Music: 旅愁




	
	大阪本町・歴史倶楽部 第216回例会案内

	テーマ: 渡来人が奈良に築いた奥津城を見る
		(63回例会で一度行きました。今回はそのダイジェスト版です。4,5時間のコースにしました。)
	日 時: 平成28年6月26日(日曜日)AM10:00
	集 合: 近鉄吉野線「樫原神宮前」駅 西口(久米寺側)
	持ち物: 弁当、水筒、日よけ、その他
	コース: 橿原神宮前 − 益田池跡(児童公園) − 宣化天皇陵 − 倭彦命の墓 − 橿原市博物館
		(旧橿原市千塚資料館) ― 新沢千塚古墳群 − 樫原神宮前駅 ― 反省会(駅構内?)
	概 要: 略

	




集 合: 近鉄吉野線「樫原神宮前」駅西口(久米寺側)


いつもこんなにタクシーいたっけか? 何かあるんかな。



折しも参院選挙真っ最中。こん中の誰が代議士様になったんかね。







駅前から「いざっ、出発!」



まずは「久米寺」へ、裏門から。「後ろから前からどうぞ」ってか。





虫塚やて。殺すだけ殺して、食うだけ食って、その後供養して「ゴメンね」だもんなぁ。お釈迦さん許すんかい!



県をあげて「ゴメンね、許して」だ。



仏様は何も言わず。ただ光っているだけ。







	
	久米寺 出典:ウィキペディア

	久米寺(くめでら)は、奈良県橿原市久米町にある真言宗御室派の寺院。山号は霊禅山。詳しくは霊禅山東塔院
	久米寺と称する。本尊は薬師如来坐像。開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)ともいうが未
	詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。
	大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神
	社、久米寺)の一つに数えられる。



	
	大和三山の1つ、畝傍山の南方に位置し、橿原神宮からも近い。開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)
	とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真言宗を開く端緒を得た寺として知られる。
	娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。
	『和州久米寺流記』には来目皇子の開基を伝える。一方、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などは当寺を久米仙
	人と結び付けている。久米仙人の伝説(後述)がフィクションであることは言うまでもなく、創建の正確な事情
	は不明だが、ヤマト政権で軍事部門を担当していた部民の久米部の氏寺として創建されたとする説が有力である。
	境内には古い塔の礎石があり、境内から出土する瓦の様式から見ても、創建は奈良時代前期にさかのぼると思わ
	れる。空海はこの寺の塔において真言宗の根本経典の1つである『大日経』を感得(発見)したとされている。
	空海が撰文した「益田池碑銘并序」(ますだいけひめいならびにじょ)には、「来眼精舎」(くめしょうじゃ)
	として言及されており、空海とも関係があったと思われる。
	なお、橿原市の隣の明日香村奥山に「奥山久米寺跡」があり、この寺についても来目皇子創建とする伝承がある。





	
	久米仙人の伝説 出典:ウィキペディア

	久米仙人による開基伝承は『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』などのほか、『今昔物語集』巻十二本朝仏法部にも
	収録され、『徒然草』にも言及されている著名な話である。それによると、吉野・龍門寺の久米仙人は仙術で空
	を飛べるようになったが、ある日空を飛んでいる時、川で洗濯をしている女のふくらはぎに見とれて法力を失い、
	地上に落ちてしまった。久米仙人はその女とめでたく結婚。その後は普通の俗人として暮らしていた。その後、
	時の天皇が遷都を行うことになり、俗人に戻った久米仙人は遷都のための工事に携わる労働者として雇われ、材
	木を運んだりしていた。ある日仕事仲間から「お前も仙人なら、仙術を使って材木など一気に運んでしまったら
	どうだ」とからかわれた。一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復。久米仙人の仙術で、山に
	あった材木が次々と空へ飛び上がり、新都へと飛んで行った[1]。これを喜んだ天皇は久米仙人に免田30町を与え、
	これによって建てたのが久米寺であるという話である。









