Music: twlight zone



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		第207回例会 飛鳥を歩いて古代史フェスティバルへ
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		日時 : 9月27日(日曜日) 10:00近鉄飛鳥駅前集合
		持参 : 弁当、水筒、防寒具、雨具等々
		コース: 近鉄奈良駅 − 飛鳥稲渕宮殿跡 − 都塚古墳 − (昼食) − 
			   石舞台古墳前・フェスティバル会場へ − バスまたは徒歩で飛鳥駅へ
		アクセス:
		    (大阪組)近鉄あべの駅 8:40集合
			 08:50発 − 近鉄南大阪線急行・吉野行 − 6駅・710円 − 09:34飛鳥着

		    (奈良組)近鉄奈良駅 8:30集合
			 08:35 − 近鉄奈良線快速急行・神戸三宮行 − 2駅 − 08:40着大和西大寺
			 08:49発 − 近鉄橿原線急行・橿原神宮前行 − 7駅 − 09:18着橿原神宮前
			 09:30発 − 近鉄吉野線急行・吉野行 − 2駅・580円 − 09:34飛鳥着

		概要 : 
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近鉄吉野線「飛鳥駅」前にも彼岸花は咲いている。確かに妖しい赤であるが、最近は白い彼岸花もあるのだ。



例会の集合時間にまだ来ないXXさんを待つ。







本日のオールキャストで御座います。本日もご覧頂いて有り難う御座います。このフレーズ知ってる人もあんまりおらんやろね。







高松塚古墳を目指して歩き出す。ちょっと入り口で迷った。







今日はもう高松塚古墳はパス。



上の写真をクリックして貰えば拡大します。文武天皇陵です。




	第42代 文武(もんむ)天皇

	別名: 軽(珂瑠:かる)、倭根子豊祖父(やまとねことよおおじ)/天之真宗豊祖父(あまのまむねのとよおおじ)
	父:  草壁皇子 第2子
	母:  元明天皇(天智天皇皇女:阿閉[あへ]皇女)
	生没年:天武天皇12(683)〜慶雲4(707)25才
	在位: 文武天皇元年(697)〜慶雲4(707)
	皇后: 宮子(みやこ:藤原不比等の娘)
	皇妃: 紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)、石川刀子娘(とねのいらつめ)
	皇子女: 首親王(おびとしんのう:後の聖武天皇)
	皇居: 藤原宮(ふじわらぐう:奈良県明日香村)
	御陵: 檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのみささぎ:奈良県明日香村)

	「飛鳥」の駅から、駅前の道をまっすぐ行くと有名な「高松塚古墳」へ来る。歩けば15〜20分ほど、自転車なら5分だ。
	飛鳥は秋真っ盛り。天武天皇の孫で、草壁皇子(追尊岡天皇)の第二子。漢風諡号は文武天皇、和風諡号は天之真宗豊
	祖父天皇。天武天皇崩御時に、実子草壁皇子を即位させんがため、持統天皇は大津皇子を謀反の口実で死に追いやるが、
	その草壁皇子も神経を病んで持統3年に死んでしまう。結局持統天皇は、孫で草壁の遺児「軽皇子」に皇位を継がせる
	ため、自ら即位し中継ぎとなる。持統10年7月に高市皇子が死去すると、15才の軽皇子を立太子に立て(『釈日本
	紀』私記)、翌月譲位する。




	この帝の治世は、大宝律令の制定による律令国家の建設が一応の完成をみた時代であり、そのための多くの施策が施行
	された。文武2年(698)の諸国郡司の任命、諸国田疇(でんちゅう)の巡監、公私奴婢の逃亡禁止対策(笞[ち]法)
	など、耕地関係の整備や、文武3年には鋳銭司を設置し、同4年巡察使を東山道に遣わすなど、中央集権国家の基礎を
	固めている。
	また同じ年、刑部親王・藤原不比等らに律令整備を命じ、大宝元年(701)年『大宝令』が完成する。翌年これを施行し、
	官名位号を改正した。また、知太政官事(ちだじょうかんじ)の任命や、鍛冶司(かじし)に諸国印を造らせるなどし
	て田租制度の改革にも意を注ぎ、大宝令以後の律令制度の定着に努めた。正丁の歳役庸の法、義倉戸粟法、皇親籍等も
	改正し、諸制の改革を行いながら、一方では、南島にも使を派遣して薩摩・種子島を征討するなど版図拡大も図ってい
	る。
	藤原不比等の女宮子を皇后とし、首皇子(聖武天皇)をもうけ、同母姉に元明天皇・吉備内親王がいる。『懐風藻』、
	『万葉集』に御製の歌があり、温厚な人柄で中国の書籍にも明るく、また弓術にも秀でていたという。父草壁皇子と皇
	子時代によく行った大宇陀の阿騎野で軽皇子が猟りをする場面を柿本人麻呂は歌に詠んでいる。尚、役小角が讒(ざん)
	言で伊豆に流されたと言うのもこの帝の御代である。




