Music: 少年時代





	亀石

	飛鳥には謎を秘めた石造物が多く、それらを巡る散策コースもあるが、この亀石も何故ここにあるのかわからない。
	附近には何もない畑の中である。寺領の境界石、陵墓の供石、冥界との結界、さまざまに推理されているが、謎の
	ままである。形が亀に似ていることから「亀石」と呼ばれているが、巨大な花崗岩の一枚岩でできている。
	一見したところ、自然石のよだが、下部に亀の目と口の周囲が人工的に彫られている。その加工の仕方がいかにも
	象徴的で、亀が微笑んでいるようにも見える。  



	見て貰っても分かるように大きい。長さ約4m、幅約2m、高さ約2m、重さはl0トンを越すと言われる。一面
	畑に囲まれた丘の上に、顔を西南の方向を向けてポツンと置かれている。最初からこの位置にあったのか、それと
	も何処からか持ってきてここに置いたのか不明である。亀石の存在は古くから知られており、すでに平安時代の永
	久4年(1116)に作られた「弘福寺寺領申請文書」にも、その名がある。



	かつて飛鳥京の三大寺の一つとして栄えた川原寺の寺領の境界を示す標石だったという説、中国でよく見かけるよ
	うな墓石や碑の台石であるという説、飛鳥京の宮殿のある現世のゾーンと陵墓のある冥界との境を画する結界石で
	あるという説、農民が豊作を願ってつくったという説、などなどが昔から囁かれてきた。この地方には以下の様な
	伝説が残る。



	大昔、大和盆地が大きな湖の底に沈んでいた頃、当麻(たいま)の主の蛇と川原の主のナマズが湖を二分して支配
	していた。あるとき、この蛇とナマズが喧嘩し、湖の支配権をかけて争うことになった。この争いで川原のナマズ
	が負けとなり、湖の水が当麻側にとられてしまった。このため川原側の湖がすっかり干上がってしまい、湖に住ん
	でいた亀が行き場を失ってそのほとんどが死んでしまった。川原の村人たちは、死んだ亀たちを哀れに思い、その
	霊を慰めるため供養の碑を建てた。

	それが亀石であるという。 



	別の言い伝えもある。この巨石はもともと東を向いていたが、世の乱れとともに次第に動いて、現在、西南を向い
	ている。これが西に向いたとき、大和盆地は再び泥沼になってしまう、というのだ。面白い話ではある。






	天武・持統天皇陵  檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ) 

	【第40代天武(てんむ)天皇】

	異名: 大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
	生没年: ?年〜 朱鳥(しゅちょう)元年(686)(?歳)
	在位: 年(673) 〜 朱鳥元年(686)
	父:  舒明天皇(田村皇子)
	母:  皇極天皇、斉明天皇(宝皇女)
	皇后: 鵜野讃良(うののさらら)皇女(持統天皇)
	皇妃: 大田(おおた)皇女、大江(おおえ)皇女、新田部(にいたべ)皇女、
		上娘(ひかみのいらつめ:中臣鎌足の娘)、
		五百重娘(いおえのいらつめ:氷上娘の妹)、額田王(ぬかたのおおきみ)、尼子娘(あまこのいらつめ)
	皇女子: 大来(おおく)皇女、大津皇子(おうつのみこ)・・・ 以上母は大田皇女
		草壁皇子(くさかべのおうじ)・・・ 母は鵜野讃良皇女
		長皇子(ながおうじ)、弓削皇子(ゆげおうじ)・・・母は大江皇女
		舎人親王(とめりしんのう)・・・ 母は新田部皇女
		但馬皇女(たじまのこうじょ) ・・・ 母は氷上娘
		新田部親王(にいたべのしんのう) ・・・ 母は五百重娘
		十市(とおち)皇女 ・・・母は額田王。大友皇子皇后。
		武市(たけち)皇子 ・・・母は尼子娘。
		忍壁(おさかべ)皇子、磯城(しき)皇子、泊瀬部(はつせべ)皇女、託基(たき)皇女
	宮居:  飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや:奈良県高市郡明日香村)  
	御陵: 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ: 同上 )

	兄天智天皇(中大兄皇子:なかおおえのおうじ)の子弘文天皇(大友皇子:おおとものみこ)を、壬申の乱を起こ
	して滅ぼした後、大海人皇子(おおあまのおうじ)は、近江朝を廃し飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)
	で即位し天武天皇となった。多くの妃・皇子女があり、その大半が後代の天皇となっている。