多宝塔を写生しているオジサン、オバサンの群れがいた。







お釈迦さんが寝そべっている変な注水口。なんかヤラシイな。







こっちが「久米寺」の正門どす。後ろから前からどうぞ。







「益田の磐船」を見たいと言う人がいたので、久米河原東の信号を南下。白橿町の中を通ってゆく。



上はクリックすると大画面になります。












	
	どうしてここにこんな物が?と思うのは誰しも一緒。転げ落ちたにしても上部には是があったような痕跡のある
	場所は無いのだ。この周辺に石切場があるわけでもない。穴の刳り貫きはどこか別の場所で行ったようなのであ
	る。だとすればここまで運んできたことになる。クレーンと重トラックがあるなら分かるが、とても人力で行っ
	た作業では無いように思える。しかし古代人の知恵は侮れないので、何か我々の知らない方法で、ここに墳墓を
	設置しようとした可能性もある。それにしても刳り貫かれた形も解せない。















児童公園の東屋で昼食。



公園の原っぱの「何とかモジリ(忘れた)」という珍しい草花があると言うのでOLDBOYが摘んでいる。







昼食後、宣化天皇陵へ向かう。路端の畑にはスイカがいっぱい。旨そうだった。







	
	●宣化天皇陵 第28代宣化天皇 身狭桃花鳥坂上陵 奈良県橿原市

	<第28代宣化天皇(せんかてんのう)>
	異 称 : 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたおうじ:武小広国押盾尊:日本書紀)、
		  建小広国押楯命(たけをひろくにのおしたてのみこと:古事記)
	生没年 : ? 〜 宣化天皇4年 73歳
	在位期間: 安閑2年(宣化天皇元年)〜 宣化天皇4年
	父   : 継体天皇 第2子、安閑天皇の同母弟
	母   : 目子媛(めのこひめ:尾張連草香(おわりのむらじくさか)のむすめ)
	皇 后 : 橘仲皇女(たちばなのなかつひめ:仁賢天皇の皇女)
	皇 妃 : 大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)
	皇子皇女: 石姫(いしひめ)皇女、小石姫(こいしひめ)皇女、上殖葉(かみつうえは)皇子、
		  倉稚綾姫(くらのわかやひめ)皇女、火焔(ほのお)皇子
	宮   : 檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや:奈良県明日香村檜前)
	陵 墓 : 身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ:奈良県橿原市鳥屋町)



	
	第28代宣化天皇(せんかてんのう)は、26代継体(けいたい)天皇の第2子で、27代安閑(あんかん)天皇
	の同母弟。安閑天皇に後継がなかったため乞われて即位したとされているが、この兄弟は実は即位しておら
	ず、継体天皇の次は 29代欽明(きんめい:継体天皇の第4子)天皇だとする説もある。
	これには、安閑・宣化の2帝を推す大伴氏と欽明帝を推す蘇我氏との対立が反映している。後の蘇我氏の隆
	盛を思えばその説に頷きたくもなるが、明治政府は二帝は即位したと判断したようである。
	天皇は即位後、都を檜隈の廬入野(いおりの)に移し、旧臣大伴金村(かなむら)と物部麁鹿火(あらかい)
	をともに大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目(いなめ)を大臣に、そして阿倍大麻呂臣(あべのおおまろ)
	を太夫(まえつきみ)とした。



	
	その翌年仁賢天皇の娘橘仲皇女(たちばなのなかつひめ)を立てて皇后とした。その年の5月天皇は詔を出
	して、筑紫国那津の官家(みやけ)に各地から食料を移送して、非常時に備えた。
	大伴金村大連以下の臣下に命じて、各地の屯倉から籾を運ばせたとあるが、これは、新羅の圧政に苦しむ任
	那と百済を助ける目的と、万が一の新羅侵攻に備えてのものと考えられる。
	安閑・宣化天皇の時代には、多くの屯倉が設置され、皇室の財力が一段と強化されるとともに、和風諡号が
	贈られるなど、天皇権力が著しく拡大した可能性が指摘されている。
	73才で没したとされているが、天皇であった期間は没するまでの4年間である。宣化天皇陵は奈良県橿原市
	鳥屋町にあり、橿原神宮から「新沢千塚古墳群」へ向かって歩いていくとその途中にある。
	陵はまわりを濠に囲まれ一方は大きな池となっている。水鳥の憩う湖の趣(おもむき)もあって、魚も時々
	はねている。













	
	【建小廣國押楯命】宣化天皇(古事記)
	弟、建小廣國押楯命、坐檜[土冏]之廬入野宮、治天下也。天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比賣命。生御子、
	石比賣命【訓石如石。下效此】次小石比賣命。次倉之若江王。又娶川内之若子比賣、生御子、火穗王。次惠
	波王。
	此天皇之御子等、并五王。【男三、女二】故、火穗王者、【志比陀君之祖。】惠波王者、【韋那君、多治比
	君之祖也。】
	
