Music: カチューシャの唄

<石川池(剣池)>
橿原市石川町。近鉄橿原線橿原神宮前駅、東へ600m。応神天皇の御代、外来の土木技術によって掘られた人工池。
応神帝は軽池も造営している。伝承によれば、孝元陵の西北に淵があって底に霊剣を沈めたので「剣淵」と称した
のを、応神天皇の御代に淵によって池を穿たれ、これを「剣池」といったとある。
この池のある石川一帯は、蘇我氏の本拠地で、馬子が日本で最初に作った仏寺「石川精舎」があったと伝えられる。

歴代天皇のうち、現在の橿原市あたりに宮殿を置いていたと推測されているのは、初代の神武天皇が即位した橿原
宮(畝傍町)、懿徳天皇の軽曲峡宮(かるのまがりおのみや・久米町)、孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはら
みや)、応神天皇の軽明宮(かるのあかるのみや・大軽町)、舒明天皇の仮宮である田中宮(たなかのみや・田中
町)と厩坂宮(うまさかのみや・大軽町)などである。舒明天皇は、飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや・奈良
県高市郡明日香村)、百済宮(くだらのみや・奈良県北葛城郡広陵町百済)にも宮を築いている。
第八代孝元帝が都を置いた場所が軽境原宮で、そこは今、牟佐坐(むさざ)神社の建つ橿原市見瀬町に比定されて
いる。また孝元帝の陵墓も同市石川町にある剣池嶋上陵だとされているが、その八代目の大王と物部氏の伊香色謎
(いかがしこめ)命との間に産まれた彦太忍信(ヒコフツオシ)命の子・武内宿禰の子孫が「蘇我氏」(厳密には
蘇我石川氏)である。
蘇我氏の聖地である「軽」の名前を持った天皇は他にもいる。皇極の弟の幼名は「軽皇子」(後の孝徳天皇)だっ
たし、持統帝の孫の名は「軽太子」(後の文武天皇)である。また、欽明朝に台頭した蘇我稲目は、大伴狭手彦が
高麗から戦利品として連れ帰った女性を妻とし「軽の曲殿」に住まわせたと「日本書紀」は記録している。「軽」
の地は、大王たちが都を定めるのに、何か由緒ある神聖な場所という認識があったのかもしれない。
勿論その殆どは文献に記された伝承のみで、詳しい実資料が存在するわけではない。しかし、田中宮に関しては田
中廃寺の調査で藤原京条坊以前の建物群が見つかっており、宮との関係が注目されている。また飛鳥の地では、近
年の発掘調査により、記紀に記述されたことが続々と証明されつつある。

石川池(剣池)
「日本書紀」敏達天皇十三年(585)二月に、蘇我馬子が建立した石川精舎(いしかわしょうじゃ)は、当時蘇
我氏の根拠地であった石川の地に建立された寺院である。馬子が日本で最初に作った仏殿とされる。剣池のあたり
は、現在石川町という町名だし、「軽(かる)」という地名も残っている。蘇我氏の「石川精舎跡」も本明寺とい
う小さな寺院のなかに現存している。
<本明寺(石川精舎跡推定地)>
石川池(剣池)の西端から西へ入ると、橿原市石川町に浄土宗「本明寺(ほんみょうじ)」がある。畝傍中学校の
ある丘陵の西、旧谷部からその先の低丘陵の先端部にかけては、古来より石川精舎の推定地と伝えられる地である。
「日本書紀」敏達天皇十三年の条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初■より作れり」と
ある石川精舎(いしかわしょうじゃ)の跡と云われている。
右京十二条四坊西北坪では、飛鳥時代の大規模な整地とその上部に掘られた石組の暗渠溝及び溝一条、掘立柱建物
一棟、池状溝が見つかり、石組溝は長さ 24.5m、幅0.7mで、東南東〜西北西に走っている。調査区中央で長さ2.2m、
幅0.4mの木樋を設置し、なんらかの施設にともない開渠としていたようだ。暗渠部分は、底石を平坦な面を上面に
して据え付け、一段の側石で両側を挟み大きな天井石をのせている。調査では、大量の瓦を含んだ整地土の下から
団扇の柄かと考えられる木製品が出土した。さらに、隣接する十二条三坊での調査では、大量の瓦を含んだ整地土、
焼土坑・鋳型・フイゴの送風口など鋳造関連遺溝などが見つかり、寺院等の瓦葺き建物があったことがわかってい
る。しかし、発掘調査でも確証は得られず、石川精舎跡は別場所と云う説もある。蘇我馬子が建立した石川精舎の
堂塔はいまだ不明で、そのほとんどはこの地域の地下に眠っているものと思われる。