	慶雲4(707)年、文武天皇は重病に陥り25才の若さで崩御する。死に際し、母(のち元明天皇)に譲位の意思を示して
	死去したとされる。遺体は飛鳥岡で火葬に付され、檜隈安古山陵に葬られたと「続日本記」にある。
	現文武天皇陵墓は明日香村高松塚古墳の東方向2,3分の所(飛鳥駅より徒歩約15分)にあるが、ここから北の小高い
	丘に「中尾山古墳」と呼ばれる小さな古墳があり、享保19(1734)年刊行の「大和志」という書物によれば、ここが文武
	天皇の陵とされているそうである。
	一般に明治政府の御陵裁定はその根拠が極めて薄弱で、一体どんな理由で各天皇陵を比定していったのか全く資料を残
	していないが、考古学界では例によって、内部の石槨の様子などから、中尾山古墳の方が文武天皇陸であった可能性が
	高いとされている。

	飛鳥も京都と並んで秋には観光客で賑わう。京都と違って田舎道が多いためサイクリングが花盛りである。中学、高校
	生のグループや、OL達のハイキング、中年夫婦やグループの歴史散策などで、おそらく1年中で一番賑わう季節だろ
	う。 [天皇陵巡り/ 文武天皇より転載]





飛鳥稲淵宮殿跡を探して「稲淵(いなぶち)」の集落を目指す7。




	飛鳥稲淵宮殿跡(あすかいなぶちきゅうでんあと)は、奈良県高市郡明日香村大字稲淵(稲渕)に所在する飛鳥時代の
	宮殿跡である。本宮殿跡は、飛鳥川の上流、稲淵川左岸の平坦な水田地にある。
	本宮殿跡の宮名については、『日本書紀』孝徳天皇の653年(白雉4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)が難波宮から飛
	鳥宮に帰り、一時期過ごした「飛鳥川辺行宮」(あすかかわべのかりみや)にあてる説があるが、なお、今後の検討が
	必要とされている。
	国営飛鳥歴史公園祝戸地区の駐車場建設予定地とされたことから発掘調査が実施され、極めて計画性・規格性に富んだ
	整然とした建築遺構であることが判明、この遺跡が7世紀後半に営まれた宮殿跡であるという推定のもとに、国の史跡
	として1979年(昭和54年)3月20日に発掘部分のみが指定され、その周辺が1981年(昭和56年)5月に追加指定された。

	発掘調査は、1976年(昭和51年)と1977年(昭和52年)の両年に、奈良国立文化財研究所によって行われ、遺跡は南北
	約170メートル、東西約60メートルの広さであることが判明した。
	主な遺構は、東西棟2軒、南北棟2軒の計4軒の掘立柱建物と建物の間に敷き詰められた石敷きである。東西棟は発掘地
	の中央に位置し、東西5間以上、南北4間以上という大規模な建物である。東に約4メートル離れて、南北に2軒が並ぶ
	南北棟を配している。これら建物は、相互に柱筋を揃えるなどの規格性に優れ、建物を等間隔で配置するなど、きわめ
	て計画的に建てられていることが分かる。これらの規格性・計画性を考慮に入れて建物の規模や配置を復元すると、中
	央の建物は桁行9間(東西総長24.6メートル)、梁行4間(南北総長10.2メートル)の四面廂付の建物になり、北にあ
	る東西棟は桁行14間(総長24.6メートル)、梁行4間(8.8メートル)の南片廂つき建物になる。東の2軒の南北棟は、
	梁行き4間(8.8メートル)桁行15間(26.4メートル)の西片廂付建物になる。
	この復元により、西側にも東側の2軒と同様な南北棟があったと推測でき、中央の四面廂付建物を正殿とし、その北の
	建物を後殿、東西の南北棟を脇殿とすると、東西対称の整然とした建物配置が考えられる。建物の年代は、出土土器な
	どから7世紀中頃に造営され、同世紀末に火災により焼失したことが分かる。



	と言う事だったのだが、しかしながら結論から先に言うと、我々はこの飛鳥稲淵宮殿跡を到頭発見できなかったのであ
	る。棚田や坂田寺跡はあったのだが、宮殿跡は地元の人もよく知らないようだった。おそらく、石碑か簡単な説明板が
	ポツンとあるだけなのだろう。地図を頼りに大分探したが、結局諦めた。何時の日かまたリターンマッチしたいものだ。



