ」という声がでて、午后三
	時前くらいに終了となった。垂仁天皇陵を歩いている時など、汗が背中を流れていたし、兎に角エライ暑さ
	だった。高野さんは久し振りの参加だったのにね。

西大寺




	西大寺     出典:ウィキペディア

	創建

	宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年
	(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は
	同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765 年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創
	建された。この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建
	当時のもので、像本体は後世の作に代わっている。
	西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的
	影響が大きかったものと推定されている。護国のために四天王像を安置するのは「金光明最勝王経」に基づ
	くものである。
	「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥
	勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の一つに数えられ
	る大寺院であった。
	前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のよう
	なものである。寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が
	建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、
	その北に政所院(まんどころいん)があった。中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これら
	の東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院が
	あった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められたという。
	『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には、密教系の像を含む、多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳
	されていた。薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含
	まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。
	しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。




	叡尊による復興

	西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201〜1290)である。叡尊は建仁元年
	(1201年)大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦
	二年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、
	嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。
	叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者などの救済
	に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如
	来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃し
	た諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された「西大寺末寺帳」には8か国、
	同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の
	国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属
	している)。




	室町時代以降

	西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再
	建である。なお、西大寺は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に
	属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、
	鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。































東塔の基壇跡。昔は上がれたんだが、今日は夏祭りなので規制しているのかもしれない。縄が張ってある。




















以下の女御殿の顔をクリックしていただけば、彼女による西大寺のナレーションが聞けます。内容はその下にあります。



	●西大寺 <さいだいじ>

	 一歩中に入ると、外の慌ただしさがまるで嘘のように、境内にはゆっくりとした時間が流れており、
	不思議ととても穏やかな気持ちにさせてくれます。境内には、四王堂、本堂、愛染堂、聚宝館などが
	あり内部も拝観できます。お堂の他に、広い境内には一段と高くなった基壇跡が見えます。
	これは奈良時代、東西にあった五重塔のひとつ東塔跡です。広々とした境内はとても静かで、落ち着
	いた雰囲気が充分に味わえます。創建当時はいったいどんなお寺だったのか、簡単にご紹介しましょ
	う!
	西大寺は東大寺を建てた聖武天皇の皇女、称徳天皇によって 765年・奈良時代中期に建てられました。
	創建当時はなんと約14万坪という広大な敷地に110 数ものお堂が建ち並び、文字通り東の東大寺に対
	する西の大寺にふさわしい大寺院でした。現在の建物は主に江戸時代に再建されたものです。
	 ここには奈良時代や鎌倉時代再興当時の仏像や工芸品などが数々残っています。四王堂には十一面
	観音立像が安置されています。背丈は約6mあり、美しいながらも下から見上げるととても迫力があ
	ります。手には開いた蓮の花を持っておられる珍しい観音様です。観音様の両脇には四天王立像が安
	置されています。それらの像が足で踏みつけている邪鬼だけは粘土で出来ていたため幾多の火災をま
	のがれ、当時のまま残っておりこれも見逃せません。
	本堂は寄棟造り、本瓦葺きで土壁を使わない総板壁の珍しい建物です。内部には本尊の釈迦如来立像
	などが安置されています。愛染堂では特別な日に公開される秘仏の愛染明王坐像が安置されています。
	他に鎌倉時代、西大寺再興を成し遂げた叡尊上人の像が安置されており、まるで生きているかのよう
	な、気迫に満ちたお姿をしています。最後に行事についてお話しましょう!
	 1月、4月、10月には「大茶盛」が行なわれます。これは鎌倉時代より西大寺に伝承される 750年
	以上の歴史をもつ行事で、大茶碗でお茶を飲むことで大変有名です。周りの人たちに助けてもらいな
	がらお茶を飲む光景は実に和やかです。普段は静かで昔を偲ばせる西大寺。ぜひこの素晴らしいお寺
	を訪れ、ゆったりとした時間をお過ごしください。


