Music: 北上夜曲







コレは単なるダジャレであって、決して東北の人を差別したり、馬鹿にしたりしているわけではありません。





	小墾田宮址(古宮土壇) おわりだのみやあと(推定地) 

	小墾田の宮跡とされる場所が、明日香村の豊浦に残っている。県道124号線が豊浦の集落に入るあたりの左手、
	田圃の中に一本の木がそびえている。小墾田の宮跡伝承地の目印とされている木で、その根元は「古宮土壇(ふ
	るのみやどだん)」と呼	ばれている盛り土で高くなっている。1970年と1973年に行われた発掘調査で
	は、川原石を組んで作った溝や、小池を持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土した。
	当初これらは、小墾田の宮を構成する宮殿遺構の一部と考えられた。しかし、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で「小
	治田宮」とか「小治宮」と墨書された土器が見つかった。そのため、最近ではこの遺跡が小墾田の宮跡である可
	能性が強くなってきた。
	そうであれば、古宮土壇で発掘された遺構は何だったかが問題になる。地理的に豊浦の宮に隣接し、出土瓦も豊
	浦寺のそれに共通することから、最近では蘇我氏の邸宅跡と見なされるようになってきている。



	小墾田宮は、推古天皇が25年間過ごした宮である。書紀の記述からもうかがえるとおり、小墾田宮はそれなり
	の規模であった可能性が高い。豊浦宮に継ぐ、推古天皇の二番目の宮として造営された。日本書紀によれば、豊
	浦宮で即位した推古天皇は、603年(推古11)10月4日に、11年を過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ
	遷った。推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。推古天皇は、崇峻天皇
	暗殺という大事件の直後にあわただしく即位したものとおもわれ、おそらく豊浦にあった蘇我家の邸宅の一画を
	仮宮として即位したものと思われる。それから小墾田宮へ移って、25年を過ごした。田んぼの真中に一本の木
	が立っている。「古宮遺跡」ともいう。豊浦寺跡とは300mくらいの距離である。
	かっては「古宮土壇」と呼ばれたここの周辺が、小墾田宮の推定地となっていた。7世紀初め頃の石敷き、柱跡
	などがこの一帯から出土したからであるが、後段、雷丘近辺の「雷丘東方遺跡」で「小治田」と墨書された土器
	破片が見つかったことで、小墾田宮はここではないらしいということになった。




	向原寺 (むくはらでら・こうげんじ) 推古天皇の豊浦宮を改築した豊浦寺の後身

	592年(崇峻5)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)
	宮で即位した。我が国最初の女帝・推古天皇である。日本書紀には、豊浦宮を新たに建設したとは書いていない。
	崇峻天皇暗殺という未曾有の事件の直後なので、新しく宮を造営する余裕などなく、蘇我本宗家の邸宅の一画を
	仮宮としてそこで即位したものと考えられている。盛大に即位の式が行われているその頃、飛鳥川を挟んだ対岸
	では飛鳥寺が造営の真っ盛りであった。その即位の儀式が行われた豊浦宮跡に建っているのが、現在の向原寺で
	ある。
	このあたりは非常にややこしいが、「蘇我稲目(いなめ)の向原の家」=「豊浦宮」=「豊浦寺」=「現在の向
	原寺」という図式になる。豊浦寺は、我が国最古の尼寺で、当時は桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれていた。
	順番でいけば、蘇我稲目の向原の家 → 向原寺 → 物部尾輿の廃仏にあって焼失 → 推古天皇が宮を置く
	(豊浦宮)→ 宮を小墾田に移す → 再び寺となる(豊浦寺) → 現在の向原寺、となる。













	現在表面に出現しているのは豊浦宮の跡だと推定されている部分だが、この下に更に建て屋の跡が見つかってい
	るという。豊浦の宮が造られる以前、この地には蘇我稲目(いなめ)が向原の家を構えていた時期があった。
	日本書紀は、552年(欽明13)の仏教公伝の記事の中に、以下のように書き残している。

	百済の聖明王が送って来た金銅の釈迦仏を前にして、欽明天皇はこの外国の神を我が国が受け入れるべきかどう
	か群臣に諮問した。群臣の間で意見が分かれたため、天皇は仏像を蘇我の稲目に授けて、試みに礼拝することを
	命じた。稲目は喜んで仏像をもらい受けると、小墾田(おわりだ)の家に安置して、仏道修行に励んだ。
	日本書紀は、その話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。小墾田の家とは別に向
	原の家があったのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判然としない。もともと小墾田は飛鳥の地名で、
	その範囲は広く、現在の明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って
	11年後にそこに遷るが、この新しい宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比
	されるような狭い場所を示している。