<日本書紀 応神紀>に、
・十一年冬十月 作劔池・輕池・鹿垣池・廐坂池
(応神天皇)十一年の冬十月に、【剣池】・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る。)
とあり、この石川池が【剣池】のようだ。 2000.8.27に、植山古墳(推古天皇親子の墓かとさわがれた。)の現地
説明会を見に行った時説明会会場となっていたのが、この池のすぐ側の畝傍東(うねびひがし)小学校である。
ここから植山古墳まで、延々と行列が続いていた。その時は、孝元天皇陵がここにあることにさしたる疑問も湧か
なかったのだが。古代には、この池には、蓮の花が満開だったらしい。
<万葉集・巻13・3289・作者不詳>
御佩(みはかし)を 剣(つえうぎ)の池の
蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の
行方無み(ゆくへなみ) 吾(あ:わ)がせし時に
逢ふべしと 卜(うら)へる君を
な寝(いね)そと 母聞こせども
我が心 清隅(きよすみ)の池の
池の底 吾は忘れじ
直(ただ)に逢ふまでに と詠まれ、
(剣池の蓮の葉にたまった水がどこにゆくのか分からないように、
私もどうなるか分からないでいるときに、「逢うべきである。」
と告げられたのであなたに逢いました。
そのあなたと「寝てはいけない」と母は云うけれど、
私の心は清隅の池の底にじっとしているように、
あなたのことは忘れません。じかにあなたに逢うまでは…。)
反歌(万葉集 3290)は
古の神の時より逢ひけらし 今の心も常念ほえず とある。
<日本書紀皇極紀>には、
皇極天皇三年三月六日、剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの花房をつけたのが見つかった。これを見た豊浦大臣
(蘇我毛人・蝦夷)は、「これは蘇我氏が栄える前兆である」と言う。金泥でその絵を書いて、飛鳥法興寺の丈六
の仏に供えた。池は今も満々と水をたたえ、多くの鴨が水面に浮んでいるが、万葉歌に詠われた蓮、蘇我蝦夷が吉
兆とした蓮は今はない。
一年後の六月、「乙巳の変」で蘇我蝦夷は息子の入鹿とともに、甘樫の丘に滅びた。蝦夷が瑞兆と喜んだ蓮は、実
は「大化の改新」で蘇我氏が滅ぼされる凶兆であった。また日本書紀には、舒明天皇7年の条にもこの池の記述が
ある。

剣池のほとりに紀皇女(きのひめみこ)の歌碑がある。軽の池は橿原市大軽町付近にあったと考えられるが所在が不
明で、近くの剣池の堤に歌碑が建てられたそうだ。
万葉歌碑 巻3-390 紀皇女石川池の北堤(剣池) 歌碑建立 昭和52年(1977)
軽池之 軽(かる)の池の
浦廻徃轉留 浦(うら)廻(み)行き廻(み)る
鴨尚尓 鴨(かも)すらに
玉藻乃於丹 玉藻(たまも)の上に
獨宿名久二 ひとり寝なくに
(軽の池の浦のめぐりに沿って泳ぎ回る鴨さえも、玉藻の上にひとりで寝ないのに)