垂仁天皇陵










	垂仁天皇陵  出典:不明
 
	垂仁天皇御陵は近鉄尼ヶ辻駅より南西へ700メートル。のどかな田園地帯の中にある。近くにユネ
	スコ世界遺産の唐招提寺、薬師寺があり、奈良市の歴史的風土特別保全地区にあり、開発が規制され
	ている。近くに安康天皇の御陵がある。御陵は全長 227 メートル。全国で20番目の大きさで
	ある。
	垂仁天皇は日本書紀によれば 崇神天皇29年( 紀元前69年)に生まれた。宮殿は巻向珠城宮に
	遷都した。垂仁天皇は(紀元前23年)穴師山の麓のタカヤケシで野見宿禰と当麻蹴速に相撲をとら
	せ御覧になった最初の天皇として有名である。丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)の娘を後宮
	に入れその中から日葉酢媛(ひはすひめ)を皇后にした。
	皇女の倭姫命を元伊勢へ天照大神に仕えるため送った。日葉酢媛(ひはすひめ)が 亡くなった時、
	野見宿禰の進言を受け殉葬を廃止し埴輪に代えた。しかしこれは事実ではないと思われる。埴輪は 
	古墳時代初期(3世紀半ば)に築造された古墳からも発見される。
	垂仁天皇90年 垂仁天皇の命により田道間守(たじまもり)が常世へ非時香菓(ときじくのかぐの
	このみ)−不老不死の果物を求めて出発した。田道間守(たじまもり)は10年かかって非時香菓
	(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰ったが天皇はすでに西暦70年(??)亡くなっていた。
	田道間守(たじまもり)は 半分を皇后に捧げ残りの半分を天皇の御陵の前に献じ泣き悲しんだ。
	哀しみのあまり息絶えた。
	これを哀れんだ人々は 御陵の濠の中に田道間の墓を造った。垂仁天皇陵の「飛地」と記されている
	陪塚が周辺に6基ある。
	6世紀以前の記紀に記載されている年代は 信頼できず西暦70年(垂仁90年 )の天皇の崩御は
	350年ほどプラスして、御陵は 5世紀前半に築造されたと思われる。
	田道間守が 常世から 持ち帰ったという非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は 橘の一種で「大
	和橘」らしい。これは 日本の太平洋岸の温暖地にごくわずか自生している。酸味がきつく食用には
	適さないらしい。温州ミカンの原種かもしれないと言われている。橘の花は文化勲章の紋章にも取り
	入れられている。京都御所の右近の橘は大和橘だろうか。田道間守は 橘を常世から持ち帰ったが香
	菓が和菓子と混同され和菓子の始祖と崇められている。







ここで、南から歩いて来た若い男女三人組の外人さんに出合った。東洋人では無い。「What do you do?」と聞いたら
「Sightseeing、see Tomb」と言ったので、わざわざこの御陵を見に来たものらしい。このクソ暑いのに奇特な外人さん達だ。





唐招提寺






	実は私はココには何度も来たので、唐招提寺の中には入らず、一人だけ別行動をとった。なので唐招提
	寺内の写真がない。この時参加された皆さん、写真があったら送ってください。追加します。従って、
	後の「旧田中家住宅]訪問は筑前一人だけが行ったreportである。

以下の女御殿の顔クリックで唐招提寺のナレーションが聞けます。内容はその下です。




	●唐招提寺 <とうしょうだいじ>

	 風にそよぐ木の葉、小鳥のさえずり、陽の光、雨の音…。唐招提寺は、深い木立の中、縫うような道が
	巡るとても広い境内で、季節や自然を充分に感じ取れるお寺です。さぁ、これからこの唐招提寺をご案内
	いたしましょう。
	 入口である南大門を入ると、普段は大きな瓦屋根に鴟尾がのった立派な金堂を目にすることができます
	が、残念ながら現在は解体修理中のためその姿を見ることができません。でも諦めるのは早いですよ!
	なんと修理中の間は金堂の中を見ることができるのです。お堂の内部には廊下が設けられており、その廊
	下の窓から太い柱や梁といった金堂のきぐみ木組や、修理に携わる大工さんたちの姿など、通常ならめっ
	たに目にすることのできない金堂の内側を見ることができるのです。
	この他の境内の広大な敷地には、講堂、鼓楼といった数々の大小のお堂が建っており、静かにゆっくりと
	拝観することができます。
	 唐招提寺は 759年中国の高僧、鑑真和上によって建てられました。なぜ中国の僧がわざわざ日本に来ら
	れたのでしょう…。
	実は日本に仏教が伝来して200年間、正式な授戒を行なう僧がいませんでした。正式な僧になるためには、
	3人の僧・7人の証人による授戒というものが必要でしたが、中国から遠く離れた日本では授戒ができま
	せんでした。そのため聖武天皇が来朝を要請する使者を出され、鑑真和上は日本に渡ることを決意された
	のです。度重なる苦労のすえ盲目になりながらも、12年という永い歳月を費やして日本の地を踏まれたお
	話はとても有名です。和上の不屈で強い精神には本当に驚かされますね。
	 この鑑真和上の像は御影堂に安置されており、開山忌の毎年6月の特別な日にそのお姿を見ることがで
	きます。またここには、有名な盧舎那仏坐像や千手観音立像、薬師如来立像など素晴らしい数々の仏様が
	安置されています。静かな伽藍のたたずまいの中、美しい木の葉、その中にこぼれる陽光につつまれた唐
	招提寺をぜひご覧下さい。



旧田中家住宅














































	この後「西の京」駅から橿原神宮前へ向かったような来もするが、私は娘が帰省してきたので反省会には
	加わらなかったような気もする。どうもはっきり覚えていない。いけませんなぁ。4ケ月前の事なのに記
	憶が無い。(2015.12.16)

	皆様お疲れ様でした。また次回も宜しく。やっぱり、夏の例会は止めましょう。暑くてとても歩けん。


家路につく





JR吹田駅に帰り着くと、広場で「吹田祭り」の真っ最中だった。しまった、アサヒビール工場でビール飲み放題だったんだ!!







邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第206回例会案内