Music: Night




	
	大阪本町歴史倶楽部 第219回例会  <紅葉の明日香村を走る>
	
	 今回は、飛鳥と言う声がありましたので、2009年3月1日に行った第140回例会のコースを基本に、サイクリング
	で晩秋の飛鳥を巡りたいと思います。基本的には同じコースですが、 時間あれば寄り道してもいいかと思います。
	予習は第140回例会の内容を見て下さい。(以下のURL)。それでは30日に。

	http://inoues.net/club3/asuka2009.html

	日時 : 平成28年10月30日(日)
	集合 : AM10:00 近鉄線「橿原神宮前駅」東口集合(西口へ出ないようにお願いします。)
	アクセス: (奈良組)
		 09:04発  近鉄奈良駅 近鉄奈良線急行・大阪難波行
		 09:09着 大和西大寺(13分待ってください。)
		 09:22発  同    近鉄橿原線急行・橿原神宮前行
		 09:51着 橿原神宮前  (490円)
		 (大阪組)
		 08:54 大阪発 JR関空快速・関西空港行 190円
		 09:10 天王寺着
		 09:20 大阪阿部野橋発 近鉄南大阪線急行・吉野行 620円
		 09:58 橿原神宮前着
	装備 : 弁当、防寒具、雨具、その他(弁当、お茶、beerは、各自買っておいて下さい。明日香村にはコンビニ
		 ・スーパーの類はありません。最近出来たかも?)
	コース: 以下をめぐります。橿原神宮前にてレンタ・サイクルを借り、飛鳥駅で返却。

	
	このHPでの解説は、今までに我々が訪問した「飛鳥例会」、並びに小生が単独で散策した「飛鳥散歩」のHP
	の内容で構成しています。ご了承願います。


	
	名所旧跡の建ち並ぶ京都と違い、飛鳥にあるのはなだらかな丘陵と田んぼの光景である。甘樫丘から大和三山を
	眺めると、この地が古代の都跡だとはとても信じられないくらい、のどかで懐かしい風景に出会う。それは我が
	故郷の光景のようでもあり、また、全く見知らぬ土地のようでもある。
	「古代人のざわめきが聞こえてきそうな」とよく本の解説にあるが、そんなものは全然聞こえてこない。飛鳥を
	歩くときのイメージは、単なる郷愁とも違う一種不思議な感覚である。歩いて行く足の下に、全てのものが埋ま
	っていると思った時、古代人は我が脳内に脈々と蘇る。



	
	飛鳥時代という時代分けは、1900年前後に建築史・美術史で初めて用いられたもので、その提唱者は関野貞と岡
	倉天心であった。関野は、飛鳥時代を朝鮮の芸術が影響を与えた時代と規定し、推古朝から大化改新ごろまでと
	した。岡倉は、仏教伝来(552年説)から平城遷都(710年)まで、主として飛鳥地方に都があった時代を
	飛鳥時代としたが、「正確なる時代区分」としては、仏教伝来から天智天皇即位(667年)までに限定した。

	関野は唐の影響を受けた「寧楽時代」(白鳳・天平時代)に対して、また岡倉は「天平時代」に対して、それぞ
	れ先行する時代を飛鳥時代と考えたのである。現在、日本史では、岡倉が広く用いたような意味で、推古朝ごろ
	から平城遷都までをこの名で呼ぶことがある。しかし意味が確定しないこともあって、むしろ7世紀前半とか、
	天武朝とか、世紀や天皇の名前を使うことが多い。美術・建築・考古の分野では、現在においても、関野説のよ
	うな意味でこの分け方を使っていることが多い。 
	飛鳥に住んでいた渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になると、飛鳥はにわ
	かに政治・経済の中心地となっていった。新しく受け入れられた仏教文化は、この地にはじめて開花した。天皇
	の宮、豪族の館・邸宅、大寺院などが建ち並び、日本の古代国家は、飛鳥を中心に形作られて行く。


銀輪部隊(古いね!)のオジさん達が勢揃い。

	
	飛鳥地方には、古く4,5世紀に応神(おうじん)天皇や允恭(いんぎょう)天皇の宮があったと伝えられる。
	6世紀前半には顕宗・宣化天皇の宮がつくられたようだ。しかし飛鳥に次々と宮が作られるようになったのは、
	推古天皇の豊浦ノ宮(とゆらのみや/とようらのみや)からである。
	宮は、初め天皇の住まいが主で、同時に政治の場を兼ねていた。天皇の代が代わるごとに移され、一代の間に2,
	3回移ることもあった。国家体制が整備されるに従って、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所が宮
	の中に建てられるようになり、やがて宮の周囲を市街が取り囲み「京」と呼ばれるようになる。
	592年、推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位し、以来約100年間、歴代の天皇は宮を飛鳥の地に集中的に営み、
	飛鳥は政治の中心地となり、大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化が花開いた。この宮の時代に飛鳥寺
	が完成する。仏教が盛んになり、各豪族が競って寺院を建立する。つまり飛鳥時代とは、先立つ古墳時代の後を
	受けて、これらの「寺院」と「宮都」が形成されるようになった時代と言える。そしてそれは、「寧所にいとま
	あらず」という戦乱と混乱の古墳時代に終わりを告げて、中央集権を基盤とした「大和朝廷」がその権力構造を
	盤石のものとしてゆく時代であるとも言えよう。