蘇我氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。
姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。
蘇我:『日本書紀』
宗我:『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』
巷奇:『元興寺縁起帳』
<概要>
『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖としてい
るが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよ
く分かっていない。
河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我
里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)、あるいは奈良県桜井市石川町を本拠にした土着の豪族であった。または
(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であったなどの説があるがいずれも定かではない。最近で
は、蘇我氏自身が渡来人であったと言う説は、結構支持されているようでもある。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別
(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。
蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役
割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任され
ていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を
勢力下においていたと思われる。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれ
るようになったことからもそれがうかがえる。
<全盛期>
稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏は既に本宗家の滅亡により勢いをなくしており、蘇我
氏は大連の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と
大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。また、過去の葛城氏や後の藤原氏同様、娘蘇我堅塩媛、小姉君を欽明天皇
に嫁がせることにより天皇家の外戚となっていく(馬子の本居(ウブスナ)が葛城県だったことから、稲目の妻は
葛城氏の出で、その血統に連なることにより、天皇へ妃を輩出出来る一族に連なったとする説もある)。
稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子(そが・の・うまこ)まで引き継がれるが、
用明天皇没後に後継者をめぐる争いがあった。蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子
を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は蘇我氏以外からは大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏
の一極体制となる。
ここから馬子による崇峻天皇の暗殺や、推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがし
ろにするふるまい、蘇我入鹿(そがのいるか)による上宮王家(山背大兄王)の討滅、境部摩理勢の失脚などの専
横ぶりが伝えられており、蘇我氏三代にわたって権力を欲しいがままにしたとされている。
しかし馬子の死後に、蘇我氏に対する皇族や諸豪族の反感が高まって蘇我氏の政治基盤が動揺し、それを克服しよ
うとして入鹿による強権政治に繋がった、という見方も少なからずある。これは『日本書紀』等による蘇我氏に否
定的な記述に対する反論である。
蘇我氏は、645年の中大兄皇子、中臣鎌足らのクーデター(乙巳の変)によって、入鹿が暗殺されるとともに蝦
夷が自殺するとその勢力は大幅にそがれてしまった。
<大化の改新から壬申の乱まで>
しかしながらこの政変はあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の滅亡だけを意味する。クーデターには、傍流
とされた蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂も、中大兄皇子の協力者として関わっていた。
石川麻呂はこの後右大臣に任じられ、娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。石川麻呂自身は649年に
冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた(口封じとの説もある)。
しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からな
いが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持している。
連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側に
ついて敗れ、それぞれ流罪・自害となった。その甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったた
めに蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的
立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは連子の系統が続いた。
<蘇我系石川朝臣>
蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇を輩出した(それぞれ
石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘が母)。しかしながら、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が、持統天皇に排除された夫
の大津皇子に殉死したり、また文武天皇の妻の石川刀子娘が、天皇崩御後に某男との関係を持った事からその身分
を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪される事件なども起こしている。刀子娘の事件
は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除しようとしての藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀とされる。
また万葉集によれば、同じ赤兄の外孫である穂積皇子も但馬皇女との密通が露見して左遷された。穂積皇子は、幸
いにも持統崩御後に知太政官事に出世したが、若くして亡くなった。
不比等の正妻は、安麻呂の娘の蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)である。その故を持って、そ
の弟の石川石足と子の石川年足は、当時嫡流とされた武智麻呂を祖とする藤原南家と結びつくようになる。年足は、
武智麻呂次男の藤原仲麻呂が設立した紫微中台の大弼としてその補佐に当たり、中流貴族としてなんとかその命脈
を保った。しかしながら、元明天皇から孫の首皇子へスムーズに皇位継承されなかったり、元明天皇娘で石川麻呂
の曾孫にあたる吉備内親王が長屋王の変で夫や子と共に自害するなどの一連の政争があり、これは藤原氏と石川氏
との間にも権力闘争があったためとする見方もある。
<衰退>
しかし、その藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退してしまうと、石川氏も平安京遷都後亡くなった正四位上・参議、
石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消した。蘇我氏の血統は、女系で
はあるが藤原氏を通して現代にも伝わっている。五摂家の一つ、近衛家の跡取りで、映像クリエイターである近衛
忠大は不比等・娼子から46代目の子孫にあたる。
<蘇我氏渡来人説>
現在蘇我氏渡来人説というものがあり、学者間で議論となっている。その例を以下に記す。応神天皇の代に渡来
した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物であると言う説。提唱者は門脇禎二。稲
目の父は高麗(こま)、祖父は韓子(からこ)で、継体紀の継体24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生
為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)を娶りて生めるを韓子とす)と書かれていることから生じた
説である。つまり、皇別の武内氏が渡来人系の妻に産ませた子供が蘇我氏になったという説である。(当時の豪
族は、姓は父方から受け継がれる代わりに、名は母方や養育者から付けられるという風習が流行っていたと見ら
れている。)ただし、いずれも決め手となる証拠がないために通説になるには至っていない。
<近年の研究>
2005年11月13日奈良文化財研究所は甘樫丘東麓遺跡で蘇我入鹿邸「谷の宮門」跡とみられる遺構を発掘したと発
表、考古学者たちは『日本書紀』の記述が裏付けられるだろうと期待を寄せている。
<系図>