	【建小廣國押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)】宣化天皇
	弟、建小廣國押楯の命、桧(ひのくま)の廬入野(いほりの)の宮に坐しまして天の下治しめしき。天皇、
	意富祁(おほけ)の天皇の御子、橘の中比賣の命を娶りて生みし御子は、石比賣(いわひめ)の命【石を訓
	みて石(いわ)の如し。下此れに效え】。次に小石比賣(おいわひめ)の命。次に倉の若江の王。また川内
	の若子比わくごひめ)を娶りて生みし御子は、火穗(ほのほ)の王。次に惠波(えは)の王。
	此の天皇の御子等は并せて五はしらの王【男三はしら。女二はしら】。故、火穗(ほのほ)の王は【志比陀
	(しひだ)の君の祖】。惠波(えは)の王は【韋那(いな)の君、多治比(たじひ)の君の祖也】。



	
	●新沢千塚古墳群

	新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)は、奈良県橿原市北越智町・川西町に位置する前期/後期に
	形成された日本有数の大古墳群(群集墳)である。1976年(昭和51年)3月31日に国の史跡に指定された。
	奈良盆地の南部にある畝傍山の南方に広がる東西2キロメートル、南北約2キロメートル余りの丘陵(越智岡丘
	陵、標高約150メートル)に位置する、径約10〜15メートルの円墳など総数600基以上の一群の墳墓(群集墳)
	である。これらの墳墓は4世紀末から7世紀にかけて造営され、特に5世紀半ばから6世紀末まで盛んに作られた。
	「川西(かわにし)千塚」「鳥屋(とりや)千塚」とも呼ばれた。この古墳群の氏族ないし埋葬者は特定され
	ていない。
	発掘調査は1947年(昭和22年)に始まり、1962年(昭和37年)には本格的調査が実施された。このとき粘土槨
	を内部主体とする500号(前方後円墳)を含む23基の古墳が発掘された。500号墳では古墳時代前期に類する副
	葬品が検出され、その中には懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。その後史跡にも指定されている。



	●橿原市博物館 (旧橿原市立千塚資料館)

	所在地:  奈良県橿原市川西町858の1  TEL:0744-27-9681
	交通機関: 近鉄「橿原神宮前」駅より、奈良交通バス「御所」行きバス乗車「川西」バス停下車すぐ。
	(バスの便は少ない。「橿原神宮前」駅より歩いても30分ほどであり、途中「益田池堤」「宣化天皇陵」
	があるので、古代史ファンなら歩いていったほうがよい。)新沢千塚古墳群から出土した遺物でいっぱい。


















	何やら宗教法人のような、広い庭を持った建物があり、底の掃除をしていたオバサンが我々を見つけ、「いま
	蓮の花がきれいだから見てってよ」と誘う。まさかこの団体に入れという勧誘ではなかろうな、と一瞬ギョツ
	としたが、成る程綺麗に咲いているので、素直に見て行く事にした。が、案の定、帰り際に背広姿の兄ちゃん
	が寄ってきて、「・・・集会」のパンフレットをくれた。蓮見学のお代というわけか。





花とおじさん。昔そんな歌があったねぇ。



背中姿がそのおばちゃん。


	●益田池(ますだいけ)

	益田池とは、安時代初期に築かれた大貯水池。奈良県橿原市に存在したため池で、現在は消滅している。橿原
	ニュータウンはその跡地に建設された。平安時代初期、弘仁13年( 822年)に、高取川に堤防を築いて水の
	流れをせき止めて作られた巨大な灌漑用の貯水池。堤防は現在の鳥屋橋北から鳥坂神社まで長さ約200メートル、
	幅30メートル、高さは8メートルあり、満水時の貯水量は140万トンから180万トンと推測されている。
  





	現在でも堤防の一部が益田池児童公園内に残っている。橿原考古学研究所附属博物館には、1961年(昭和36年)
	の川底改修の際に2か所で出土した木製の樋が保存展示されており、「益田池の堤 附樋管」として奈良県の指
	定文化財として史跡に指定されている。
  

	下から見た堤防。もう現存しているのはこれだけである。 写真の手前側に広大な貯水池があった。残っている
	堤防は100分の1以下だ。 











反省会









 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/216回例会・橿原市を歩く