		


	<飛鳥京>

	飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ) は現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される古代都市の、
	主に飛鳥時代のものを指し示す名称。飛鳥時代の多くの期間は、この地域に天皇 (大王) の宮が置かれており、
	今日的にいえば日本の首都であった。そのことを示して飛鳥「京」という名称が用いられる。後の時代の藤原京
	(や平城京等) のように全体的に計画されて作られたものだとは考えられておらず、また、発掘調査など考古学
	的な成果においても全体像を明らかにするにいたっていないため、地理的な範囲など「飛鳥京」が指し示すもの
	の実態は必ずしも明確ではない。
	そのためか、歴史学や考古学的な文脈においても、飛鳥時代あたりの飛鳥を指すのに「飛鳥京」という名称が必
	ずしも使われているわけではない。このような点については藤原京以降の「〜京」と呼ばれるものとは対照的と
	いえる。ただし、飛鳥の街に対して「京」の字を使った表記は近年になって作り出されたわけではなく、古くは
	日本書紀においても「倭京」や「古京」と表記される例がある。


	<飛鳥京跡>

	飛鳥京跡(あすかきょうあと)は奈良県高市郡明日香村岡にある遺跡。7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀
	などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えられている。発掘調査が進んでいる区域
	では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっており、おおまかには I期、II期、III 期遺構と3つ
	に分類される。
	各期の時代順序と、日本書紀などの文献史料の記述を照らし合わせて、それぞれ I期が飛鳥岡本宮、II期が飛鳥
	板蓋宮、III期 が後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺構であると考えられており、III期 の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄
	御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。
	もともとこの区域には宮らしき遺跡があることは言われており、伝承により板蓋宮の跡だとされてきた。初期の
	発掘調査で見つかった遺構についても国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)とし
	て登録されており、この名称で参照されることも多い。
	遺構の全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。「飛鳥京跡」といえば
	上記の宮殿遺構を指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600メートル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と
	指し示されたり、また、宮殿遺構の北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池
	遺構」と紹介されることもあり、「飛鳥京跡」が指し示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではないよう
	である。


		
     
		浄御原宮復元CGモデル   浄御原宮正殿CG





さぁ、それでは明日香村のサイクリングに出掛けましょう!! 下の飛鳥美人をクリックして下さい。

         






キトラ古墳から飛鳥駅へ。駅前で自転車を返し、橿原神宮駅へ向かう。







	
	飛鳥時代をいつからいつまでと決める事は非常に難しい問題である。仮に「飛鳥地方に都があった時代」と規定しても、
	その都の跡はまだはっきりと確定していない。板蓋(いたぶき)の宮にしても浄御原宮(きよみがはらぐう)跡にして
	も現状では全て「伝」である。つまり伝承なのだ。そうだろうと想定しているだけなのである。
	藤原宮(ふじわらぐう)はようやく全貌が明らかになって、想像以上に大きな都だった事が明らかになったが、ここも
	言ってしまえば飛鳥地方である。ともあれ、およそ6世紀後半から7世紀の終わり頃までの約100年間を飛鳥時代と
	呼んでいるようである。(学者によっては異論もある。)

	秦(はた)氏と並ぶ勢力で歴史の古い渡来一族は東漢(やまとのあや)氏である。百済や高句麗から渡来したと考えら
	れ、本拠地をこの飛鳥の地(現奈良県高市郡明日香村)に定めている。「続日本紀」によれば、8世紀の高市郡の人口
	の実に8〜9割が漢氏一族だと記されている。
	ちなみに帰化人の最大勢力であった秦氏は、4世紀末〜5世紀の頃、新羅や加羅から渡来したとされ、政治権力がまだ
	飛鳥にあったころ早くも京都盆地の開拓に乗り出し、京都から近江一帯に勢力圏を広げた。京都映画村で有名な「太秦」
	(うずまさ)などは典型的な秦氏の居所である。「日本書紀」によれば、欽明天皇の時代全国の秦氏が召し集められた
	ところ、「秦人(はたびと)の戸の数、総(す)べて七千五十三戸」だった。さらに言えば、奈良盆地から大和川沿い
	に西へ下ると河内平野にいたるが、ここも又古くからの渡来人の土地である。中心勢力は文氏(ふみうじ)で、朝鮮半
	島からの渡来であることは確かだが出自は定かでない。一族は、南河内の古市郡あたりを拠点にしていた。

	又、白村江(はくすきえ)の戦いで倭が唐・新羅の連合軍に大敗した後、百済からの大量の亡命者達が近江の神前(か
	んざき)郡や蒲生(がもう)郡に集団で入植した。「日本書紀」には人数まで記録されている。ここらが、縄文、弥生
	から千年以上に渡って行われてきた「渡来」のピークだろうと推定できる。

	早い時期、北九州や山陰に渡ってきた渡来者たちは、都を近畿に定めてからは同胞や末裔をどんどん近畿に呼び寄せた。
	そして、弥生人と融和してたちまち日本人となり、やがて大王を中心とするこの国の一大勢力集団が出現する。そして、
	飛鳥宮、藤原宮、難波宮、平城京、長岡京、平安京と遷都しながら、今日に至っているのだろうと思われる。

	さぁ、反省会だ!









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