切り通しの峠を越えると目の前に棚田が広がっていて、大勢の観光客でひしめいていた。





地元民が作った案山子(かかし)がそこかしこに立っていて、棚田と共にこの集落の名物になっているようだ。







最近は俄カメラマンが増えた。特にオバハンのカメラマンが多い。高そうなカメラに大きなレンズを付けて歩き回っていた。





交通事故の後遺症に悩んでいる高野さんも、前回に続き久々の参加である。数年ぶりですな。



何をしているのかわからん案山子も多い。ま、案山子だもんね。





橋本さんの頭の上の、川に掛かる大きな綱は、良くTVのニュースでも見る。下の説明参照されたし。





飛鳥稲淵宮殿跡はこのあたりじゃなかろうかと検討するがこの地図には載っていない。
橋の下で葡萄を売っていたおじさんもよく知らなかった。「ブドウ買うてや」ばかり。





飛鳥の石舞台方面への道すがらに「坂田寺跡」はあった。

	坂田寺(さかたでら)跡  鞍作一族の氏寺とされる坂田金剛寺跡

	豊浦寺と並ぶ飛鳥時代の尼寺の跡で、鞍作多須奈またはその子・止利仏師が造営したといわれている。藤原京の頃は、
	飛鳥五大寺の一つに数えられ、仏教創成期において重要な役割を果した寺院である。

	所在地:奈良県高市郡明日香村坂田 アクセス:石舞台から徒歩15分 
 
	石舞台から県道15号線(桜井明日香吉野線)に沿って南西方向に15分ほど歩くと坂田の集落に入る。坂田寺跡は
	坂田の集落を入った左手の坂道の脇にある。「坂田寺跡」とはいっても、斜めになった石柱一本と案内板が一枚立っ
	ていることで、やっとその跡地がわかる程度で、何もなければ段々畑の一つとして見過ごしてしまいそうだ。  
	坂田寺は、鞍作氏の氏寺として建立された尼寺である。もともとこのあたりは朝鮮半島から渡来してきた鞍作氏が根
	拠地としたところと思われる。『扶桑略記』に引く延暦寺の僧・禅岑が書き残した書によると、半島から渡来してき
	た司馬達等(しめのたちと)は、大和国高市郡坂田原に草堂を営み本尊を安置して帰依礼拝したという。世を挙げて
	この仏像を大唐神といった。
  



	■親子それぞれに創建説話を持つ坂田寺

	司馬達等の一家は仏教に帰依したファミリーだったようだ。達等自身は仏教創成期の頃蘇我馬子に協力して仏教興隆
	に尽力している。その子の嶋は敏達13年(584)、年11才で出家して善信尼と称した。我が国初の尼僧である。
	同時に出家した渡来系氏族の娘二人と一緒に、4年後には百済に戒律を学ぶため二年間留学している。  
	司馬達等の子の鞍作多須奈(たすな)は、用明2年(587)4月、天皇の病が篤く死の床にあったとき、天皇の為
	に出家修道し、また丈六仏像および寺を造ることを奏した。
	そして南淵に寺を作り木彫りの丈六仏像、挾侍菩薩を安置したとされる。これが坂田寺の始まりとして『日本書紀』
	に記録されている。多須奈は信心深い男だったらしく、崇峻3年(590)10月に出家して徳斉法師と名乗った。  
	『日本書紀』は、推古紀で別の創建伝承と伝えている。司馬達等の孫にあたる鞍作止利は推古13年(605)4月、
	天皇の命により飛鳥寺に安置する銅繍丈六仏像各一躯を造ることになった。2年後に仏像が完成したが、金銅の丈六
	仏像を飛鳥寺の金堂に搬入しようとしたとき問題が生じた。仏像の高さが金堂の戸より高くて、戸を壊さない限り搬
	入できなかった。だが、どのような方法を用いたのか不明だが、止利は戸を壊さずに堂に入れることができた。  
	こうしたことがあって、推古天皇は鞍作止利に大仁の位を与え、さらに近江国坂田郡の水田二十町を賜った。親子三
	代にわたって仏教興隆に尽くした報償の意味合いもあった。
	止利はこの田を以て天皇のために金剛寺を造った。これが南淵坂田尼寺であるという。どちらの伝承が正しいのか不
	明であるが、坂田寺は持統紀にも飛鳥五大寺の一つとして登場しており、仏教創成期において重要な役割を果した寺
	院だったことは容易に想像できる。寺院建立に莫大な資材を必要とするのは、昔も今も変わりはない。であるならば、
	水田二十町を賜った止利が、そこからの収穫を資金源として寺を建立したと考えるほうが、より現実的かもしれない。 