<第8代孝元天皇>
異称 : 大日本根子彦国牽尊(日本書紀)/
大倭根子彦国玖琉命(古事記)【おおやまとねこひこくにくるのみこと】
生没年 : 孝霊天皇18年 〜孝元天皇57年 123歳
在位期間: 孝霊天皇76+1年〜孝元天皇57年
父 : 孝霊天皇
母 : 十市県主(とおちのあがたぬし)の娘細比売(くわしひめ)【古事記】/
磯城県主(しきのあがたぬし)の娘細媛命(ほそひめのみこと)【日本書紀】
皇后 : 穂積臣(ほずみのおみ)の遠祖鬱色雄命(うつしこおのみこと)の妹、鬱色謎命(うつしこめのみこと)
皇妃 : 伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、河内青玉繁(こうちのあおたまかげ)
皇子皇女: 稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)、
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)
宮 : 「軽之堺原宮」(かるのさかいはらのみや:古事記)/「境原宮」(日本書紀)
【大和の国高市郡:奈良県橿原市大軽(帝王編年記)】
陵墓 : 剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのうえのみささぎ:奈良県橿原市石川町)
古事記に、孝元天皇に五人の皇子があり、それぞれの皇子から子孫が、蘇我、葛城、許勢、平群、波多、紀、など、
28の氏族になったことを伝えている。子孫が多くの氏族に分かれたと伝えられていることから、「元」というのは、
諸氏族の根源という意味であろうと思われる。日本書紀に、開化天皇 五年春二月丁未朔壬子 葬大日本根子彦國牽
天皇于劔池嶋上陵(開化天皇五年春二月六日、孝元天皇を剣池嶋上陵に葬った。) とあり、古事記では単に、御陵
在劔池之中岡上也。(御陵は劔池の中岡の上なり。) と記している。

和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)」、
『古事記』では「大倭根子日子国玖琉命」。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
漢風諡号である「孝元」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。和風諡号である「おおや
まとねこひこ-くにくる」のうち、「おおやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統・文武・元明・元正
の諡号に類例)、「くにくる」は国土(くに)に綱をかけてたぐり寄せる(くる)様子を表すと見て、孝元天皇
の原像は「くにくる(国牽/国玖琉)」という名の国引きの神であって、これが天皇に作り変えられたと推測す
る説がある。

『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。『日本書紀』によると、孝霊天皇36年1月1日に立太子。
孝霊天皇76年2月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝元天皇元年)1月14日に即位した。そして孝元天皇
4年3月12日に宮を軽境原宮に遷した。その後、孝元天皇57年9月2日に在位57年にして崩御した。時に『日本書
紀』では116歳、『古事記』では57歳という[3]。開化天皇5年2月6日、遺骸は「剣池嶋上陵」に葬られた。
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺と伝承される。見瀬町では、牟佐坐神社(古くは「境
原天神」とも)境内が宮跡にあたるとして参道に「軽境原宮阯」碑が建てられている。
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市石川町にある劔池嶋上陵(剣池島上陵、つるぎのいけのしまのえのみささぎ
に治定されている。公式形式は山形。考古学名は中山塚1-3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)。
陵について『日本書紀』では前述のように「劔池嶋上陵」、『古事記』では「剣池之中岡上」の所在とあるほか、
『延喜式』諸陵寮では「劔池嶋上陵」として兆域は東西2町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし
後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴
代天皇・皇族とともに孝元天皇の霊が祀られている。

孝元天皇の在位年について、実態は明らかでない。孝元天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)
までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。
これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続である事、
宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関す
る原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見ら
れること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。

邪馬台国大研究/歴史倶楽部/219回例会・紅葉の明日香村を走る 