	皇女の一人大伯(おおく)皇女を、長らく途絶えたままになっていた伊勢の斎宮(いつきのみや)に定めて神祇
		(じんぎ)の復興につとめた。伊勢神宮を祀る集団は、壬申の乱で大海人皇子に味方しため天武天皇はそ
	の恩義に報い、伊勢神宮を天皇家の守護宮と定めた。そのために斎の宮を再興したのである。これ以後、今に至る
	まで伊勢神宮は天皇家の守護社となっている。

	天武は兄天智天皇の押し進めた中央集権国家体制を更に進め、生涯大臣をおかず自ら政治を行い、飛鳥浄御原令、
	八色姓(やくさのかばね)の制定など、中央集権の国家の体制づくりに多くの業績を残した。又、国史編纂をすす
	め記紀成立の基礎を作った。大和朝廷がそれまでの倭に替えて「日本」という国号を使いはじめたのもこの御代で
	あろうとされる。天皇は、道教や陰陽道に傾倒していた事も有名である。



	【第41代持統(じとう)天皇】

	異名: 鵜野讃良皇女(うのささら)、大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめ)、
	    高天原広野姫(たかまがはらひろの)
	生没年: 大化元年(645)〜 大宝2年(702)(58歳)
	称制: 朱鳥元年(686)〜 持統4年(690)
	在位: 持統4年(690)〜 持統11年(697)
	父:  天智天皇 第2皇女
	母:  蘇我遠智娘(そがのおちひめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)
	夫:  天武天皇(大海人皇子)
	皇女子: 草壁皇子(くさかべのおうじ) 
	宮居:  飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや:奈良県高市郡明日香村)、
		原宮(ふじわらのみや:奈良県橿原市)
	御陵: 檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ:奈良県高市郡明日香村)


	鵜野讃良(うののさらら)は斉明天皇3年(657)、13歳で叔父の大海人皇子に嫁いだ。斉明7年(661)、斉明
	天皇の新羅遠征の際、夫と共に九州へ随行し、翌年筑紫の「那の津」で草壁皇子を産む。同年、父中大兄皇子が皇
	位を継承し(天智天皇)、夫の大海人は皇太子となる。天智称制6年頃までには、姉の大田皇女の後、鵜野讃良が大
	海人皇子の正妻になったものと思われる。
	やがて天智天皇は弟ではなく、実子の大友皇子を後継者に望み、大海人皇子は身の危険を察して、天智10年(671)
	吉野に隠遁。鵜野讃良も草壁を伴いこれに従った。

	天智11年壬申の乱勃発。大海人皇子は大友皇子を破り、天武元年(672)、飛鳥浄御原宮で即位し鵜野讃良も皇
	后となる。以後夫を輔佐し、ともに律令国家建設に尽力した。吉野宮での六皇子の盟約を経て、天武6(680)年、
	我が子「草壁皇子の立太子」を実現する。
	朱鳥元年(686)天武天皇が没すると皇后は、即位の式をあげないままその地位を継承して実権を掌握した。そし
	て、まだ喪も明け切らぬうち天武の子で甥の大津皇子(おおつのみこ)を謀反のかどで処刑した。皇后は我が子草
	壁皇子の即位を熱望するが、持統称制3年草壁皇子に先立たれ、以後は孫の珂瑠皇子(かるのみこ)の成長に望み
	をかけた。同年『飛鳥浄御原令』を施行し、翌年持統天皇として即位する、
	持統8年(694)藤原京に遷都し、日本最初の都城制に基づく都を造営した。また仏教を保護し,薬師寺をたてた。

	持統10年(696)、孫で草壁の遺児、珂瑠皇子に譲位して、史上最初の太上天皇となった。珂瑠皇子が文武天皇と
	なって後も、太上天皇として政治を行い、藤原不比等を用いて大宝元年(701)『大宝律令』を完成させた後、翌
	2年(702)、58才の生涯を閉じた。夫である天武天皇の檜隈大内陵に合葬された。
	在位中に31回の行幸記録も残っている。
	歌人柿本人麻呂は、天武・持統・文武と三代にわたる帝に仕え、天武王朝の盛衰を、時代の生き証人としてつぶさ
	に見聞きしたに違いない。天武王朝とともに歩んでいる。藤原宮と持統天皇ををたたえた柿本人麻呂の歌が残る。 

	天皇(すめらみこと)の雷岳(いかつ゛ちのをか)に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首

	大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかつち)の上(うへ)に 廬(いほ)りせるかも 
	(巻三、二三五)