	■1999年の発掘調査では8世紀後半の建物跡が発見されている

	坂田寺跡では、1972年以降の奈良国立文化財研究所による調査で、10世紀後半の土砂崩れで倒壊した回廊の一
	部や東回廊につながる金堂跡と銅銭などの埋納品が見つかっており、北側には中門があると推定されていた。  
	1999年7月、明日香村教育委員会は、その年に行った発掘調査で奈良時代の中心建物とみられる基壇建物2棟の
	跡が出土したと発表した。2棟は回廊で囲まれた内側に斜めに並んでおり、古代寺院では類例のない特異な伽藍(が
	らん)配置だったことが明らかになった。同村の教育委員会は「南側に山が迫り、北側が低くなる地形的な制約から
	変則的な配置になった可能性が高い」としている。基壇建物跡は仏堂か塔の可能性があるという。  
	また、回廊内側の隅柱の礎石も発掘し、これにより回廊の規模は東西63m,南北55mであることが判明した。
	しかしながら、現在までのところ、鞍作多須奈または鞍作止利が創建したと伝えられる寺とどのように関連するのか
	は不明である。 






	<都塚古墳> 明日香村で石室内の石棺が見れる唯一の古墳

	都塚古墳は、明日香村坂田ミヤコの河岸段丘の上に位置しており、石舞台古墳からは400mほど南東にあり、徒歩
	10分ほどでアクセスできる。しかし、この古墳まで足をのばすハイカーはほとんどいない。元日の朝、この古墳で
	金の鶏が鳴くという伝説から「金鶏塚」という別名を持つ。明日香村には多くの古墳が点在しているが、横穴式石室
	に家型石棺を納められているのを見学できるのは、この古墳だけである。










	<石を階段状に積み上げたピラミッド形の方墳だったことが判明> NHKのニュース報道
 
	平成26年8月、都塚古墳に新しい発見があった。前年度から明日香村教育委員会と関西大学が合同で墳丘の発掘調
	査を実施してきたが、石を階段状に積み上げたピラミッドのような極めて珍しい形をしていた墳丘だった可能性が高
	いことが分かった。 
	平成25年度からの調査では墳丘上や周囲に約100平米を調査区を設置して発掘し、東西と北側の3カ所で墳丘の
	裾を確認し。これまで1辺約28mと想定されていた裾が41〜42mになることが判明したという。墳丘は南から
	延びる尾根の先端の基礎層を削り、盛り土をして構築されていた。墳丘の最下段は斜面に川原石が 敷かれ、テラス
	面は幅が約6mの広さがあった。 

	墳丘の東側では、段状の石積みが4段見つかった。各段の高さは30〜60cmで、こぶし大から人頭大の川原石が積
	み上げられていた。最下段のテラスまでさらに2〜3段続くと予想され、もともと7〜8段あったと想定される。
	したがって、高さは4.5m以上に復元できるという。 
	ピラミッド形の古墳は今まで類例のない墳丘で、マスコミに公表されると、大きな反響を呼んだ。8月16日に行わ
	れた現地説明会には約4100人の古代史ファンが見学に訪れた。蘇我氏と高句麗との関係に着目して、京都橘大学
	の猪熊兼勝名誉教授は、都塚古墳は「強大な権力を握った豪族の蘇我稲目(506-570)が埋葬されたのではないか」と指
	摘している。 









	この古墳もかって盗掘を受けたことがあり、封土も大半が失われている。昭和42年(1967)に発掘調査が行われ、
	墳墓の規模と形は、直径30mほどの円墳、または一辺28m程度の方墳と推定された。さらに石室の全体が明確に
	なった。その内容は以下の通りである。 

	●埋葬施設;南に開口した両袖式横穴式石室で全長は12.2m、羨道はが長さ6.9m、幅1.9m、高さ1.9m、
	 玄室は長さ5.3m、中央部幅2.55〜2.93m、高さ3.55mを測る。花崗岩の自然石を積み上げて石室が
	 造られているが、2段目からはやや内側に傾斜している。 
	●石棺:花崗岩質片麻岩による刳抜式家形石棺。長さ2.36m、幅1.58m、高さ0.64m 石棺の蓋に6個の縄
	掛突起を持ち、その形状からこの古墳の築造時期は6世紀後半から6世紀末と考えられている。 