	いずれにせよ、蘇我の稲目は百済から伝来した金銅製の釈迦仏を向原の家に祀り、この家を寺とした。寺といっ
	ても、伽藍を備えた現在の寺観にいう大きな建物ではなく、邸宅を改造した程度の草庵であっただろう。だが、
	その後に疫病が流行し、若者を中心に大勢の民衆が死亡した。大連(おおむらじ)の物部尾興(おこし)や神祇
	を司る中臣の鎌子ら廃仏派は、自分たちの意見を聞かずに稲目に外国の神を祀らせたのが疫病の原因であるとし、
	この神を百済に返すことを奏上した。天皇の許可を得て、彼らは役人に仏像を「難波の堀江」に捨てさせた。
	さらに、寺に火をつけ余すところなく焼き払った。すると、雲も風もないのに、にわかに欽明天皇の宮の大殿に
	火災が発生したという。当時、天皇の宮は「山辺の道」の磯城島(しきしま)にあり、磯城島の金刺(かねさし)
	の宮と呼ばれていた。現在の桜井市の水道局あたりにあったとされる。



	豊浦宮跡・豊浦寺跡 (とゆらのみやあと・とゆらでらあと)A.D.592-603 明日香村豊浦

	甘橿丘(あまかしのおか)の北西麓、豊浦集落の中にある向原(こうげん)寺の南側台地一帯が日本最古の尼寺、
	豊浦寺の跡といわれている。この寺の前身は推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや/とようらのみや)で、
	聖徳太子を摂政として政治を行った。603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立した
	とされている。北に接して小墾田宮をつくり、豊浦宮は蘇我氏に下賜されて豊浦寺になったと伝えられる。



	日本書紀・欽明十三年紀

	西蕃から献上された仏を蘇我稲目に祀らせる。

	稲目は向原の家を浄め捨ひて寺とす。国に疫気起こり治め癒すこと能わず。

	物部大連御輿、中臣連鎌子が、「仏を祀ってるからだ、早く旧に復すべき、早く投げ棄てろ」と主張する。天皇
	は「奏す依に」と。

	有司、乃ち仏像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縦く。焼き尽きて更に余無し。是に、天に風雲無
	くして、忽に大殿に災あり。

	また、元興寺縁起では、欽明13年のことではなく、稲目がなくなった年(欽明30年)のこととして、

	然已丑年稻目大臣薨已後 餘臣等共計 庚寅年燒切堂舎 佛像経教流於難波江也

	「然して已丑(つちのと・うし)の年に稻目大臣すでに薨じて後に、餘臣等共に計らい、庚寅(かのえ・とら)
	の年に堂舎を燒き切り、佛像・経教を難波江(なにはのえ)に流しき。」(「古代史獺祭」ページより)
	「元興寺伽藍縁起」

	・大臣(注:馬子)、乙巳(きのと・み)の年の二月十五日、止由良佐岐(とゆらさき/豊浦崎)に刹柱(さっ
	 ちゅう)を立て、 大會(だいえ)を作す。この會この時に、他田天皇、佛法を破らんと欲したまう。 即ち
	 この二月十五日、刹柱を斫(さ)き伐(き)り、重ねて大臣および佛法に依りし人ゝの家を責め、佛像・殿を
	 皆破り燒き滅ぼし盡しき。	

	書紀の記述にしたがえば、豊浦寺のさらに下層に、もともと蘇我稲目の居館があった。



	日本書紀に書かれている事の、どこまでが本当かというのを見極めるのはマジ難しい。飛鳥で発掘の度に説明会
	を聴きに行くが、その限りでは、大部分事実らしいとも思える。しかし、発掘主体(奈良国立文化財研究所や橿
	原考古学研究所や地方自治体等)の判断ばかりを鵜呑みには出来ない部分もあり、各方面の意見を聞かないとな
	かなか自分では判断できない。難波の堀江も、向原寺の隣のあの渠(みぞ)にしてはあまりにも近すぎるし、大
	阪の難波の堀江だとするとあまりにも遠いようにも思う。向原寺の隣では、捨ててもすぐ拾えるだろうし、大阪
	の堀江は、まだあの時代には無かったのではないかという気もする。



	難波の堀江は大阪の西区堀江のことと言うのが是までの定説であり、多くの解説本にもそう書かれている。しか
	しここ飛鳥では、それは向原寺(豊浦寺)のそばの池という。どちらが本当なのかはわからないが、毎日こうい
	う事を考えて、給料をもらえてる学者の先生はええのぉーと思う今日この頃である。



	向原寺の南側台地。小さな池があり、地元では、なんば池と云われている。私は、物部尾興らが「仏像を難波の
	堀江に捨てた」というのは、てっきり大阪難波の堀江だろうと思っていたが、この後訪れた飛鳥寺の住職によれ
	ば、ここがその「難波の堀江」だという。
	「なんでわざわざ大阪まで行きますにゃ。アレは飛鳥のお話ですさかい、当然ここの難波の堀江ですわ。」


 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/219回例会・紅葉の明日香村を走る