Music: 太融寺音頭





	飛鳥寺 出典:ウィキペディア

	飛鳥寺(あすかでら)は奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院
	でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基
	(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)と称する。現在の宗派は真言宗豊山派。


	寺号

	飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都ととも
	に今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺
	院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表
	記が用いられている。古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」のような和風の寺号と、「法興寺」
	「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)
	の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)
	が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。

	本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼
	称する。なお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」である。





	<歴史>

	創建

	飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、明日香村豊浦の豊
	浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日本最古の本格的仏教寺院である。発願から創建に至る経緯は
	『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、
	ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。福山敏男は、『元興寺縁起』の本
	文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けると
	している。
	『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。
	馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為
	(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建て
	ることにしたという。岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境
	内を中心とする狭い区域を指していた。
	一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は
	『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵
	善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺
	のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。
	そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。当時の日本には、
	前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施
	設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。




	創建 (続き)

	『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、
	画工1名)が派遣された。このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人と
	みられる。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬ
	いのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。
	『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10
	月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金
	堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起
	工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。

	『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を
	置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。なお昭和32年(1957年)の発掘調
	査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されて
	いる。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、
	当初の状況は明らかでない。




	創建 (続き)

	『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続け
	て、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。
	『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあ
	たる。しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年
	後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったとい
	うことになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。
	毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古
	天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。
	これとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像
	が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。この弥勒石像は敏達天
	皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたも
	のである。
	久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、
	その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を
	取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、
	『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完
	成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている。
	
	飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、昭和31〜32年
	(1956〜1957年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一
	塔三金堂式の伽藍であることが確認された。




	本尊の造立

	『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、
	銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。そし
	て、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。『書紀』によれば、銅と繍の「丈六仏像」
	は翌推古天皇14年(606年)完成。丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高く
	て入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができ
	たという挿話が記述されている。
	一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、
	605年)に銅と繍の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在
	を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。「丈六光銘」に
	よれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り
	終えたという。つまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差
	がある。福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」
	と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した。当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成
	するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となって
	いる。




	本尊の造立 (続き)

	大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等
	に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて
	官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発
	見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。飛鳥寺がこうした庇護
	を受けた背景には、同寺が当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、朝
	廷創建の大官大寺や薬師寺をもってこれに代わることができなかったとする説がある。




	平城遷都以後

	都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。『続日本紀』には霊亀2年(716年)
	に元興寺を左京六条四坊に移すとあり、養老2年(718年)条にも法興寺を新京へ移すとあって記述が重複してい
	る。このうち前者の「左京六条四坊」は大安寺の場所にあたることから、霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)
	の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺(元興寺)の移転は養老2年のことと考えられている。

	馬子が飛鳥に建てた元の寺も存続し、本元興寺と称されたが、建久7年(1196年)に雷火で塔と金堂を焼失後、
	寺勢は衰えた。法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄』によると、文安4年(1447年)の時点で、飛鳥寺の本尊は露
	坐であり、江戸時代にも仮堂一宇があるのみであった。江戸時代の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が
	明和9年(1772年)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめな
	る堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。




	平城遷都以後 (続き)

	現在、参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑は寛政4年(1792年)のもので当時すでに「飛鳥大仏」と呼ばれてい
	たことが分かる。現・本堂は江戸末期の文政8年(1825年)に大坂の篤志家の援助で再建されたもので、創建当
	時の壮大な伽藍の面影はない。しかし発掘調査の結果、現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた
	飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に
	安置されていることが分かった。日本最古の寺院・飛鳥寺は衰退したとはいえ、21世紀の今日まで法灯を守り
	続けているわけである。



創建当時の飛鳥寺伽藍配置(推定図)。


	飛鳥寺の創建・造営についてはおもしろい見解がある。
	飛鳥寺の造営に関して百済から技術者達が渡来したことは広く知られているが、実はこれらの技術者・工人
	の多くは百済ではなく、はるかペルシアからやってきたというものだ。

	「書記に寺工として名前が挙がっている「太良未太」(タラミタ)や「文買古子」(モンケコシ)は、中世
	ペルシア語の音によれば、タラは宮や倉庫などの大建造物を指し、ミタは優秀・有能と言った意味を持つら
	しい。またモンケコシも「鑿」(モンケ)と定規(コシ)の組み合わせで、タラミタとともに、巧みな大工
	を指す言葉だ」という(伊藤義教)。
	同じように
	「瓦博士の「麻奈文奴」(マナモンヌ)や画家の「白加」(ハクカ)なども、それぞれの職能や道具を表し
	ているという。つまり、飛鳥寺の造営にあたっては、朝鮮半島、中国大陸のみならず、はるかな西アジアの
	ペルシアからも技術者達が渡来してきていたということになるのだ。飛鳥の文化は最初から、こうした国際
	的な文化を取り入れた文化として出発していたのだ」(門脇禎二)。

	まさしく、シルクロードの東の果てではないか。





上は飛鳥寺前の土産物屋で売っていた「蘇」(そ:古代のチーズ)であるy。昔一回買ったことがある。





この崖が、飛鳥寺の瓦を焼いた窯跡である。飛鳥寺を過ぎてすぐの所にある。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/219回例会・紅葉の明日香村を走る