	持統天皇が雷岳(いかづちのおか)においでになるとき柿本人麻呂の作る歌

	大君は神にあらせられるので 天雲の雷の上に仮宮を造られている

	持統天皇に対する評価は様々である。我が子草壁皇子を皇位につけるため、甥である(実姉の子)大津皇子を謀反
	人にしたてあげて殺害してしまうやり方、おそらく父天智天皇が政敵をかたづけていくやり方をつぶさに見てきた
	事に起因しているのだろう。最愛の息子草壁皇子が皇位に就くこと無く病死すると、更に孫の文武天皇の成人まで
	自分が皇位に就くという、権力志向の塊のような人物という見方が一般的かもしれない。病弱な草壁皇子に比べ、
	大津皇子は懐風藻によると、

	「幼年にして学を好み、博覧にして能く文をつづる。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣を撃つ」とあり、

	これではとても我が子は皇位どころか、やがて大津皇子の沓前に屈してしまうと持統天皇でなくとも考えるのでは
	なかろうか。我が子を大王にしたいがための母の一念が、大津皇子殺害に彼女を走らせたとも言える。
	多くの権謀や情念が渦巻いた明日香の地に、今は夫婦の合同陵として、天武・持統天皇陵は静かに佇んでいる。




	中尾山古墳 出典:ウィキペディア

	中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字平田に所在する終末期の八角墳である。本古墳の
	立地は、古代には檜隈(ひのくま)と呼ばれたところで、尾根の最高所に位置する。北に天武・持統天皇陵があり、
	南に文武天皇陵や高松塚古墳が見えるところにある。
	本古墳の八角形の墳形、五段の墳丘を天皇の高御座(たかみくら)の形と似ているとの見方がある。また、何故八
	角形が採用されたのかについて2説ある。1つは仏教の影響で、8世紀代の供養堂として八角円堂を真似たものであ
	るという説。二つ目は中国の思想的背景をもって造られた古墳として、被葬者を特定できるのではないかと考えら
	れている。
	1697年(元禄10年)、奈良奉行与力の見聞記に「塚丸く根回り三十五間アあり、頂上東の方へ掘り崩した跡のよう
	に窪みがあり、その中に四尺に三尺に石がある」とある。この時に欽明天皇桧隈坂合陵かと考えられたが、未定陵
	とされた。1725年(享保10年)の『大和志』では、文武天皇陵として高松塚古墳とともに挙げられた。明治になっ
	て、野淵竜潜『古墳墓取調帳』では三段築成の円墳と記され、1914年(大正3年)にも石槨や墳丘を取り巻く石列
	などが報告され、同末には石槨の図面が描かれ、1927年(昭和2年)、国の史跡に指定されている。1970年(昭和
	45年)には、藤井利章が外形測量して八角墳の可能性を指摘している。

	<発掘調査>

	1974年(昭和49年)度の発掘調査では、立地場所は丘陵のほぼ中央部を選定している。墳丘の中央部に墓壙を掘り、
	ここに一辺2.2メートル以上、深さ1.7メートル以上の立方体の巨石を置き、その周りに礫を詰め一段目の墳丘を築
	き、南側に排水溝を設ける。この巨石の上に石槨を組み立て、奥壁を置き、側石・前面閉塞石を置く。二段目の墳
	丘を即席の高さと同じに築く。石槨の南西部に墓道が設けられてある。この石槨の中に火葬にした骨を納めた骨臓
	器が安置されたものと考えられている。納骨が行われ、三段目の封土を盛り上げる。墳丘は八角形に築造されてい
	る。頂上部に長さ95センチメートル、高さ67センチメートル、前幅46センチメートルの凝灰岩の沓形石造物が2個、
	隅角部に置かれているのが確認されている。形状から木造建築物の屋根を飾ったものではないかとみられている。





	高松塚壁画館

	高松塚はその内部の状態を空調設備によって恒温、恒湿度に保って保存するために密閉されているので、その
	内部を見学できるように絵画館が建てられた。内部には左右両面に発見当時そのままの状態の絵と描かれた当
	初を再現した絵が展示されている。正面突き当たりには石室内部が原寸のまま再現された模型が置かれている。


























































	高松塚古墳

	昭和48年、素晴らしい壁画が発見されて、考古学ブームに火を付けたのが高松塚古墳である。正面竹の生い
	茂った丘の麓にあるコンクリートの2階建てが高松塚である。石室そのものよりもそれを維持するための空調
	設備の方が大きい。壁画の天井に星図が描かれていたことに因んで、手前のテラスには星を眺められるように
	芝生の斜面がある。内部が原寸のまま再現された模型が置かれている。

	上は数年前ここを訪れた時に書いた文章である。読むとコンクリートむき出しの姿だったのが分かる。空調設
	備も見えていたのだ。今はご覧のように綺麗に土守で覆われているが。この中に書いてあるような施設が埋ま
	って居るのだ。













 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/219回例会・紅葉の明日香村を走る