	出土物として鉄鏃、刀子、小札、須恵器などが知られている。石棺の前、入口寄りに5個の棺台と見られる石があり、
	周辺から鉄釘片や顔料が検出されたことから、もう一つ木棺が安置されていたと考えられる。 
	残念ながら被葬者は分からない。しかし、冬野川の流域は蘇我一族の奥津城ではなかったかと考えられるほど古墳が
	多く、細川谷古墳群を形成している。あるいは、渡来系一族の奥津城であった可能性もある。たとえば坂田の集落は
	かって鞍作一族が居を構えたところである。その氏寺である坂田尼寺跡は、都塚古墳からそれほど隔たっていない眼
	下にある。一家を連れてこの地に移り住んだ司馬達等を、被葬者と想定するのもあながち不可能ではない。 

















都塚古墳から稲淵の棚田方面を見る。
















	<飛鳥古代史フェスティバル>

	昨年に続き、今年も石舞台古墳前広場(嶋大臣:蘇我馬子の屋敷跡と言われる場所)にて開催された。今年は、佐賀
	県吉野ヶ里遺跡とをINTERNETで結び「邪馬台国・NET論戦」となる。吉野ヶ里の九州説論者と飛鳥・石舞台の近畿説論
	者がNET中継で熱いバトルを繰り広げる。と言う設定だったのだが・・・・・。

	吉野ヶ里出演者: 高島忠平、関谷敏正ほか
	明日香村出演者: 石野博信、西川寿勝ほか




	今年は吉野ヶ里側出演者の中に、全邪馬連(全国邪馬台国連絡協議会)の九州支部長である関谷敏正氏を始めとして
	全邪馬連の会員が4人も出演し、明日香村側の石野博信氏(上、左端)、西川寿勝氏(上、右端)の両名は全邪馬連
	の顧問なので、東京から鷲崎会長も来阪して本日この飛鳥へ来ている。



司会はNHKの(たぶん)女子アナと、関西人なら誰でも知ってる
タレントの浜村淳だったが、浜村淳が結構歴史通だったのには驚いた。









吉野ヶ里から高島忠平氏が喋っている。隣に座っているのが全邪馬連・九州支部長の関谷氏。





	上が西川寿勝氏。大阪府教育委員会の文化財保護課に勤務し、大阪中を掘りまくっている。昔二人でカラオケに行った
	事があるが、一昔前の「邪馬台国近畿説」を唱えるので閉口する。今時「三角縁神獣鏡」でもあるまいにと思うが、11
	月に鷲崎会長と朝日新聞のXX記者の三人で、中国から出土したという「三角縁神獣鏡」を見に行くそうだ。返答に窮
	するとすぐ「素人はこれだから」と逃げる。










「どうもスイません」って、お前は林家三平か!!




	途中で NET回線がダウンし、邪馬台国バトルは中断。結局回復せず論争は尻切れトンボに終わった。だから奈良新聞の
	柴田君には「前もって back-up回線を用意しときや」と言っといたのに。「そんな予算ありませんよぉー」とか言って
	るからこういうことになるやんか。後で彼に電話したら、役員が佐賀へお詫びに行くことになったそうだ。本当は、最
	初柴田君が吉野ヶ里へ行くことになっていて、「嬉しいなぁ、始めて吉野ヶ里へ出張できます。」と喜んでいたのだが、
	直前で急遽、「お前は奈良に残れ」と言われたそうで腐っていた。それでDOWNしたのかな、ははは。



全員でバスで「橿原神宮前」(八木だったかな?)へ出て、そこで西川君、石野先生達を合流して反省会となった。



八木でしたね。後ろに八木駅とかいてある。上写真中央が全邪馬連の鷲崎会長。



これが我が歴史倶楽部の精鋭(?)八人組。



我々と石野先生の取り巻き(失礼!二上山博物館の友の会会員さん達)
を併せると20人近くになったが、近鉄八木店の食堂街にうまいこと入れた。





	西川君は口が巧いので、我が倶楽部の連中も説得され掛かっている。九州説の高野さんは「自信が揺らいできたな」など
	とけしからん事を言っていた。西川君は、今日のために作ったという6号のスケッチブック(資料がベタベタ張ってあっ
	た)を河内さんにプレゼントしていた。河内さん、そんなもんで騙されたらアキマヘンで。





夕陽が二上山に落ちて、八木盆地に夜の帳(とばり)が降り始めた頃解散。またお会いする機会があれば宜しく。





近鉄電車で阪へ帰る我々。お疲れ様でした。また次回も宜しく。







邪馬台国大研究/歴史倶楽部/第207回例会案内